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第五話 挫折と信念

ラストです。

第五話 挫折と信念


『”その時”は突然来ます』


 講師のおじさんは、張りのある大きな声でそういいながら、私たち受講生の顔を見渡した。立て膝をつく彼の前には、等身大のマネキンがぐったりと横たわっていた。受講生たちは彼を中心に、車座になって見学している形だ。


『駅の構内や電車の中、市役所やこの消防署のように、公共の施設ならばまだよいでしょう。他にも人がいますからね。

 ――ああ、そこの君。メモはいらないよ。今からは実技だ。実際人が倒れたときにメモを見ている暇はない』


 配布されたパンフレットに熱心にペンを走らせていた隣の女性が、恥ずかしそうに俯いた。講師は咳払いを一つすると、『ですが』と言葉を継いだ。


『状況によれば、あなた一人で対応しなければいけない、なんてこともありうるわけです。病は我々の心の準備が整うのを待ってくれません。だからこの講習で学んだことを、お帰りになった後でも反復学習してください。慣れることこそ、緊急時に冷静さを保つ唯一の方法ですからね』


 話しつつ、彼はわきに置いてあった砂時計を手に取り、頭上に掲げて見せた。


『これは、五分を測ることができる砂時計です。私の講習ではタイマーではなく、砂時計を使っています』


 彼は受講生の間に言葉が染み込んでいくのを、数秒じっくりと待って、再び口を開いた。


『心停止状態の多くは、心室細動という不整脈が原因になっています。そういった時、側にいる人がCPR――つまり心肺蘇生を施さず、五分以上放置した場合、生存率は限りなくゼロに近くなります』


 要は、と講師はまとめにかかった。


『この砂の一粒一粒が、傷病者の命なのです。それを意識して、今から私のデモンストレーションをよく見ておいてください』


 ――”その時”が来てしまった。


 阿郷さんは、うめき声を上げながら身体を痙攣させている。暗くてよく見えないけれど、口から泡を吹いているようにも見える。どうにかしなければ。これは多分、いや、絶対心臓発作だ。どうすればいいんだっけ。あの講師のおじさんは次、何をしていたっけ?


 手順を思い浮かべようとしても、頭の中は真っ白だった。何度か阿郷さんの肩を叩いて呼びかけたが、応答はない。大丈夫ですか、なんて間の抜けた問いもした。大丈夫なはずがなかった。誰かを呼びに行かなきゃ、と見渡して誰もいないことに気づく。当たり前だ。もう閉館時間なのだ。


「隊長」


 じっとり曇ってきた視界をぐっと拭って、慌ててスマホを取り出す。隊長、隊長、早く。急かすように繰り返した。


『倉森さん? 今会議中なんだけど......どうしたの?』


 疲れがにじんだ上に、怪訝な声音。背後では難しそうな言葉が飛び交っていた。


「あの、私。今中庭にいて、それで、倒れて、周りにだれもいないんです」


 要旨を伝えようとして、頭が回らない。言葉が出てこない。喉の奥に大きな固まりが詰まっているみたいな感覚。


『ちょ、ちょっと待って。状況が全然わからない。何が倒れたの?』


「阿郷さんです。阿郷さんが、いきなり胸を押さえて......」


 その説明だけで、本谷隊長は大体の状況を察してくれたようだった。スイッチが切り替わったように声を低くして、二つ質問してきた。


『何分経ってる? 救急車と処置は?』


「二、三分だと思います。あ、救急車は......」


 完全に頭から飛んでいた。隊長に電話する前に、いち早く連絡すべきだったのに。どうしようもない失態だ。何をしていたんだろう、私は。


 何が努力だ。こんな一番大切で、人の命に関わることさえできないのに、何を改善しようと言うのか。

 とんでもない世間知らず。これじゃ、昔ただ泣くことしかできなかった自分と、何も変わらないじゃないか。


「私じゃ......無理です。誰か助けに来てください」


 無力感におそわれる。我慢していた嗚咽が漏れる。

 その時だ。


『倉森みはる!』


 鋭い叱咤に、思わず背筋が伸びた。


『今彼を助けられるのは、誰?』


 阿郷さんのうめき声は弱々しくなっていく。周りに人気はない。

 私しか、いない。


「......私です」


『”誰か”って、誰?』

「私です」


 隊長の近くで『どうかしたんですか』と声があがった。隊長の様子で事態に気づいてくれた人がいたらしい。隊長が『救急事案、119』とだけ呟いた。俄に周囲がざわめきだした。

『私は膝が悪いから、そっちに着くまでちょっと時間かかる。救急車は今呼んだ。最寄りのAEDはカレー屋の近くにある』


 淡々と告げる隊長の声。真っ白だった頭の中に、砂時計のイメージが浮かんできた。音もなくさらさらと流れ落ちる。すでに半分以上が経過していた。


『講習でやったことを、もう一度繰り返すだけだよ』


 その言葉を最後に電話が切れた。

 我に返って、私は駆けだしていた。


※※※


 取って戻ってくるまで何秒かかったか。あえて考えなかった。今はできる処置を迅速にするだけだ。

 スマホを電灯モードにして、花壇の縁においた。頼りない光源だけれど、ないよりはましだった。周囲が淡く照らされた。


 オレンジ色の機材の中身をあけた。電源をオンにしつつ、白いパッドを二つ取り出す。一見湿布のようにも見える外観とサイズだが、このパッドはAEDとコードで直接つながっており、ここから電気ショックを与える仕組みになっているのだ。


 ――正常に起動しました。倒れている人の右胸、左のわき腹にパッドを貼り付けてください。

 自動音声の奇妙な抑揚。こっちの気も知らないで、と機械相手に内心毒づいてしまう。


「阿郷さん。今からAEDを使います。服を脱がしますからね」


 応答はない。胸を押さえたまま、彼の時間だけ止まってしまったみたいだった。呼吸もほぼ確認できない。


 急いでツナギのチャックを開け、下着をはだけさせた。


「すごい汗」


 黒いシャツに、じっとりとシミができていた。高い気温の中、水分や休憩を取らずに作業していたのだろう。疲労がたまったり、水分不足で血液の濃度が高くなれば、それだけ血管病の発作はリスクが高まる。


 何より、電流が表皮に逃げてしまうおそれがあった。汗を綺麗にふき取らなければ、電気ショックの意味がなくなってしまう。シャツをたくし上げるのみに留まるか、完全に脱がせてしまうかは判断が分かれるところだろう。


 一瞬で答えを出す。ここは確実な方を選ぶべきだ。この汗の量ならば、脱がせてしまった方がいい。


「急げ、急げ」


 脱力した人の身体は、鉛のように重かった。しかも相手は体格のいい成人男性だ。袖から腕を抜き、頭を揺らさないように慎重に脱がせる。それだけでごっそり体力と時間を消費してしまった。


 やっとのことで上半身を裸にできた。シャツで汗をふき取り、パッドを手に取る。右の胸部と、左のわき腹に一枚ずつ。阿郷さんの身体は冷え切っていた。


 ――解析しています。

 ――ショックが必要です。ショックボタンを押してください。


 AEDの本体には、黄色い稲妻マークのついたボタンがついている。一瞬戸惑ったが、思い切って押し込んだ。


 瞬間、ぴくっと彼の身体が震えた。あっけないものだった。拍子抜けしてしまうほどだった。

 これさえ使えば、途端に息を吹き返すのではないか。そんな甘い考えが打ち砕かれた。


「阿郷さん。聞こえますか。倉森です。聞こえたら......聞こえたら、何か反応してみてください。今あなたの手を握ってます。握り返してみてください」


 ――本機は二分間ごとに自動解析を行います。その間、心肺蘇生を継続してください。

 返答は無機質な自動音声だけだった。

 左手の五指で、右手の指の股を包み込む。左右の乳頭を繋ぐ線をイメージする。その線分の中点が心臓のある場所だ。


「もうすぐ救急車来ますから。頑張って」


 すでにそれは、彼に向けた呼びかけではなかった。頑張るのは自分だ。今踏ん張らなければいけないのは、私自身だ。


 だってこの期に及んで、彼に何を頑張れと言うのだろう。頑張り尽くした結果がこれなのだ。

 米田さんは言っていた。不器用なくらい真面目なんだよねぇ、と。


『あの人、元々市役所の街づくり政策課ってとこにいたらしいんだけど。色々あったんだよ。それで依願退職しちゃって、ここの施設に拾われて』


 こんな施設、と忌々しげに吐き捨てた口振りを思い出す。

 彼はたった一人で戦っていたのだろう。市役所という上意下達の組織で「建設反対」と抵抗して、追いつめられたのだろう。そして、職を辞さなければならなかった。


 その後、何があったかはわからない。結局皮肉なことに、彼は憎くて仕方がなかったこの施設で働くことになった。それでも仕事と割り切って、日々懸命に尽くしていた。それはシャツにしみた汗が雄弁に物語っていた。


 そこに、のこのこ私がやってきたのだ。この施設が好きでたまらないと、この街が好きなんですと、面と向かって言われた時......。他でもないこの街を『壊した』側の人間がのたまった時、彼は何を思っただろう。


「でも、本当なんです」


 AEDが発するリズムに合わせて、胸骨を押し込む。一、二、三、四......。パコパコと陳腐な音を立てるマネキンとは、全く違う感触だった。本物の肉と骨。力加減を間違えれば、折ってしまいかねないという恐怖と戦いながら、私は心臓マッサージを続けた。


「このホールが私は大好きなんです。ここは私を自由にしてくれた場所です」


 圧迫の強さは胸が五センチ沈む程度が理想。テンポは一分間に百から百二十。一般的なイメージよりも、強く、早く押し込まなければならない。じんわりと汗がにじんでくる。


 本当は黙々と集中した方がよいのかもしれない。それでも呼びかけることを辞めたくなかった。


「あなたにとって、『私たち』は新参者なんだと思います」


 機械の拍動が止んだ。あまりにも長い二分間だった。


 ――自動解析を再開します。

 ――ショックが必要です。ショックボタンを押してください。


 指示の通り、ショックボタンに手をかける。今度は戸惑わなかった。


「でもいつか認めてもらえるように、頑張りますから」


 びくんと身体が震えてすぐに、阿郷さんは小さくうめき声を上げた。身じろぎしている。不規則だけれど、胸の上限運動も確認できる。


 よかった。にじむ程度だった汗が、どっと噴き出してきた。


 でも休憩している暇はない。力を振り絞って大きな身体を押し出し、横臥させた。回復体位といって、呼吸が確認できる場合に気道を確保するための体勢だ。しばらく様子を見守っていると、寝息のような安らかな呼吸音が聞こえてきた。


 そこまでやって、体力の限界だった。大きく息をついて後ろに倒れ込んだ。自然と夜空を見上げる形になる。


 光源の少ない日久津市の夜空には、きらきらと星が煌めいていた。この光景はきっと忘れられないだろう。そう思いながら私は大きく深呼吸した。


 遠くから、サイレンの音が聞こえてくる。職員さんたちの足音が床を打って反響している。


※※※


 目の回るような週末がようやく終わった。


 最終日の夜、駅前の居酒屋で、たった三人だけのささやかな打ち上げが行われた。春先の私の歓迎会でさえ「下戸なので」とアルコールを固辞していた相良さんだったが、この日はカシスオレンジを追加で注文しまくった。とにかくすごかった。グラスを空にするたび、頬の紅潮が鮮やかになっていくのだ。心配した隊長が程々にねと声をかけても、


「今日は特別れすよぉ」


 と呂律の回らない舌で返答するだけで、むしろペースは上がっていった。これは相当な酒乱だと呆れていると「何を笑ってるぅ、倉森も飲むんだよ」とグラスを押しつけてくる。さすがに隊長が割って入ってくれたが、この時の一言は痛烈だった。


「相良さん。それアルハラっていうんだよ。コンプライアンスって言葉知ってる?」


 いつぞやの仕返しだ。隊長はしてやったり、とケラケラ笑っていた。


「今年のコスプレ評議会、歴代一の動員数だったんだって」

 相良さんが潰れてしまってから、本谷隊長はそう切り出した。芋焼酎の入ったグラスの縁をなでる表情は穏やかだった。


「大変でしたね」

 と返答すると、

「大変だったねぇ」

 としみじみ言う。多分私たちの頭の中に浮かんでいるのは、同じものだった。ふて腐れた四角い顔だ。


「復帰にはしばらくかかるかもしれない。後遺症もあるかもしれない。でも助かったんだから、めっけもんだよね」


 隊長は手のひらで膝をこすりながらそう言った。疼痛を和らげるように、丸く輪郭をなぞって。

 膝を壊してるから、とあの時隊長は言った。そして、それ以上は言及しなかった。

 いつか、それも遠くない未来、話してくれるだろう。不思議とそんな気がしていた。

 だから気づかないふりをして、私は話題を引き継いだ。


「喝をいただけたおかげでした」

「あれは――ちょっと言い過ぎたかも。現役の時のノリがでちゃった。ごめんね」


 恥ずかしそうに顔をしかめて、芋焼酎を舐めるように口にする。グラスの中の氷がコロンと小気味よく音を立て、相良さんが小さく身じろぎした。


「ま、とにかく。二日間、よくやってくれました」

「はい。お疲れさまでした」


 乾杯し、お互いにたたえ合ったその時だ。


 机に突っ伏していた相良さんが、上気させた顔をむっくりあげたのだった。 


「そうだ倉森、よくやった! あんたはウチの隊の誇り! だからぁ飲もう」

「相良さん、それ水ですよ」

「カンケーない。イッキだぁ、そら飲め」


 首に手を回され、身動きがとれなかった。水のイッキ飲みを強要されるなんて、大学でも経験しなかった初体験である。これはアルハラになるのかな、と隊長は苦笑いで肩をすくめていた。


「仕方ないなぁ」

 ぐびぐびと喉を鳴らして水を平らげながら、私は思った。

 次は素面の時に、同じ言葉をもらおう。


※※※ 


 梅雨が過ぎると駅前の街路樹の葉は、さらに緑を深めた。


 道を行き交うサラリーマンは半袖のYシャツ姿になり、年輩のご婦人方は黒い日傘にUVカットの帽子を被って、まるで烏のよう。私も含め、皆暑さで筋肉を溶かされたような、緩慢な歩き方をしていた。空調の効いた室内を求めてさまよい歩くゾンビみたい。


 目的地の市立の総合病院は、駅からほど近い場所にあった。昼下がりの容赦ない日射で、白い外壁が陽炎で揺らめいてみえる。全身汗にまみれながら自動ドアをくぐると、冷房の心地よい風に包まれた。ふぅと息をつく。


「みはるちゃん」


 汗を拭いつつ案内板を見ていたその時、背後から声がした。穏やかな語調。


「あ、こんにちは。米田さん」

「はい、こんにちは。暑い中よく来てくれて。さ、こっちこっち」


 案内されるがまま、エレベーターに乗った。米田さんはぷるぷる震える指先で四階のボタンを押した。


「それは?」


 皺の中に埋もれてしまいそうな目が、片手に持っていた紙袋に注がれる。


「お見舞いの品です。さっき駅前で」

「用意がいいねぇ」


 そんな話をしている内に、ポンと到着を知らせるベルが鳴った。

 私たちがエレベーターから降りると、入れ代わるようにパジャマ姿の若い男性と、連れの女性が談笑しつつ入っていった。病院食はどう? 意外と最近のは旨いんだよな、お前のよりも旨いかもな。ちょっとそんな言い方ないでしょ......そんな話をしながら、階下に去っていった。


 米田さんがゆっくりとした足取りで先を行く。どこからか、にぎやかな笑い声が聞こえてくる。「あがり!」というはしゃいだ子供の声。近くに娯楽室でもあるのだろうか。


 ナースセンターには二三人ほどの看護士が詰めていた。米田さんが会釈すると「阿郷さんは検査から戻ってますよ」と一言添えてくれる。どうも、と米田さん。私も一礼して後に続く。


 炊き立てのご飯のまろやかなにおいの中に、アルコール消毒液の香り。昼食後の穏やかな時間が流れていた。米田さんがまるで気負っていないのもあって、行きつけの定食屋さんにでも連れてきたもらったみたいに感じた。


「何か常連みたいですね」

「まぁそこそこの頻度で来てるからね。それに、いずれ僕もお世話になるんだから、今のうちに顔を売っておいて損はないでしょ」


 米田さんの肉の薄い肩が愉快そうに揺れた。なぜか、彼の冗談は遠慮せずに笑うことができる。


「一時はどうなるかと思ったけれど、集中治療室を出られてよかったよ」


 本人はたいそう居心地悪そうにしているけれどね、と続いた言葉には、親愛の色がにじんでいる。思えばこの人はいつも阿郷さんを慮っていた。世話好きな性格が放っておかないのだろう。この人の中では、阿郷さんはいつまでも「くん」づけのままなんだろうな。


「阿郷くん、素直じゃないから。今回だって『あの新人、ヘマしてないですか』なんて遠回りな言い方して。話がしたいならそう言えばいいんだ」


 ぶっきらぼうな態度が目に浮かぶようだ。


「いいんです。私もずっとお見舞いしたかったので。最後にお会いした時、ケンカ別れみたいになってしまって......お声掛けいただいて嬉しかったです」

「ケンカ別れ? 阿郷くんと?」


 そりゃ大した肝っ玉だ、と米田さんが驚いたようにつぶやいた。

 でもそこまで感心されることじゃない、と自分では思う。今回の件で確かに私は貢献しただろう。誉められもした。そうしてくすぐったい思いをして、ふと我に返ったのだ。


 本当に、あれでよかったのか......。

 と、先導する米田さんの歩調が緩んだ。

 立ち止まった病室は二人部屋のようだった。高橋という名札の横に、阿郷の文字が収まっている。ドアは横開き式だ。すぐ向こうに彼がいる。

 取っ手にのばした手が、中空で止まる。逡巡で右手が強ばってしまっていた。


「私にも責任があるんです」


 気持ちを伝えに行ったのは、今でも後悔していない。主張も間違っていなかったはずだ。

 だけどあまりに未熟だった。

 全身でぶつかってしまった。衝突すれば摩擦が起きる。摩擦が熱を生み、爆弾の導火線に火がついた。私の言動が発作を誘発したのだ。いずれ爆発するものだとしても、あの日あのタイミングになったのは私のせいだ。


 ちょっと前から、そんな考えがこびりついて離れなかった。

 米田さんは否定しなかった。さっきの話が本当ならそうかもね、と呟いて少し黙った。


「でもみはるちゃんに責任があるなら、もう立派に果たしたと僕は思うよ」


 その言葉で身体の凝りが、少しほぐれた気がした。

 疲れ切った日のお風呂のように、暖かさが芯までしみた。目尻にもじんわり温もりが溜まって、私はごまかすように鼻をすすった。


「――ちょっと言い訳じみてましたね」


 米田さんは否定も肯定もしない。孫を見守るような目で私を見つめている。

 行っておいで、と背中を押され私はドアをノックした。どうぞ、と堅い声が返ってきた。


※※※


「失礼します」


 彼のベッドは窓際だった。同室の高橋さんは検査か散歩か席を外しているようで、カーテンの隙間から主不在のベッドが垣間見えた。


 青いパジャマに身を包んだ阿郷さんは、身を起こして窓の外の景色に目をやっている。お互い挨拶のタイミングを逸してしまい、不器用な沈黙が流れる。


 何を言おうか。紙袋の中身をごそごそ漁りながら私は考える。いやまずはこんにちは、とかお加減は、とかが常識的な範疇だろうか。先にお見舞いの品を渡すのも手かもしれない――。


「とにかく座れ」


 先手を取ったのは阿郷さんだった。呆れた顔をして丸椅子を手で示した。別に勝負じゃないのだから、先手も後手もないのだ。大人しく従って、私は丸椅子に腰掛けた。


「あの。これお見舞いです」

「そうか......気を使わせたな」


 と、紙袋の中身をのぞき見た阿郷さんの表情が、俄に曇った。ラッピングされた品を人差し指と親指でつまみ上げて取り出す。その眉はぴくぴくと痙攣していた。


「こりゃなんだ」

「夏菊の植木鉢です。お花好きだと思ったので」

「あんたなぁ......」


 いやな反応だ。初手の感触がそこそこだっただけに、なぜこのリアクションなのかわからない。


「本当に知らないみたいだな。いいか、菊は葬式を連想させるから、見舞いには厳禁なんだ。しかも植木鉢は”根を張る”から、ずっと病床に着くことにつながる」

「え。知りません、そんなの」

「常識だ、こんなもの」


 全く新人教育はどうなってる。俺が戻るまで大丈夫なのか。彼は嘆息し、再び紙袋に目を落とした。

 今度の品は間違いない。こうもあろうかと、二つ目を考えてよかった。胸をなで下ろす。


「それ、この辺で有名なお菓子屋さんなんです。オーガニックの食品を使っていて体によくて――」

「食事制限中だ」


 眉間を押さえながら、阿郷さんが言い切った。


「少しもだめですか」

「当たり前だろう。殺す気か」


 脇のテーブルに植木鉢と紙箱を置き、阿郷さんは横になった。枕に頭を預けると、はぁ、と大きくため息をつき天井を見上げた。まぁ高橋さんにでもあげるさ、と小さく呟いて言葉を続ける。


「説教はやめよう。あんたは命の恩人だ」

「いえ......そんな」


 謙遜する場面ではなかった、と直後に後悔した。そうなんです、少しは感謝してくださいね、とでも茶化さなければ会話が続かないのだ。


 またもや、気まずい沈黙。


「林だったんだ」

「はい?」


 会話のシミュレートをしている頭に、いきなり放られた言葉。意味が分からず、聞き返すことしかできなかった。


「市民ホールが建つ前だよ。あんたの父親が切り開く前の話」

「あ、あぁ、なるほど」


 やっとのことで相槌を打つと、彼は鼻を鳴らして目を閉じた。どうせ知らないだろ、という雰囲気。本当に知らないのでこちらは何も言えない。


「小学生の時に、あそこで花の観察をしたんだよ。俺の家の庭は狭くて育てる場所がなかったから、わざわざ種を握りしめて埋めに行ったのさ。


 夏休みの自由研究のために、毎日暑い中通った。開発される前は小さな沢があって、涼むにもちょうどいい場所だった。


 で、ある日、遅くまで写生をしていたら見つけたんだよ。夜の山ん中でピカピカ何かが光ってた」


 そして、うっすらと目を開き彼は話を続けた。どこか懐かしげな眼差しだった。だけどもちろん、視線の先にあるのは薄汚れた天井だけだ。


「蛍だった」


 俺は蛍と友達だったんだ。


「友達は守るもんだろ。だから俺は市役所に入って、日久津市って田舎の自然を守ろうと思った。友達の帰る場所をそのまま残してやりたかった。

 言うなればあんたと同じく、若い時があったのさ、俺にも。向かう先は真逆だったけどな」


 ぎゅっと何かを握りしめる音。骨ばった手がシーツを絞るようにつかんでいた。

 責められている気はしなかった。


 横たわった彼の四肢からにじみ出ていたのは、無念だ。守ると誓った物を守れなかった。自分の力不足と断じて諦めるに諦めきれない強い執念だったのだろう。


「気づいたら俺は孤立してた。元から人とうまくやれる人間じゃなかったが」


 自嘲する姿が痛々しい。目を背けたかった。だけど私はじっとその様子を見つめて、耳を傾け続けた。

 お父さんが築き、私が守っているもので、彼は大切なものを失ってしまったのだ。


「たどり着いた場所が怨敵の懐だ。飼い慣らされちまったよ、俺は。戦う目的を失い、職を失い、全部無くしてしまった。昔の思い出を、ほんの小さい庭で再現するだけの男になってたんだ」


 みじめだ、と彼は顔をしかめる。涙さえ浮かべている。

 でも何かが違う、と私はそれを見て思った。奪った側の私が言える義理ではないのかもしれない。しかし、口を出さずにはいられない。私は私の目で、それを見ていたのだから。


「あの中庭、何度か利用者さんを案内したことがあったんです」

 頭の中で糸を紡ぐように、言いたいことを手繰りよせながら、私は口を開いた。怒鳴られても、否定されても、言わなければいけない。


 幸い、彼は押し黙って私の言葉を聞いてくれている。


「中には歩き疲れてへとへとだって人もいるんです。そういう人たちにあの庭を紹介すると、ぱっと顔が輝くんです。ありがとう、とても綺麗でいいところだね、落ち着くねって」


 小春ちゃんだってそうだ。食べ物の臭いに導かれたとはいっても、安心できる場所だと思ったから留まったのだ。


「きっとみんな、あの庭を通して阿郷さんが見た景色を、見ているんだと思います」


 青臭い言葉遣いだけど、これでいい。そうだ、私はこれがずっと言いたかったんだ。


「あなたの大切な庭を、今度はきちんと守れるように、私たち頑張ります」


 だから今はしっかり休んでください。言外にそう付け加える。


「そうか」

 そうか、ともう一度確かめるように言った。


 阿郷さんの返答はそれだけだった。右腕を目の上にのせて、それだけ呟いた。声は震えていた。

 たぶん、伝わったのだ。


※※※


「えーっと、『消火器に表示されているマークの意味はそれぞれどれか』。うーん」


 ポストイットだらけのかさばる問題集を広げて、私は長いこと考え込んでいた。何度も解いた問題だけれど、どうも頭に入らない。


「白が普通火災用、黄色が油火災用、青が電気火災用」

「あ、相良さん、やめてくださいよ。せっかく考えていたのに」

「こういうのは反射神経。頭で覚えるんじゃないの」

「まぁ、そうかもしれませんけど」


 そんな正論を吐かれても、忘れる物は忘れるのだ。


「あれ、倉森さんって自衛消防まだだった?」


 ふくよかな体型のベテラン警備員、葛西美野里さんが防犯カメラのモニターを眺めつつ言った。視野の広い美野里さんが復帰してから、モニター管制はずいぶん負担が減った。


「あ、今週末の試験なんです。前の試験、筆記で落ちちゃって」



 言いづらくて、語尾が萎んでしまう。まぁまぁそんなもんよ、と笑い飛ばしてくれるのが有り難いけれど、少し恥ずかしい。せっかく半袖シャツの夏制服になったというのに、身体が火照ってきた。


「ウチの明灯も今度実技の再試なのよ。あの子トロくてどうもね」

「倉森もたいがいですよ」とあくびをしながら相良さん。隊長は自分の席で船を漕いでいるが、肝心な助け船は出してくれない。扇風機で飛んだ書類が顔に引っ付いて、ふがと声を上げるだけだ。終業間際だからといって、居眠りはいただけないぞ、と鋭く視線を送っても起きる気配はない。


「筆記も受かってない身分で、何も言い返せないのが無念です」


「さっさと受かることだよ。三点セットもないようじゃ、警備としてまだまだ」


 ちっちと人差し指を振る古くさいジェスチャーが、何とも挑発的だ。筆記さえ受かれば、次回は実技から挑戦できるのだけど。


「立哨終わりましたぁ。ちょこちゃんが脱走してたので、連れてきましたよ」


 デスクで歯噛みしていると、間延びした声とともに、若い女性がセンターへと入ってきた。瓶底メガネがトレードマークの葛西明灯さん。美野里さんの実の娘で、親子共々、この日久津市民ホール警備隊に所属している。私と年齢も入隊時期も近い明灯さんとは、特に仲良くさせてもらっている。


 今、色白な彼女の腕の中に、真っ黒な毛玉が丸くなって収まっている。鈴付きの可愛らしい赤い首輪を窮屈そうにがりがりひっかきながら、黒猫のちょこは部屋の中を忌々しげに睨みつけた。


「せっかくウチで引き取ってやったのに、図々しい眼つきだなコイツ」

 相良さんがひやかしを入れると、ちょこはシャァと牙をむく。痛いところを突かれた、という人間的な反応にも見えた。


 実はあの後、猫の件は施設の各代表者が集う会議に諮られた。実害はないということで放置されていた中、ついに具体的な被害がでたためだ。保健所で対応してもらおう、とか保護団体に引き取ってもらおう、という至極常識的な意見が飛び交う中、本谷隊長がすっと手を挙げてこう提案したらしい。


『ウチで引き取って、マスコットキャラクターにしたらどうですか』


 SNSで猫をマスコットにした施設、わりとどこもウケてますよ。しっかり室内で管理すれば花を荒らしたりしないでしょうし。あ、三匹いるなら施設本社のオフィスと、警備の男子・女子チームで分ければちょうどいいですよね。


 どこまで本気だったかはいざ知らず、施設側の上役には色々と衝撃的な発想だったようだ。コスプレのイベントなども開催しておきながら、日久津市民ホールはビジネス用の施設という印象が定着していることを、かなり憂慮していたのだ。マスコットキャラの存在は堅い印象をほぐし、もっとエンタメ寄りのイベントも呼び込めるかもしれない。


 そんな経緯で、三匹の猫は「卑屈な眼差しが可愛いヒクツキャッツ」としてSNSの公式アカウントで発信されることになった。思いのほか人気が出たらしく、グッズや着ぐるみの制作も行おうという動きもあるとかないとか。


 ということで現在、黒猫のちょこの居城はこの中央警備センターになっている。


「西棟のだんごとみるくに会いに行ってたんでしょうねぇ」



 明灯さんが首筋を撫でると落ち着いたのか、目を細めるちょこ。なぜ自分には懐かないのか、と舌打ちする相良さんには悪いけれど、ちょっと微笑ましい光景だ。動物に好かれる何かが、明灯さんに備わっているんだろうな。


「猫にも仲間意識というか、家族観みたいなものがあるのかしらね」


 娘の腕に抱かれるちょこを見ながら、美野里さんがぽつりと呟いた。そうかもしれないですね、と私も同意する。


 ちょうどその時だ。

 どことなく緩んだ空気を、どすどすという大きな足音が打ち破った。


「今日の拾得物」


 ツナギ姿の四角い人影が、ドアからぬっと立ち現れたのだ。そのまま受付カウンターの上に、手に持ったトレイを載せた。その上にはアクセサリーやカードケースといった品々が並んでいる。


 あまりにも突然のことに、私は硬直してしまっていた。彼が長い入院生活を終え、ようやく職場に戻ってきたのだと理解するまでに数秒を要した。


「あ――阿郷さん!」


 思わず立ち上がり、駆け寄っていた。にこりともしない仏頂面に、太い眉。口はへの字型に曲がっている。前に見たときよりも、心持ち血色はいい。


「今日からだったんですね。復帰おめでとうございます」

「ああ、世話をかけたな」

「ちゃんと休憩はとってくださいよ」

「余計なお世話だ」


 そっけない口ぶりだった。それよりも仕事だ、と言わんばかりに黙々と拾得物ファイルに内容を転記していく。私も物品のタグ付けを手伝い始める。書類の番号と拾得物につけたタグを照合する、アナログで退屈な事務作業だ。


それが今は、なぜだかすごく楽しい。


「へらへら仕事をするな」


 他でもない本人の口元だって緩んでいるようにみえたけれど、指摘するのはやめておいた。代わりに肩をすぼめて応じる。


 それなりの量だったけれど、あっという間だった。


トレイの中の最後の物品に手を伸ばし、タグをつける。


「これで最後ですね」

「いや、そういえばこれを忘れてた」

「え?」


 彼は無造作にお尻のポケットに手を回した。そうして彼が取り出したのは――


「あ、綺麗」


 花弁を幾重にも重ねたピンク色の花だった。とても瑞々しくて、微笑んでいるような一輪。

 でも、ラッピングお店の人が包んだとは思えないほど雑だった。袋はくしゃくしゃに皺が寄ってしまっているし、リボン古いスニーカーの靴紐みたいによれている。


「ガーベラだ。すぐそこの廊下に落ちていてな」

「すごく可愛いですけど、でもこれって」


 私の発言を遮るように、あわてて阿郷さんが繰り返した。


「落とし物だ。生花だから、きちんと処理するように」


 不自然な咳ばらいを残して、彼は逃げるようにセンターを去っていった。

 な、何だったんだろう。


「私、手伝いましょうかぁ」


 呆然とその背中を見送っていると、明灯さんがひょいと顔をのぞかせて言ってくれた。


「い、いえ。もう処理は終わったんですけど。あのこれって」

「あ、可愛いガーベラですねぇ。ちょうど季節ですものねぇ。落とし物ですかぁ?」


 でもおかしいですねぇ、と明灯さんは首を傾げる。最近、お花の贈り物をするような発表会ってなかったと思うんですけどねぇ。


「一応捨てちゃうこともできますけど……可哀想ですし、飾りませんかぁ」

「――ええ。いいですね。落とし主も喜ぶと思います」


 でもその前に、根っこの土を落としてあげなきゃ。

 

息苦しそうなリボンを解いてやると、ガーベラはますます可愛らしく微笑んでいるようにみえた。


                      

                      了


連載作品として初めて完結までこぎつけることができました。

登場人物の動機が甘いですねぇ......。今後の課題です。

一応続編を書ける終わり方にしてあるので、今後機会があればシリーズにしてみたいです。

ありがとうございました。



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