第四話 緊急事態
第四話 緊急事態
花壇に入っちゃってごめんなさい、と目をこすりながら繰り返す小春ちゃんに、私はかける言葉が見つからなかった。怖がらせちゃったねごめんね、と一言添えてあげればいいものを、頭が回らなかった。
センターまでの道中は相良さんが色々気を回してくれたけれど、彼女はそもそも、子どもを器用にあやせるタイプの人ではない。押し黙って先をいく私と、どこかぎこちない相良さんに連れられては、小春ちゃんはさぞ居心地が悪かっただろう。
「何があったかは知らないけど。不機嫌をまきちらすのはよくない」
「......すみません」
「ま、あたしも人のこと言えないけど」
ご両親と手を繋いで去っていく小さい背中を見送りながら、私たちは小声でそんなやりとりをしていた。
ふいに、相良さんが頭の後ろで両腕を組んだ。ボーイッシュな彼女がすると、スレた不良少年のようだった。
「衝突したときは、こっちが悪くなくても頭を下げる。そういうのも手だよ。何ならあたしが付いていってもいい」
怒りでたぎった後の脱力感で、どう返せばいいか、言葉が浮かばない。なぜ職務を忠実に果たした自分が、謝りにいく必要があるのかと、憤りさえも覚えた。迷子を見つけたのは私なのに、なぜ木偶の坊と貶してきた相手に――。
「ああいう手合いには、こっちが折れるしかないんだよ。わかりあえる、なんて思っちゃだめ」
相良さんが慰めるように、私の肩に手をおいた。
「じゃなきゃ潰されるよ」
さすがに子どもの面倒は疲れたわ、と首筋を揉みながら相良さんは更衣室に去っていった。その場に残された私には、歩く気力も残っていおらず、少女の背中が職員通用口の扉の向こうに消えていくのをぼうっと眺めていることしかできなかった。
小春ちゃんが一度だけ振り返って、小さく手を振ってくれたのが少しだけ救いだった。
この一件が午前中に起きたのは不幸中の幸いかもしれない。怒りというのは瞬間的なもの。時間が経過するにつれ、緩やかに収まっていく。その後業務に忙殺されたのも、頭を冷やす時間ができたと考えればよかったのだと思う。相良さんは、あくまで私の判断を尊重するつもりでいるらしく、隊長には報告を上げなかったようだし。
そうして、一日目の終了時刻になるころには、私は感情を整理できるようになっていた。
「今日中にもう一度話に行って、明日からやり直そう」
日頃の見回りが甘かったとか、野良猫への対策をどうするかという反省点は、私一人の問題ではない。阿郷さんには真摯に謝って、隊長と相談する旨を伝えようと思った。
だけれど、こちらにも言いたいことはある。私たち警備の人間は、決して呆けているわけではない。人の動線を見極めて事故を未然に防ぐ。立哨によって「監視しています」とアピールすることで、犯罪を抑止する。「何も起きない」ということが私たちにとって、最大の成果なのだ。
だから、時にはこうして勘違いされる。何も起きていないから、その存在意義を問われる。
そうじゃないんです、ということだけはわかって欲しかった。相良さんには「わかりあえるなんて思うな」なんて言われたけれど、私は主張せずにはいられないのだ
「だって、そうやって勝ち取ってきたんだもの」
制服を脱いで、ハンガーに掛けながら声に出してみる。この数ヶ月袖を通してきて、少しずつ体に馴染むようになってきた紺の制服。胸元に刺繍されている徽章を、指でなぞった。
警備員になりたい。
そうお父さんに打ち明けたあの年末が、遠い昔のようだった。実際はまだ一年も経っていないのに。
『危ない職業だろう。せっかくいい大学に入ったのに、目指す意味のあるものとは思えないよ』
みはる、せっかく建築学科に入ったんじゃないか。建築士を目指したらいい。お父さんは経営の方に回ってしまったけれど、とてもやりがいのある職だよ。運が良ければ、何世紀も仕事が残るんだよ。
お父さんは何とか私を説得しようとした。
収入だって違うだろう。みはる、お金を軽視してはいけないんだよ。安易に諦めてはいけない、人生は開けているんだよ。お前は若いじゃないか......。
『お父さんは勘違いしてる』
『勘違い? 何をだい』
『自分を諦めてこんなこと言ってるわけじゃないの』
憧れて、ずっと目指していたんだよ。
そう告げると、お父さんの顔が一気に曇った。理解できないものを見つめる眼差しだった。
『そんなこと......一言も言ってくれなかったじゃないか』
『言おうとしたよ! でも聞こうとしなかった』
ずっと仕事ばっかりだったじゃない。ご飯のときも視線をあわせてもくれなかったし、昔迷子になったときだって探そうともしてくれなかった。お母さんが家を出てから、誰も等身大の私を見てくれなかった。皆、「お父さんの娘」である私しか見てくれなかったんだよ。
話し始めたら、抱えていたものが一気に噴出した。
『私は困っている子どもがいたら、膝をついて話を聞いてあげられる大人になりたい。そういう人になるために、目指したい職業があるの』
大学までは、お父さんの言うことを聞いてきた。でも、もうおしまい。そう言い切った。
明けた翌年、私は住み慣れた区内の実家を、家出同然に出て、日久津市に越してきた。それ以来、お父さんとはろくに連絡を取っていない。
自分はそうやって逃げてきたのかもしれないと、一時は思い悩んだこともある。
確かにお父さんの望んだ形とは違ったけれど、私は私で熱くなれるものを見つけたのだ。そして、それはお父さんが築き上げたものを守ることでもあった。
「日久津市民ホール。お父さんの仕事、私がしっかり守るから」
あの日「大手の下請けだけど」、と照れ隠しにお父さんははにかんでいたっけ。お前にも見てもらいたいんだよ。基礎はウチがやったんだ。定礎、と刻まれた碑を指さしてお父さんは誇らしげに胸を張っていた。
迷子になったあの日、お父さんは完成披露式典の主賓の一人だったのだ。方々への挨拶で、とても私を捜す時間はなかっただろうし、まず私の不在に気づいてもなかったはずだ。今なら冷静にそんな分析もできる。
もう些細なすれ違いで、人と道を違えるのはたくさんだ。阿郷さんと私は、同じ場所で同じものを守っているのだから。
ロッカーの扉を閉め、私は更衣室を後にした
※※※
午後八時すぎ。
相良さんは明日に備えて早々下番し、隊長はというと、これもまた”明日に備えて”施設の人たちとの会合に向かった。下番報告の際、隊長からはどこか羨ましげな視線を向けられたけれど、気づかない振りをして先を急がせてもらった
日が延びたとはいっても、この時刻になると、外の世界はとっぷりと暗闇の中に沈んでいる。イベント一日目の終了時刻はとうに過ぎており、関係者の姿はもうない。日中の賑わいは、踏みつぶされたペットボトルやチラシ類から伺えるだけで、施設内はシンと静まりかえっていた。
「あ、米田さん。お疲れさまです!」
その静寂の中にわずかに響く、きゅるきゅるというカートの音を聞きつけ、私はその元に駆け寄った。いつも通りのんびりした足取りの米田さんは、私に気づくと片手をあげて応じてくれた。
「みはるちゃん、お疲れさま。もうあがり?」
こちらの私服姿を認めたか、米田さんがそう言った。穏やかな声にも少し疲れがにじんでいるようだった。
「はい。ただ、阿郷さんにちょっとご挨拶したくて、探しているんですけど」
「阿郷くんか。ああ、さっき中庭の方に出て行ったかな。でもちょっと今日は様子がおかしいんだよねぇ」
中庭。よりによって、と口にしかけて留まった。冷静に、とあらためて自分に言い聞かせる。
「何か話をするにしても、日を改めた方が――」
「ありがとうございます!」
何にせよ、早い方がいい。きっちり話をして、いやな空気は早く解消したかった。
米田さんに頭を下げて、中庭向かう。その足取りは自然と駆け足に近いものになっていた。
シャッターの降りた地下レストラン街を、私の息づかいと靴音だけが反響している。照明は営業時間外の仕様に切り替えられていて、不気味に薄暗かった。非常灯と消火栓の赤いランプが煌々と輝き、「キッチンオリエント」近くの壁際に備えられたAEDのインジケーターは、問題なく作動できることを示す緑色に光っていた。
怪談が苦手な私は、人気のない場所のこういう雰囲気がどうにも苦手だった。警備員には致命的な短所だと自覚はしていても、どうにも体が硬直してしまうのである。
参ったな、と思いながらガラス扉越しに中庭をのぞくと――見つけた。ほとんど光源のない暗闇の中で、大きな影が花壇近くで何やら作業をしている。上階へと続く大階段をテラスわずかなライトだけが、彼の四角いシルエットを浮かび上がらせていた。
人影を見つけてどこか安心している自分に、「ほっとしている場合か」と喝を入れて扉を押す。むしろ、ここからが勝負じゃないか。
「もう閉館時間は過ぎて――」
ドアの開閉音で気づいたのか、阿郷さんは不機嫌そうな声を上げて、途中で押し黙った。
「何の用だ」
ぶっきらぼうに吐き捨てると、側においていたブルーシートを手に取った。よく見れば、花壇の四つ角には、重りつきの三角コーンが配置されている。荒らされないように覆うつもりなのだろう。
「仕事の邪魔だ。帰ってくれ」
シートがくしゃくしゃ音を立てた。自身の体より大きいシートにずいぶんと手こずっているようだ。
「あの、手伝います」
「余計なことをするな。こいつは俺の花壇だ」
私がシートの端を持つと、阿郷さんは声を荒らげてひったくった。お前なんかに触れさせるものか、という言外の軽蔑を感じた。
「見回りが行き届いていなかったのは、すみませんでした。落とし物の件も、猫の件も、意識が足りなかったのは確かだと思います。ご迷惑をおかけしました」
私の存在を無視して、阿郷さんは作業を再開してしまっていた。構わず私は話し続ける。
「人員が不足しているところに、今回のイベントが重なってしまって、業務として不十分でした」
でも、と震える声を何とか絞り出して、私は言葉を継いだ。
「私たちは本気でこの施設をよくしようと思っているんです。今話した問題点はきちんと話し合います。改善します。わかってもらえるよう、努力します。
私、この街が好きだから――」
最後の言葉は蛇足だ。子どもじみた表明。正直であろうとするあまり、感情だけが先走りした物言い。でも他に何を言えばよかっただろう?
ぶつけたのは、飾り気のない生の気持だ。だから、言い放っても後悔はなかった。難しいテストの採点を待つ小学生のように、私は息をのんで彼の返答に耳を澄ませていた。
「この街が、好き?」
コーンを持ち上げようと屈んでいた阿郷さんが、オウム返しにそう言った。手が止まる。おもむろに立ち上がり、こちらを振り返る。
「この俺を前に、よくそんなことが言えたな」
その顔に浮かんでいたのは、たぶん怒りだったと思う。暗くて表情そのものはよくわからなかった。しかし、険のある声音、四角く盛り上がった肩......全身から荒い感情が放たれていた。
「あんたらがこの街をぶち壊したんだろうが。俺の街を奪ったんだろうが」
倉森、と彼は私の名を呼んだ。
一瞬聞き違いかと耳を疑ったけれど、確かに彼は私の名前を口にしていた。
正確には「私と、私のお父さんの姓」を。
「あんたらを見てると腹が立つんだよ。自分の善意を、熱意を、正しいと信じて疑いもしない。そのせいで踏みつぶされたものに何一つ目もくれず、気づいてさえいない」
肩が上下に揺れた。一気にまくしたて、彼は息苦しそうに胸を押さえている。
「こんなモノが......建つ前に、ここにあったものを知っているか」
目尻に光っているのは涙だろう。語尾が掠れていくのも構わず、彼は必死で訴えかけてきた。
「あんたがここに勤める前、いや生まれる前にあったものに、少しでも考えが及ぶ時があったか?」
私は言葉を失っていた。その場に立ち尽くすことしかできなかった。
この人は私のことを知っていたのだ。それもずっと前から。私が誰の娘で、その父親がどんな人物なのか。
建設に際して、反対運動があったのは知っていた。だけど、この十数年間でそれも下火になっていた。このホールによる地域活性化は、全国でも希な成功例で地元住民の人は受け入れてくれていると......そう思いこんでいた。
「こんな施設、なければ」
それを最後に一瞬沈黙が降りた。、私はうつむいていた視線をおそるおそる彼に戻した。
何か応えなければ。でも何を?
頭の中でぐるぐる理屈をこねても、ふさわしい言葉が見つからない。
「私......」
間を持たせるためにそう言い掛けたとき、阿郷さんが前のめりなった。どすんと鈍い音がした。
「阿郷、さん?」
彼は両手で胸を押さえつけ、地面に伏していた。
次の話で完結です。長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。