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卒業に泣く 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 おお、この学校早いねえ。たぶんこれ、卒業式の歌の練習だよ。懐かしいな。

 こーちゃんは、卒業式で何を歌ったか覚えてる? 僕は「大地讃頌」だったね。知っている限りだと、僕の周りの学校は全部これを採用していた気がするなあ。先輩たちを送り出す時もこれが歌われたから、耳にすると「ああ、卒業なんだなあ」としみじみした気持ちになるんだよね。

 僕たちはいつか、慣れ親しんだ環境に別れを告げていかなきゃいけない。ずっとその場にいたかったとしても、周りがそれを許してくれないんだ。そして僕たち自身の身体も、日々、成長や衰退をしながら過ごし、いささかも留まろうとしない。「時間」という、後戻りできない力を感じざるを得ないよね。

 この時間に関して、僕は昔、少し不思議な経験をしたことがある。その時の話、聞いてみないかい?


 僕が一番憂鬱だったのは、小学生の時のお別れだったな。当時は携帯電話のような、手軽に相手に連絡できる手段がなかったからね。僕は相手の家に直電話をかけるのに、すごく勇気のいる人間だったし、友達の家で遊ぶ機会は、高学年になるとだいぶ少なくなっていた。

 聞いた話だと、中学校に入れば、小学校のグループより中学校のグループが自然とでき、その輪に入っていくとのことだったけど、僕は不安で仕方なかった。新しい環境が必ずしもいいものになるとは限らない。いじめや仲間外れに遭うかもしれない。

 そんな可能性を持つくらいなら、ずっと小学生のクラスのままでいいや。そう思いながら、卒業までの日を過ごしていったんだ。

 

 そして僕たちの卒業式の前日。全校生徒で学校中の大掃除が行われた。窓、廊下、下駄箱、トイレ……これまでの感謝の気持ちを込めて、念入りに手を入れるよう指示を受ける。

 僕ね、こういう区切りを前にした特別な行いって、苦手なんだわ。「ああ、お別れの時が近づいてきている」って感じちゃって、つい涙ぐんできちゃうんだよね。

 いつものように過ごして、変わらない態度でお別れを告げていく。そっちの方が、個人的にずっと気が楽だった。だからあまり掃除に乗り気になれなかったんだ。これをしっかりやってしまったら、いよいよお別れをしなくちゃいけないんだ、と感じちゃって。

 だから、わざと手を抜いた。僕が任されていたのは自分たちのクラス前の廊下だったけど、一部をあえて掃いたり拭いたりせず、そのままで残しておいた。そうしておいたら、ずっと今のままでいられるような気がしてね。子供なりのささやかな抵抗だったよ。

 

 やがて掃除が終了、全員がクラスに集合する。すでに机の上は、ロッカーの中へしまいっぱなしだった絵の具や裁縫セットなどで、みっちり埋まっていた。

 これもまた、目前に迫った「卒業」を感じさせる。持って帰ってしまえば、おそらく彼らは二度と、この校内へ戻ってくることはないんだ。

 僕によって、連れ去られていかざるを得ない彼らの立場を思い、ひとりしんみりしているところで、先生の声。


「みんな、掃除大変お疲れ様。きっと学校も喜んでくれているよ。6年間の恩返し、これでちゃんとできたはずだ」


 ――本当に? 本当にそうだろうか?

 僕は口には出さなかったが、頭の中は「?」マークでいっぱいだった。僕たちと別れることを学校は惜しんではくれないのだろうか。こうして袂を分かつ準備をするのが、学校にとってありがたいことなのだろうか。


 湿っぽい考えは、そのうち思考回路さえもカビ臭くさせるらしい。

 無性に帰りたくなくなった僕は、ホームルームが終わると、みんなが次々に下駄箱へ向かう中、教室前のトイレの個室へ。諸々の荷物たちを床に下ろし、「存分にお別れをしなよ」と声をかけてやる。僕自身も下ろした洋式の便座に腰かけて、6年間の思い出を手繰っていた。

 特別な行事こそ真っ先に浮かぶかと思ったけど、僕が想像したのは、日常の他愛ないシーンがほとんど。

 教室のカーテンを身体に巻き付けて「ヒーローごっこ」とのたまう。給食の牛乳、ゼリーをめぐり、じゃんけんの死闘を繰り広げる。ボール遊びをした時、最後に触った人が片付けるルールで、どの球技も終わり一分はドッヂボールと化していた……。

 こんなお馬鹿も、この学校ではもうできない。いや、ひょっとしたらもう生涯できないかもしれない。もっともっと、やっておけば良かったなあ。

 トイレの天井とそこに渡される蛍光灯を見上げながら、ぼんやりそんなことを考えていた時だった。

 

 これまでついていた蛍光灯が、ぱっと一斉に消えた。まだ完全に陽は沈んでいないとはいえ、光が赤く見えるほど西に傾いている。

 それでもトイレを照らしてくれるのは、高めの位置についた窓から入ってくる、一筋のみだ。先ほどまで照明に頼っていた僕の目は、突然訪れた暗さに戸惑うばかり。

 ほどなく、「ごぼり」とトイレのすぐ外で水音が立った。ちょうど水中から上ってきた大きなあぶくが、水面で崩れる時の音にそっくりだ。それに続いて、ちゃぷちゃぷと水が波打つ音が続く。

「誰かが、水を汲んだバケツを置いていったのか?」と思ったけど、違う。ほどなく、個室のドアのすき間から、トイレのタイルを覆う大量の水が流れ込んでくるのが見えたんだ。

 その勢いたるや、海の潮が満ちてくる様を思わせる。白い泡に先陣を切らせ、あっという間にトイレの床を覆いつくした水は、そこに開いている排水口など無きがごとし。どんどん「かさ」を増してくる。

 とうとう、僕が入っている個室のへりを乗り越え、床を濡らし始める始末。慌てて荷物を引き上げ、外へ出ようとドアを開けるや、どっと水がすき間から押し寄せてきたんだ。

 信じられないことだった。水はすでに、この個室のドアとほぼ同じ高さまで満ちていたにもかかわらず、押し開ける時にほとんど重さを感じなかったんだ。それでいながら、僕の身体を押し、便器の後ろの壁に存分にはりつけにして、動けなくしてしまう。

 靴から服からズボンからどんどん水が身体に染みいる様子は、いつぞやの着衣水泳を思い出させる。水かさは更に増し、いよいよ僕の口を塞ぎかける寸前、「誰かいるのか?」とトイレの外から声がかけられた。

 

 ぱっと明かりが点けなおされる。それと同時に、襲い掛かっていた水はふっと姿を消した。

 床より少し高い位置で押し付けられていたらしい僕は、そのまま落下。便器の水を流すレバーに、盛大な尻もちをお見舞いする。勢いよく水の流れる音をバックに、食い込んだ尻をさする羽目になった。

 トイレに入ってきたのは、クラスの担任の先生だ。個室の中でうずくまる僕の姿を認めると、腕を取って外へと引っ張っていく。もはやトイレの内にも外にも、水たちの影はない。そしてぐしょ濡れになっていただろう、僕の服たちからも、わずかな湿り気さえ感じなかった。

 昇降口まで連れられる途中で、先生は告げる。人が別れ際に泣くことがあるように、校舎も泣くのだと。


「卒業を前に、校舎をきれいにする意味は、ここにもある。誰だっておおっぴらに泣きたくはないもの。だからみんなが掃除をする時に、涙を流させる。水を含んだモップで、雑巾で、丹念に拭く時、校舎もそれに合わせて泣くんだよ。

 でも、掃除をおろそかにした時にはね、生徒たちが帰った後でおのずと明かりを消し、ひとりで泣き始めるんだ。

 これだけ大きい身体だ。あらゆるところが瞳となる。今回もどこか掃除をしなかった箇所から、みんなが帰ったと思しき時を狙って、ひっそり泣いたんだろう。危なかったねえ、溺れるところだったんだよ」


 だから先生は明かりを点けなおした。それは自分以外の誰かがいる証拠で、それを察した学校は、たちまち泣き止むのだとか。


 掃除をしなかったこと、僕はちょっときまり悪く感じる。でも、学校も僕らとの別れを少しでも惜しんでくれることが、分かった一件でもあったよ。

 お互いに止められないからこそ、先へ進まなきゃいけないんだなあ、ともね。


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気に入っていただけたら、他の短編もたくさんございますので、こちらからどうぞ! 近野物語 第三巻
― 新着の感想 ―
[一言] 共に泣いてくれる存在というのはありがたいですね。先生や友達だけではなく校舎もまた一緒に過ごしてきたことを思うと、涙と掃除との結びつきがとても素敵に感じました。 ずっとこのままでいたいと思える…
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