その2の1「侵食とその対処」
イツキとアンコの精神が、現実へと戻って来た。
とは言っても、完全に移行していたのはイツキだけだ。
アンコは心の一部を、呼び戻しただけだった。
イツキ
「…………」
イツキは、大きな椅子の上で、無表情だった。
何も感じていない。
そう思っているのか、思われたいのか。
アンコ
「むくれるなよ。アマノ」
そう言って、アンコは生徒たちを見回した。
生徒たちの大半は、まだ目を閉じている。
だが、何人かは覚醒していた。
イツキよりも先に、迷獣に敗れたということだ。
敗れるにしても、内容というものが有る。
時間だけを見て、判断することは出来ないが……。
彼らは良い結果で無かっただろう。
表情がそう物語っていた。
不機嫌そうな、あるいは不安そうな顔だ。
誰もがプロの『シフター』になれるわけでは無い。
狭き門だ。
落ち零れるのは、イツキに限った話では無い。
アンコはそう考えていた。
イツキ
「別に……」
イツキは表情を変えないまま、口を開いた。
イツキ
「授業の内容が、全てでは有りませんからね」
アンコ
「言うねぇ」
タクミ
「ッ……!」
イツキのクラスメイト、ノガミ=タクミが椅子から立ち上がった。
タクミの身長は、182センチ。
線の細い美少年といった感じのイツキに対し、くっきりとした、迫力の有る目鼻をしていた。
目は二重で大きく、鼻は高い。
髪色は黒。
トーキョーの人間にしては珍しい。
タクミの茶色い瞳が、イツキを睨みつけていた。
タクミ
「スカしてんじゃねえぞ……! この『ダン無し』野郎が……!」
ダンジョン無し。
略してダン無し。
ダンジョンを持たないイツキに与えられた、二つ名だった。
クラスの全員が、その呼び名を知っていた。
いや、学校中に知れ渡ってすらいる。
そこに好意は無い。
ただの蔑称だった。
嘲りの言葉だった。
タクミは、他の生徒を嘲ることが出来るほど、優秀では無い。
今この場に居るということは、ダンジョンで失敗をしたということだ。
制限時間まで、ダンジョンで生き延びることが出来なかった。
敗者だ。
タクミの態度は、八つ当たりだった。
タクミは、上手く行かないダンジョン攻略に、焦りを感じていた。
一方でイツキは、外見上はひょうひょうとしていた。
そんなイツキの態度が、タクミの怒りを燃え上がらせた。
お前は悔しいと思わないのか。
闘志は無いのか。
同じ失敗をした者同士なのに、どうして開き直っているのか。
落ち零れなのに。
タクミには、イツキが理解出来なかった。
そして、気に入らなかった。
失敗するということは、夢への道が遠ざかっているということだ。
そのことを、何だと思っているのか。
タクミは歩き、イツキの前に立った。
タクミの方が、身長が高い。
タクミがほんの少し、イツキを見下ろす形になった。
イツキ
「…………」
アンコ
「喧嘩は止めろ。私の授業中にはな」
さすがにアンコが、止めに入った。
暴力沙汰にでもなったら、彼女の責任問題になってしまうからだ。
青春したいなら、昼休みか放課後にやれ。
それがアンコの本音だった。
タクミ
「チッ……」
タクミは大人しく引き下がった。
元々、暴力まで振るうつもりは無かったのだろう。
ただ、不満をぶつける先が欲しかった。
それだけの話だった。
タクミ
「…………」
タクミは、自分の席に腰を下ろした。
そのとき……。
アンコのダンジョンを、悪意が襲った。
アンコ
「ぐ……!」
突然に、アンコが膝をついた。
イツキ
「先生……!?」
イツキがアンコに駆け寄った。
珍しく、彼の表情は崩れていた。
意識が有る生徒の何人かが、イツキに続いた。
イツキ
「持病ですか?」
イツキが尋ねた。
アンコ
「いや……」
アンコは、膝をついたまま答えた。
アンコ
「『夢魔』だ……」
アンコ
「夢魔の『ダイアブロシス』……」
アンコ
「クソ……。ついてないな……」
タクミ
「そんな……!」
心層には、3種の魔獣が住む。
3つの獣。
天獣、迷獣、夢魔。
天獣は、基本的には人に害を与えない。
迷獣も、こちらが何もしなければ、無害だ。
ダンジョンに侵入する者以外には、攻撃を加えない。
だが、夢魔は違う。
積極的に、人を害した。
手段は、人々のダンジョンを襲うこと。
そして、人の『ダンジョンコア』を壊し、食らう。
コアを破壊されれば、心が死ぬ。
夢魔とは、人の心を殺す魔獣だった。
ダイアブロシスとは、夢魔の侵入を意味する言葉だ。
今、アンコのダンジョンに夢魔が居る。
そして、夢魔はやがてアンコを殺す。
ダンジョンコアを食らうことで。
今、アンコの生命が脅かされていた。
イツキ
「オクカワ」
イツキは、クラスメイトのオクカワ=コータに声をかけた。
コータ
「えっ?」
コータ
(こいつ、俺の名前覚えてたのか?)
イツキ
「他のダンジョン科のクラスに、このことを伝えてくれ」
イツキ
「一応は恩師だ」
イツキ
「タダで協力してくれるシフターが、居るかもしれない」
コータ
「っ……ダン無しに言われなくても、分かってるよ」
イツキの言動は、合理的だ。
だが、ダンジョン無しに命令されるのは、なんとなく癪に障った。
コータはイツキに、反発する様子を見せた。
だが、その言葉には従った。
コータだって、アンコに死んで欲しいわけでは無い。
すぐに、特別教室の外へと、駆け出して行った。
イツキ
「ノガミは、警察に連絡してくれ」
タクミ
(こいつ、俺の名前覚えてたのか?)
タクミ
「けど、警察なんか……」
イツキ
「念のためだ。頼む」
タクミ
「……指図すんなよ。ダン無しが」
そう言いつつも、タクミは制服のポケットから、携帯を取り出した。
そして、アンコから距離を取ると、110番を押した。
イツキ
「先生」
イツキはアンコに尋ねた。
イツキ
「『コマーシャル』を呼びますか? それとも、『ボランティア』を」
アシハラには、夢魔に対抗する組織が、3つ有る。
1つは、警察の夢魔対策課。
1つは、コマーシャルシフターズ。
1つは、ボランティアシフターズ。
コマーシャルシフターズは、金銭を目的とした、営利団体。
ボランティアシフターズは、夢魔の被害を減らすのを目的にした、非営利団体だ。
コマーシャルシフターズは、高い金を取る。
その代わり、他の団体よりも迅速で、優秀だった。
安全だけを考えるなら、コマーシャル1択となる。
だが、安くは無い。
中流家庭が、ポンと出せるような金額では無い。
命か、金か。
夢魔に襲われた者にとっては、悩ましい問題だった。
アンコ
「いいよ……」
アンコは苦笑した。
その顔色は悪い。
夢魔に襲われて、平気なはずが無かった。
アンコ
「夢魔くらいなんだ……。自力で何とかするさ……」
イツキ
「分かっているはずです」
アンコ
「…………」
イツキ
「夢魔にダンジョンを侵されると、マインドボディは劇的に衰弱する」
イツキ
「それに、夢魔は強い」
イツキ
「たとえ先生でも、1人じゃあ夢魔には勝てません」
アンコ
「やってみなくちゃ、分からないだろ?」
イツキ
「……お金、無いんですか?」
アンコ
「悪かったな」
イツキ
「いえ」
イツキ
「独身なのに、貯金無いんだなぁと思っただけです」
アンコ
「悪かったなぁ!?」
イツキ
「ノガミ。ボランティアにも連絡してくれ」
タクミ
「っ……!」
タクミは眉根を下げた。
金が無いのなら、仕方のない話だ。
だが、ボランティアによる夢魔撃退率は、コマーシャルよりも圧倒的に低い。
今日、見知った先生が死ぬかもしれない。
タクミは、そう予感せざるをえなかった。
タクミ
「……分かった」
動揺しながらも、タクミは承諾した。
アンコ
「そろそろ良いか? シフトしても」
イツキ
「本気ですか?」
アンコ
「他人に自分の命、任せられるか」
イツキ
「……仕方ないですね」
イツキ
「ただし、条件が有ります」
アンコ
「条件?」
イツキ
「俺も一緒にシフトします」