第三話 衝突
第三話 衝突
「それは面倒な人に睨まれたねぇ、倉森さんも」
下番(退勤)報告の際、経緯を説明すると、同情したような声音で本谷隊長が言った。ごそごそと紙袋の中身を確認し、どうしたものかと腕を組む。
「阿郷さんはねぇ。一度睨まれると大変だからなぁ」
「でも主張自体は正しいから困りもんですよね」
考え込んだ様子で相良さんが付け加えた。
「邪険に扱うと怒り狂うし、はいはいって適当に流すと図に乗るし」
そう言いながら指定の白い帯革を取り外し、しならせてみせる。
ぶぅん。帯革が空を切った。少し苛立っているようにも見えた。
「ある意味身内な分、利用客よりもやっかいだったり」
ずいぶんと実感のこもった言い方だったので、思わずある疑問が口をついて出てしまう。
「相良さんも何かあったんですか、阿郷さんと」
「いや、噂は知ってたから、被害にはあわなかったけど......まぁ、どこにでも似たような人はいるんだよ」
言葉を濁す彼女をみて、私は米田さんから話を聞いたときと同じような居たたまれなさを味わった。いつも勝ち気な相良さんが見せる翳り。見たくなかったものを見てしまった気がして、言葉に詰まった。
ある場所にある人が働いている。
制服を着ていたり、作業着を着ていたり、腕章をつけていたり、その外見は様々だ。老いているかもしれないし、まだ年若いかもしれない。
その人の働く姿はとても板に付いていて、まるで何十年も前から同じ場所で汗を流していたように見える。やりがいを持ち、信念を持ち、仲間を持って。彼ら、彼女らはきらきら輝いて見える。
だけどそれは錯覚なのかもしれない。皆、何かを背負いながらその場所に立っているのだ。あるいは何かから逃げ出して来た、なんてこともあるかもしれない。今まさに重圧から耐え、耳をふさいでうずくまっているのかもしれない。
私があのとき憧れた、あの警備員さんだって。相良さんだって、本谷隊長だってそうだ。
充実していて楽しそうだ、と米田さんは言ってくれた。でもあと何十年かあと、私は同じ場所で笑っていられるだろうか。この先背負い込む荷に、どこまで耐えられるのか。
「そんな不安そうな顔しないで。大丈夫だから」
本谷隊長が苦笑しながら肩を叩いてくれた。
胸の内で凝っていた気持ちが、少しだけ柔らかくなった。
「そう、ですよね」
「そうそう。これはいわば洗礼みたいなもので。どこの職場にもそりが合わない人っているんだよ。相良さんが言っているのはそういう一般論。でしょう?」
「経験論でもありますけどね。あー嫌なこと思い出しちゃったな」
相良さんはうーん、と大きく伸びをしながら唇をとがらせてみせる。
「ふふ。とにかく、二人ともお疲れさま。あとはいつも通り西棟の男子チームが引き継いでくれるから、早く帰って休んで」
相良さんがまとっていた濁った雰囲気も、本谷隊長の言葉で少し薄らいだような気がした。
こういうところ、やっぱりすごいな。
「あ、そうだ。これも山分けしようか。このお店おいしいんだよね、ゴーフレット」
そう素直に感心していたのもつかの間、隊長はいきなりお菓子のパッケージをがさがさ開け始めた。
リラックスしかけていたムードが一転、相良さんは目の色を変える。
「隊長、またですか。本社にバレたらまずいですよ」
「相良さんは真面目だなぁ。遺失物法としては、生花・食品類は『即日処分』OKなんだから」
「かといって警備が食べたら職業倫理的に問題でしょ!」
「ゴミ袋行きか胃袋行きかの違いだって。はい。十五個入りだから五個」
「結構です。隊長、コンプライアンスって言葉知ってますか。管理職研修でやりますよね?」
これではどちらが隊長で、部下なのかわからない。呆れてもものも言えない、と首を振りながら、相良さんは更衣室にさっさと退散していってしまった。
「やっぱり根は警察の人なんだよね、相良さん」
その後ろ姿を追うように見つめて、隊長は自分の席の椅子に腰掛けた。包みを開けて、迷いなくゴーフレットを口に運ぶ。
「たとえ場所を変えても、最初に選んだ仕事は特別。その点、倉森さんは有利だよ。この仕事を真っ先にやろうなんて人、まずいないからね。自信持っていいんだよ」
「はい。ありがとうございます」
隊長はどうだったんですか、と口にしかけて何とか私は踏みとどまった。先ほどの二の舞になるのはよくない。
私の何か言いたげな視線に気づいたのか、「どう?」と隊長は箱の中身を勧めてくれた。
「いえ、それはやめておきます」
迷った末、きっぱり辞退することにしたのだった。
※※※
束の間の休日は、試験勉強と講習で瞬く間に消費されていった。上級救命講習自体は聞いていたとおり、軽めの内容だったのだけれど、かしこまって聴講していたせいか肩が凝った。
だけれどその分、吸収できた物も多い。救命技術の知識を修得したのもその一つだ。
私たち警備員は医療従事者ではないが、立場上、傷病者に助けを求められるケースは少なくない。命に関わる事案だって起こり得る。
たとえば、「救命曲線」と呼ばれるデータがある。
これは心臓や呼吸が停止した場合の、傷病者の死亡率統計だ。これによれば、心肺停止に陥った傷病者が助かる可能性は、発症後四分で約二十%。十分を過ぎたあたりから急激に下がり、二十分の内に限りなくゼロに近づいていく。
だが警備員が救命措置をした場合、この数値は格段に変わってくる。発症後四分以内にAED(自動体外式除細動器)の使用や心臓マッサージ で、半数以上が息を吹き返すのだ。救急車が要請を受けて到着するまでの平均が八分程度だというから、この数字が持つ意味がわかってくるというもの。
この仕事は、命を預かる仕事なのだ。
「倉森警備士、上番(出勤)しました!」
「おはよう。どうだった上級救命」
月曜日。
センターに入ると、隊長席でパソコンに向かっていた本谷隊長が、ディスプレイから顔を上げて応じてくれた。
「とってもタメになりました」
期待通りの答えを得られたからか、隊長は満足げにうなずいてくれた。つられて私の顔もほころんでしまう。
「実際に資格証明書が出ると自信にもなるし、悪くない経験だったと思うよ。どれ、見せてみて。本社に資格番号報告しないといけないからね」
慌てて財布から緑色の資格証を取り出す。顔写真つきというわけでもなく、紙製のいくらでも偽造ができそうなお粗末な証明書。
だけどそれは、今の私には確かな意味を持つ「紙切れ」だった。
「これでAEDも心臓マッサージも怖くない――と。なくさないようにね」
さっと番号をデータに控えて、すぐに返却してくれた。丁寧に、両手で受け取り折り曲げないように再び財布にしまい込む。
「今週はコスプレ評議会で大変だけど、頼りにしてるよ倉森さん」
くしゃっと微笑む隊長の後ろで、山積みにされた警備計画書が、扇風機の風にあおられて、ぺらぺらとめくれていた。
※※※
週末が近づくにつれ、施設全体の緊張は高まっていった。連夜、市民ホールの管理部署がある西棟はいつまでも煌々と明かりを灯していた。イベントの直前までエスカレーターの起動・停止の時刻や、警備員の配置について詰めているらしい。会議に同席している本谷隊長の疲労の色は、日に日に濃くなっていった。
そして土曜日、イベント初日の朝。
いつもより早めに上番してセンターに入ったとき、思わず「うわ!」と叫んでしまった。
本谷隊長が大量の書類に埋もれて、生き倒れのように伏していたのだ。皺の寄ったスーツ姿のまま、疲れのにじんだ枝毛だらけで頭頂部だけがこちらを向いている。
「倉森、来てもらって早々悪いけど」
隊長の斜向かいの席に制服姿で陣取っているのは、緊張感を漂わせた相良さんである。本社に送る日報のダブルチェックをしているらしく、ペンを回しながら早口で指示をしてくれる。肩書きはないものの、もはや副隊長の風格だ。彼女はわき目もふらず書類を読み込みながら、ペン先で防犯カメラの映像を指し示した。
「屋外展示場の前に数人並んじゃってるんだよね。イベント開始前に並ぶのはご遠慮いただいてますって、注意してきて」
「わかりました......あの、隊長大丈夫ですか?」
「ん。とりあえずAEDはいらない」
警備員ジョークということらしい。
あまりにさらりと真面目な顔で言ってのけるものだから、笑っていいのかわからない。煮え切らない返事が気になったらしく、相良さんは紙面から顔を上げて振り返ってくれた。
「あのね、隊長は四号警備のたたき上げだよ。体調管理は仕事の内」
「四号......っていうと、要人警護ですよね」
耳慣れない言葉だったけれど、頭の片隅に残っていた知識から何とか引っ張り出した。確かに本社の研修でやったはずだ。美人の研修担当さんがパワーポイントで一つ一つ教えてくれたっけ。
警備業法において、警備員の業務は一から四の種類に分けられる。一口に「警備員」と呼ばれても、その業務内容は様々だ。ちなみに私達施設警備員は一号に分類される。
その中でも四号警備と呼ばれる要人警護業務はその他の警備業種よりも特別視されている。空手や柔道といった武道や、英語などの語学など、他の業種には要求されないスキルを求められるからだ。
それはつまり、代えのきかない人材ということ。ここにもいた、”場違いなエリート”。
「知りませんでした」
この数ヶ月まるでおくびにも出さなかった情報に、素直に驚いた。
「あれこれ自慢するような人じゃないからね。ま、あんたは隊長の体調なんて気にしなくていいってこと......」
らしくもないジョークを連発したのが恥ずかしくなったようだ。相良さんはごまかすような咳払いをして書類に目を落とした。
いつも厳しいコメントをくれる先輩だけれど、今は隊長の分を補ってくれているのだ。
心遣いに感謝して、背中に敬礼を向けた。
「了解です」
今は、自分にできることを。
「倉森警備士、屋外巡回に向かいます!」
そう自分に言い聞かせて、装備品用の棚から取り出した無骨な無線機を、ぎゅっと握りしめた。
イベント開始の十時になると、なだれ込むように駅から人々が押し寄せてきた。タクシープールと駐車場、車寄せは早々に車両で埋め尽くされてしまった。市バスはせっせと駅と市民ホールをシャトルランして、乗客を停留所に吐き出していく。やっとのことで到着した彼らは、息を着く暇もなく、着替えの入ったスーツケースを引いて目的地へ。
今までにない動員数だった。
見渡す限りの人、人、人。それも今までにあったようなビジネスライクな服装ではない。ショッキングピンクのチャイナ服に、ピシッと折り目のついた軍服、思わず目を覆ってしまうような露出度の高い水着のような衣装まで、それぞれがお気に入りのコスチュームで着飾っているのだ。
「こっち目線ください!」
「ああ、こっちも!」
そうやって格好よくポーズを決めているコスプレイヤーさんの周りを、一眼レフを構えたおじさんたちがぐるっと囲んでいる。ああでもないこうでもないと構図を試行錯誤しながら、決定的な一瞬を納めようと躍起になっているのだ。バシバシとフラッシュが容赦なくたかれ、どこに視線をやっても目眩のするような刺激にあふれている。
初めて知る世界。私は立哨という大事な業務を思わず忘れ、見入ってしまっていた。ああ、あそこの人、なんて大胆な格好を......。
「おお! いいっすねそれです!」
「最高! 最高!」
どよめきとともに、一気にむっとするような熱気が立ちこめた。これでは蒸し風呂である。思わず襟元に手を入れて、タイを緩めたくなる。
「あの、写真いいですか?」
と、輪から外れてきた汗だくのおじさんが、私にそう声をかけてきた。
「え、私ですか?」
「はい。そのコスプレ、似合ってますよ。一枚お願いします」
「あ、いや違うんです。私はここの警備員で......」
バシッ。
いいわけする暇も与えてくれなかった。無遠慮なフラッシュが目を灼いた。おじさんは礼を言うでもなく、市民ホールの地図にマークをつけながら、ぶつぶつ呟いて人混みの向こうに消えてしまった。
「もしかして、私、すごい場所に勤務希望出してしまったのかも」
物好きだ、と言い放った相良さんの顔が浮かんだ。どうやら本当に今までのイベントとは要領が違うらしい。まず参加者のボルテージが、高い低い以前に、これまでとは種類が異なるのだ。この調子で二日保つのだろうか。
「さっきまでの意気込みはどうした、しっかりしろ」
喉元までせり上がってきたため息を飲み込み、自分に喝を入れたその時である。
耳障りなノイズと一緒に、眠たげな声が無線機から聞こえてきた。
『――ええ、こちら警備センターから倉森警備士。迷子の案件発生。対応できますか、どうぞ』
※※※
今朝はへばってて悪かったね、とすまなそうな声音から始まった本谷隊長の説明は、予想とは違う展開になった。
『男子チームや施設の安全管理課とも話したんだけど、会場アナウンスは最終手段にしたいんだよね。身元を公開して、しかも女の子の迷子がいますよ~なんてあけっぴろげにしたら、色々と問題だからね』
「そうか。近くに保護者がいないって、わざわざ知らせることになりますもんね」
迷子事案にはとりあえず場内アナウンス、という認識でいたけれど、このご時世にそれは奥の手だということだ。ロビーから東ホール、大会議場と見回って乱れた息を整えながらも、私は本谷隊長の説明に感心していた。
『そうそう。だからしばらく様子見ながら、とりあえず人海戦術で探してもらいたい。男子チームも動員してるらしいから、現場で連携して。相良さんにはこっちに詰めてもらいたいけど、もし必要だったら増援に送るし』
「わかりました。ほんとにお疲れさまです」
『全くだよ。倉森さん、これ終わったら打ち上げやろうね――以上、警備センター』
ブツッという音ともに無線機は沈黙した。とりあえず通信終了。無線機のフックを帯革に挟み込んで、周りを見渡した。
ロビーから大会議場へと向かう廊下の途中。地下レストラン街へと降りるエスカレーターの乗り口付近に私は立っていた。一通り思いつく場所は探したつもりだけれど、それらしい人影は見つからなかった。
「人海戦術といってもなぁ」
この人混みだ。気をつけなければ、お客さんの足まで踏みつけてしまいそうなほどの人口密度。その中に埋もれた子供を一人見つけるというのは、中々に至難の業だ。何せ今日だけで何万人の来客数があるか、わかったものではない。
「森田小春ちゃん。魔法乙女ワルキューレのコスプレ......どこかで聞いたことがある気がするけどな、このタイトル」
ミミズの這ったような文字で走り書いたメモに目を落とす。
迷子の子は二十三区内から両親と車でやってきた、十歳の女の子。今小学生で流行っているアニメのヒロインに仮装し、上機嫌で走り出してしまったところ、はぐれてしまった。親御さんがイベントスタッフに問い合わせた上で警備センターに駆け込み、涙ながらに事情を話してくれたらしい。
自分の名前に似た字面に、否応もなく十年以上前の出来事を思い出してしまう。
周りには見知らぬ大人ばかりで、見渡しても頼れる人などいなかった。磨かれた床面はどこまでも果てしなく続いていて、歩いても歩いてもお父さんは見つからなかった。胸がひしゃげたように苦しくなって、目頭がぎゅっと熱くなって視界が曇ったのをよく覚えている。
そこに立ち止まってくれた丸い革靴。膝を地面につけて目線をあわせてくれた女の警備員さんが脳裏に浮かんだ。
『よく頑張ったね』
あの時警備員さんが撫でてくれた頭に、今では彼女と同じ制帽が乗っている。村中さんという女性警備員は今のところ見つけられていないけれど、いつかきっと出会えると信じている。そのために、警備員としてきちんとやっていくんだと、心に決めたのだ。
メモ書きの名前を指でなぞる。小春ちゃん。この子は昔の私と同じ境遇のまっただ中にいる。今この瞬間も不安に押しつぶされそうになっているだろう。
今度は私が助ける番だ。自然と身体に力がみなぎってきた。
「待っててね。絶対見つけてあげるから」
西棟の男子チームと合流して情報交換しても、新たな手がかりは出てこなかった。イベントの性質上、男子禁制エリアもあるのだが、そこにもそれらしい子どもはいなかたった。「困りましたね」と男性の隊員が肩を落とす姿を見て、申し訳ない気持ちになる。せっかく新設された女子警備隊なのに。期待されているのに、ここまで何も貢献できないのか。そのまま男性陣と別れ、無力感に苛まれながら無線機を取った。
「すみません。現状、手がかりなしです」
『うーん、仕方ないね。あと三十分探していなければ、アナウンスするかもしれない。一応相良さんにも探しに出てもらうけれど、ここまで見つからないんじゃ......』
「あの、隊長。親御さんは、どんな様子ですか」
うーん、という呻き。声量がひそやかに落とされた。
『ちょっと取り乱していたけど、何とか宥めたよ。この間のゴーフレットをお茶菓子で出してたら、落ち着いた。捨てないでよかったねやっぱり』
賞味期限はだいぶ前に切れていた気がするけれど、そこを指摘するのは野暮だろう。それ以前に「乾きモノなんだから大丈夫」、と力強く反論されそうだ。
『人間、甘いものを摂取しなきゃね』
「そ、そうですね」
隊長は色々な意味でぶれない人だ。決してパニックに陥らない。冷静、という言葉とはどこか違うけれど、彼女の周りにはいつも飄々とした空気が満ちている。
そういう一歩引いた視点が、本谷美智代という人の持ち味なのだ。
通信を切り、私は肺の中に溜まっていた澱を吐き出すように深呼吸した。ここは一つ、本谷隊長に倣ってみようじゃないか。
”物事が前進しない場合、裏側から捉えてみるのが有効である”。
この間、駅ナカの本屋でふと手に取った自己啓発本には、そんなことが書いてあった。文章でわざわざ説かれなくてもわかってるよ、と反抗的に考えてしまう自分がいたが、それで逆に印象深くなって、ごく単純な言葉が不思議と頭の中に残っていた。
「前提が間違っていたのかも」
口にすると、その確信はいよいよ現実的になってくる。
そもそも「人混みに紛れてしまった」と考えること自体が誤りだったのではないか。それなりの人員を使って見つからないとなれば、むしろ想定外の場所に迷い込んだと考えるのが妥当なのではないか。
そうだ、十歳の時、自分ならどうしただろう。見慣れない場所、異常な人混み、歩けばどこかに引っかかるような装飾の服。身体は疲れ切り、お腹も減ってくるのではないか。あてどなく歩くにしろ、自然と欲求を充足させる方向へと向かうのではないか。
そこまで考えが至ったところで、私の鼻は食欲をそそる薫りを捉えていた。排気口から地下レストラン街のにおいが漏れてきているのだ。
「これは”キッチンオリエント”のスパイスカレーのにおい......!」
売り文句は”獣性呼び起こす原風景スパイス”。男性向けのマッチョな人気店だ。盛りつけのボリューム、わかりやすい美味しさからカレーチェーンの中では確固たる地位を築いている人気店である。
職場の飲食店を利用するのはイメージ低下になるということで、一応警備員の利用は御法度なのだけれど......実を言えば、私もこっそり食べに行ったことがある。
そしてこれが、とにかく美味しい。服ににおいがこびりついて、女性だと若干浮いてしまうのが難点だけれど、それを抜きにしても通う価値のあるお店だ。
しかも、最近はファミリー層の獲得もねらって、アニメキャラのおもちゃがついてくるセットの販売を行っている。CMもにぎやかで楽しく、子供にとってもなじみ深いお店になりつつある。そういえばこの間食べに入ったときも、メニュー表に何かのアニメキャラが描いてあったっけ――。
「あぁ! そうだ、道理で覚えがあるはずだ」
魔法乙女ワルキューレという番組タイトルは、そこで目に入ったものだ。次回のコラボレーション企画として、告知という形でメニュー表に掲載されていたのである。喉元につかえていた小骨が取れたような気分だった。点と点がつながり、道筋が示された気がした。
※※※
地下レストラン街は、東棟と西棟をつなぐ連絡通路からエスカレーターで一階分降りた場所にある。「街」というにはこぢんまりとしたフロアだが、飲食店は和洋中そろっていて、一息つけるカフェも人気だ。普段は盛況なのだけれど、まだ昼食には早いからか、上階の人混みにも関わらず人影はまばらだった。
人ごみに揉まれて疲れた体を、うんと伸びして弛緩させる。お金を使わないでも「歩き疲れて座りたい」というお客様には、ここの中庭を紹介すると喜ばれる。幾度も利用者の方を先導して案内してきたこともあって、勝手もよく知っている場所だ。
中庭は吹き抜け構造になっていて、新鮮な外気に触れるにはうってつけ環境だ。季節ごとの花が彩りを添える花壇は目の保養にもなるし、その側には長いすも備え付けられているので、腰を落ち着けて休息をとることができる、のだが。
「ただ一つの難点は」
レストラン街から中庭に出るためのガラス扉をあけると、スパイシーな香りが鼻を突いた。中庭に出てすぐの壁際に設置された、空調の室外機。そこからキッチンオリエント店内の薫香が漂ってきているのである。花壇近くまで行ってしまえば大して気にならないだが、ドア付近には濃厚なカレーの気配が滞留していた。
これが純粋に休息をとりにやってきた人には文字通り「鼻に付く」そうで、施設側の問題点として議題にもなるらしい。
ただ、今回の迷子事案では、それが好い目に出てくれた。
ぐわんぐわんと唸りをあげる室外機の近くに、フリルの衣装に身を包んだ小さな女の子の姿があった。
「森田小春ちゃん?」
そう名前を呼ぶと、少女ははっと顔を上げた。くりくりとした瞳いっぱいにたまった涙が、にわかに決壊したのだった。
※※※
迷子発見の旨を無線で知らせると、隊長の『でかした!』というお褒めの言葉の後に、相良さんが余計な一言を付け足してくれた。
『――倉森警備士、こちら相良警備士。中庭から中央警備センターへの戻り方わかってる? 迎えに行こうか?』
からかうような口振りだった。この間のスピーチコンテストの一件で、施設の間取りがわからずもたついてしまったことを、また当てこすっている。背後のざわめきと弾んだ吐息から察するに、彼女もずいぶんと精力的に探してくれていたようだけれど。
本当に素直じゃない人だな、と嘆息しながら私は無線機に口を近づけた。
でも、これも相良さん流の褒め言葉なのだ。最近それがよくわかってきた。
「――こちら倉森警備士から相良警備士。迷子は一人だけなので、増援不要です」
『――相良警備士、了解』
含み笑いの混じった返答。相良さんが皮肉でなく、「よくやった」と一言くれる日はいつになるのやら。
気を取り直して、小春ちゃんに向き直る。少し取り乱していたので、移動する前に事情を聞いて落ち着かせてあげることにした。
もちろん、膝を地面につけて目線をあわせることは忘れない。
「それで、お腹すいちゃって......カレー屋さんのにおいがしたから」
小さな手のひらで頬を引き上げるように涙を吹きつつ、小春ちゃんは懸命に事情を説明してくれる。うつむき加減で舌足らずだが、丁寧な話し方だ。まじめな子なんだろうな。日頃両親の前で抑えている子どもらしい冒険心が、このお祭り騒ぎにあてられて少しはじけてしまったのかもしれない。
両親とはぐれてしまった後、彼女はずいぶんと施設の中を歩き回ったらしい。目指すべき方角もわからず、途方にくれた彼女の鼻が捉えたのは、やはり”キッチンオリエント”のカレーの臭いだった。
「今ワルキューレとコラボしてるものね。前に来たことがあったかな?」
頭を撫でながら訊くと、小春ちゃんは「うん」と小さな声でうなずいた。
空腹に、不安と緊張。そういう負の感情でいっぱいになった子どもが、「前に入ったことがあるお店」という一種の安全地帯が目の前に現れたら、確かにふらふら足を向けてしまうかもしれない。
「でもお金、持ってなくて......」
それで店の中に入るわけにもいかず、とりあえずベンチのある中庭に出ることにした、ということなのだろう。
「そういう時はね、お店に入って事情を説明してもいいんだよ。誰も怒ったりしないから」
制服のポケットから小袋を取り出しながら、私はそう言った。中から飴玉を一つ取り出し、小さな手に握らせる。塩分不足対策に携帯している塩キャラメル味だ。遠慮がちに包みを破り口に入れると、私に対する警戒心も飴と一緒に溶け始めたらしい。彼女の頬の筋肉がゆるみ、可愛らしいえくぼが浮かんだ。
隊長、本当に甘いものの力ってすごいですね。
「一人でよく頑張ったね」
子どもらしく和らいだ表情を見ていたら、ずっと口にしたかった言葉が自然と表に出てきた。
「猫さんが一緒にいてくれたの」
「猫さん?」
オウム返しにして、すぐ思い至った。米田さんが名前を付けた猫のことだ。見かけるたびにぶくぶく太っていく猫たち。名前は、黒毛のちょこ、茶毛のだんごに白毛のみるく......他にも何匹かいた気がするけれど、思い出せない。
王様のようなふてぶてしい足取りで地下の中庭や、一階の庭園部を闊歩しているので、普段から嫌でも目に入るのである。我が物顔で堂々とレストラン街を出入りしているところからすると、どこかの店舗が余った食材を餌として与えているのだろうけど。
「黒い猫さんがしばらく一緒にいてくれんだけど、どっか行っちゃった」
小春ちゃんの視線は、花壇の向こう側の、大階段とエレベーターがあるスペースに注がれている。あそこから上階に逃げていってしまったのだろう。
黒猫のちょこは他の二匹に比べ、人一倍――いや猫一倍食い意地の張ったボス格だ。大方、「人間どもが食べ物を献上しに来たぞ」と近づいてきたのだろうが、アテが外れた。すっぱり見切りをつけて去っていったようだ。
と現実にはそういう身も蓋もない事情なのだろうが、子どもらしい夢を壊したくはない。
「いつかまた遊びにおいでよ。そしたらきっと会えるよ」
そろそろ落ち着いてきたようだ。少し名残惜しそうにしている小春ちゃんの手を引き、私はガラス戸に手をかけた、その時である。
扉の向こう側に、四角い顔がぬっと現れたのだった。
「見つかったのか」
阿郷さんが小春ちゃんを一瞥しつつ、抑揚のない声で言った。子どもを前にしても、にこりともする気配を見せない。
「は、はい。おかげさまで」
繋いだ手から、小春ちゃんの緊張が伝わってきた。この年の女の子の目には、阿郷さんは怖そうなおじさんとしか写らないだろう(実際私もそう思っているわけだけれど)。
彼の片手には、目一杯空き缶の入ったゴミ袋が収まっている。清掃の方にも迷子の件が伝わり、回収がてら見回っていてくれていたのだろう。
「ならいい」
阿郷さんは仏頂面のまま、私たちの前を素通って中庭へ入っていった。隣でなぜか、小春ちゃんがほっと息をついた。些か心に引っかかる挙動だったけれど、その時の私には違和感を追究する余裕がなかった。早くこの少女を、親御さんの元に送り届けてあげたい。ただそれだけを考えていたからだ。
「おい、ちょっと待て」
小春ちゃんを促して屋内に入りかけた時、花壇の近くにいた阿郷さんが、剣呑な声を張り上げた。小春ちゃんの背筋が飛び跳ねるようにして伸びた。
「何だこの泥は」
威圧するように足音を響かせながら、阿郷さんは肩をいからせて引き返してきた。
わけがわからず、とっさに返答することができないまま立ちすくんでいると、満腔の怒りで体を膨らませた阿郷さんが、目の前に立ちふさがった。
「泥、ですか?」
間の抜けたオウム返しだと感じたか、阿郷さんは苛立ったように舌打ちした。骨ばった指で地面を指し示す。
「床を見てみろ。土が跳ねて汚れている。花壇の土だ。立ち入り禁止の、花の種を仕込んだばかりのな」
彼の言うとおり、確かに床には土で汚れた跡が残っていた。先ほどまで、不思議なほどに全く気が付かなかった。人間の足跡だ。しかも子どもの――。
「小春ちゃん?」
彼女は視線を自分の靴に落としていた。真一文字に口を引き結び、うなだれている。まるで靴についた痕跡を隠すように、右足を曲げ、もう一方の足の後ろに寄せた。自然と私の体にすり寄るような体勢になる。
「やったのはおまえか。注意書きが見えなかったか。ひらがなで丁寧に書いてあるはずだ。読めないはずないだろう。”このかだんには、はいらないでください”って」
阿郷さんの鼻の穴が、ぐっと広がった。拳が震えはじめた。
「黙ってちゃわからないだろう。何か言ってみなさい」
それはだんだんと、せきたてるような口調になっていく。小春ちゃんはますます縮こまり、私の陰に隠れようとする。
ぴりっとした緊張感が走った。この数か月の接客で少しずつ身についてきた勘のようなものだった。自分の体の後ろに彼女を隠し、私はひきつる顔に無理矢理笑みを浮かべた。
「あ、あの。悪気があったわけではないと思うんです」
彼女、ずっと一人で不安だったんです。そこに可愛らしい猫を見かけたものだから、つい後を追っているうちに踏み込んじゃって――。
威勢に負けないように早口でまくし立てたものの、我ながら迫力のない言い草だ。声も震えていた。
「猫だと。あの野良か」
一瞬の間があって、阿郷さんの口から重々しく言葉が漏れ出した。
「そういうのが出入りしないよう、あんたら警備が見回っているんじゃないのか。いつもぼうっと突っ立っているだけで仕事をしやしないで、やっと動いたと思ったら、こうして子どもと遊んでいるだけか」
「あんまりな言い方じゃないですか。彼女は迷子で――ってあなたもご存じでしょう」
あまりに無遠慮な物言いに、私は思わずそう口を出してしまった。感情的なクレームに対し、感情的に返すのは接遇としては御法度だ。散々本社の研修で学んだことだったけれど、あまりの理不尽さで私の頭の中からは、綺麗さっぱり吹き飛んでしまっていた。
だけどこの時、悟るべきだったのだ。
阿郷さんが怒りをぶつけている先は、とうに私なんかではなくなっていたのだと。そして彼は彼なりに、理不尽と戦おうとしていたのだ。
「俺たちが必死で世話している花なぞ、どうなってもいいと思っているんだろう。ええ?」
阿郷さんは顔を真っ赤にさせて、脂汗まで浮かべながら詰め寄ってくる。唾がかかる距離で怒声を浴びせられながらも、私は後ずさりしなかった。ここで退いたら負けだと思った。何に負けるのかと言われたら、よくわからないけれど。
「そんなこと思ってません」
視線は逸らすまいと、彼の目を真っ正面から見返した。そうして、数秒にらみ合っていただろうか。小春ちゃんが不穏な空気に触発されて、再び泣きべそをかきはじめた。
「泣けばいいと思って――」
そう言い掛けた阿郷さんの、熱く煮えたぎった瞳に、波紋が広がるのを見た。どうしたのだろう。
阿郷さんは肩で息をして、額に浮かんだ脂っぽい汗を拭った。腕章をした腕から力が抜け、小刻みに震えている。痙攣した指先は、ツナギの胸元を絞るように握りしめた。
「お、おまえたちはいつもそうだ。何もわかっちゃいないんだ」
意外にも一歩退いたのは阿郷さんの方だった。先ほどまで真っ赤だった顔が、みるみる内に青ざめていく。生唾を飲み下した喉仏がごくりと動く。
「あ、あの」
大丈夫ですか、と発したかけた言葉をぎりぎりで飲み込んだ。かまうな、とばかりに睨みつけられたのである。そうして阿郷さんはふらつきながら、逃げるように出て行ってしまった。
「なんだあれ」
入れ違いに中庭に入ってきた相良さんが、不思議そうな顔をして阿郷さんの背中を目で追った。心配で様子を見に来てくれたらしいけれど......もう少し早く来てくれればと内心歯噛みしてしまうのだった。