第二話 試練の予感
第二話 試練の予感
ここ日久津市は、東京都西部の奥深くにぽつんと存在する、人口八万人程度のごく小さな自治体だ。
魅力はなんといっても、緑豊かな環境。名瀑布や鍾乳洞多数を擁し、毎年夏場には、観光客が関東圏から続々と集まり、束の間のレジャーに興じていく。
だけど、日久津市の魅力は自然だけじゃない。
この大規模展示施設、日久津市民ホールが建設されてからは、国際会議や商業イベントの開催地にもなり、ビジネスの街としても立場を確立しつつある。駅前の案内板には最近になって英語、中国語の翻訳文が併記され始めたし、ビジネスマンたちが自社ロゴの入った紙袋を抱え込んで町中を急ぐ光景も、もはや見慣れたものになりつつある。駅から徒歩で十分ほど必要とした移動時間も、施設側にタクシープールが増設されたり、市営バスの停留所ができたりと、ずいぶん充実してきている。
そういった経緯からか、この日久津市民ホールは人口流出をくい止め、自治体のイメージを刷新した好例として、毎年全国から自治体幹部が視察や研修にくる......らしい。
「らしい」というのは、この説明のほとんどが、新任研修の時に見せられた映像の受け売りだから。まだ入社二ヶ月とちょっと、今まで経験したイベントといえば、市が主催のこどもピアノコンクールとスピーチコンテストを一度ずつ。いずれも父兄と学校関係者、市役所の幹部が数人といった、西館の国際会議場の客席を半分も埋めない規模のものだ。
――もうちょっと、ちゃんと経験積みたいよなぁ。
内心そう思っていた、矢先のことだった。
「倉森さんさぁ、来週末のコスプレ評議会、メンバー足りなくなっちゃったんだけど、暇?」
センターに駆け込んで汗だくの私に追い打ちをかけるように、隊長の本谷さんが張り付けたような笑顔でやってきたのだ。
「コスプレ評議会って、あのコスプレ評議会ですか?」
「そう、あのコスプレ評議会。一日で来場者五万人規模、盗撮犯とか窃盗犯わんさか出て、熱中症でばたばた人が倒れる、『あの』コスプレ評議会」
私の戸惑いを知ってか知らずか、本谷隊長は人の良さそうな笑みを、わざとらしいくらい深くして、私の肩をポンと叩いた。
「どうかな、倉森さん。予定、空いてる?」
※※※
「で、結局受けたわけ?」
「そりゃ、受けるしかないですよ......。相良さん、本谷隊長の顔見ました?」
昼休み。私と相良さんは束の間の休憩時間を惜しむように、女子更衣室に駆け込んでいた。
「あー、これ、だったね」
相良さんは制服の上着を脱ぎながら、自分の目の下を人差し指でなぞって見せた。つられて、やつれた色白の顔が脳裏に蘇ってくる。
今年で三十そこそこになるはずの本谷隊長は、元々線が細く、警備関係者とは思えないような柔和な雰囲気の人だ。隊長という立場なので、直接指導をもらうことはあまりなかったけれど、小さな顔をくしゃっと歪ませて微笑むところが印象的で、相良さんに怒られっぱなしだった研修期間中にはずいぶん気持ちを助けられた。
勝ち気な相良さんとは対照的で、こんなほんわかした人も現場にはいるんだなぁと最初は驚いたものだ。たまに、いや頻繁にに居眠りをしてしまうところ以外は、少数精鋭であるこの派遣隊の舵取りを任される敏腕社員であることに間違いなかった。
その本谷隊長が、近頃かなりせっぱ詰まっている様子なのは、少なからず私にとってもショックだった。
「ま、あんたが来る前も月末はいつも忙しかったけど、来週からは異常だわ、ありゃ。たぶん隊長ろくに寝てないよ。ただでさえ大型イベントが目白押しなのに、警備計画にシフト編成に、隊員の研修計画も練らないといけないし。男子チームとすりあわせ会議だってあるし」
四月に女子警備隊が独立したばかりなのにさぁ、とロッカーからスポーツドリンクを取り出し、相良さんは穴だらけのソファにどっかり座り込んだ。
「そっか、私が来る前は男性陣と指揮系統が一緒だったんですもんね」
「そうそう。というか、コスプレ評議会のせいなんだよね、今年になってわざわざ女子警備隊作ったのは。ほら、あれって露出の多いコスプレする人多いから、トラブルも繊細なやつが多くてさ」
この更衣室はうちの警備会社が施設側との交渉の末勝ち取った唯一のリラックススペースで、会社の内部事情も気兼ねなく話せる。
いつもだったら周りの目を気にして切り上げる話も、ここでは突っ込んで聞けることに内心で感謝し、私は先を促した。
「なんかそれ、よく聞きますね。やっぱりひどいんですか」
「ひどいも何も、休む時間ないよ。盗撮とか下着ドロとかって、男性警備員じゃ中々対応が難しいとこあるし、元々が女性利用客の多い施設だからいっそ独立させちゃえって本社の判断らしいけど」
不満と一緒に飲み下すように、相良さんはドリンクの入ったペットボトルを一仰ぎした。それでも溜飲が下がらなかったようで、眉間に皺を寄せて小さく続ける。半ば独り言のような調子だ。
「リソースが足りなさすぎるんだって。女子警備隊って体裁整えてもさ、結局正社員の隊員はあたしとあんたと隊長だけじゃん。葛西さん親子はお父さんの看病があるし、五十嵐はまだ学生だしね。無理強いできないんだよ」
彼女のなりの配慮は滲ませているものの、相良さんの物言いは非正規で働く同僚への愚痴そのものだ。
そのままソファの背もたれに体重を預け、相良さんは大きく息を吐いた。一仕事終えた後の気だるそうな目は、視線は消音モードにセットされたテレビのニュース番組に向けられている。出演者の口の動きから数秒遅れ、画面下部に同時字幕が流れた。仮眠者への配慮で、ここではテレビの音声あり視聴が禁止されているのだった。
季節は初夏に入り、来週あたりから気温も上がるだろう。何も知らない天気予報士が、脳天気な笑顔でそう告げていた。
「今年の夏もやっかいだぞ、こりゃ」
ブーン、と低くうなる取り付け型の扇風機の音に紛れ、相良さんがうんざりしたようにそう呟いた。
※※※
経験は積みたかった。それは確かだ。
しかし、それにも段階があるものだと思っていた。今暇つぶしに触れているソーシャルゲームだって、最初は弱い雑魚敵から倒していった。徐々にフレンドプレイヤーを増やしていって、段階的に次のレベルへ進む。一足飛びに進めることはできない設計になっている。よほど無茶をしない限りは。
仕事だし、何しろ警備業なんだから緊急の変更だって対応してみせる、と息まいていた数ヶ月前の自分が恥ずかししい。実際の現場はごく小さなイベントでさえ、本当に厳しい。この間のスピーチコンテストも、生徒の一人が過呼吸で倒れて救急車を呼ぶ事態になった。私はといえば、おろおろするばかりで、頭の中にたたき込んだはずの医務室への経路が、丸々どこかに吹き飛んでしまった。あの時は相良さんに怒鳴られたっけ......。本谷隊長は「まぁまぁ、仕方ないよ。徐々に慣れればいいよ」って言ってくれたけれど。
本谷隊長だって、新任研修明けの身には荷が重いと、シフトをわざと避けてくれていたのだ。
「でも、やっぱり無理だぁ」
搬入・搬出作業の終わった、午後七時。今日の下番(終業)まであと一時間の、どことなく安心感が漂う時間帯。
もう人気のなくなったロビーだということで、思いっきり不満をぶちまけさせてもらった。
人には色々な事情があることはわかっているけれど、いきなりこんな大仕事が上から降ってくるなんて。一緒に働いている葛西美野里・明灯親子が、家庭の事情で急遽休みを取り、シフトに大きな穴があいた。代わりになる戦力は皆無。五十嵐さんという同世代の若いバイトさんは、短大の学生なので、ほとんど幽霊状態でカウント外。実は私もろくに挨拶したことがないほどだ。
ということは、もう一人しかいないわけで。
「おやおや、大きな独り言だねぇ」
と、ちょっと呆れたような含みを持たせた柔和な顔が、柱の陰からにゅっと現れた。その白いツナギ姿のおじいさんは、ゆっくりとした足取りで掃除用のカートを押しながらこちらに歩み寄ってくる。
「あれ、米田さんいつからいたんですか!」
「シフトがどうだ、資格試験がもうすぐなのに、だの言ってたあたりからだよ」
綺麗に整えられた白髪に、優しい口振り。背丈は私より少し小さいくらいで、背筋は年齢相応にちょっと丸まっている。しかし、それさえも穏やかな人格を表しているような、好々爺を絵に描いたような人だ。
清掃係の米田さんはこの市民ホールの古株で、地下のレストラン街に出入りしている猫を鳴き声だけで判別できたり、業者の人と顔なじみだったりと、何かと事情通な人だ。
「うう。恥ずかしいです」
「いやいや、勉強熱心だねぇ。うちの孫にも見習わせたいよ」
飾りのない素直な口振りに、思わず照れてしまう。
「実は今週末のは、講習を受けるだけで資格証をもらえるやつで、本番はまだ少し先なんです。そっちの勉強が大変なんですよ」
警備業には「三点セット」と呼ばれる基礎的な資格群が存在する。上級救命技能認定、防災センター要員、そして自衛消防技術認定。
うち前者二つは、講習の受講と簡単な確認テストで資格証が発布される。今週末に受講するように指示されたのは上級救命の方で、こちらは主にAEDの使い方や心臓マッサージの方法を消防署で指導してもらうというもの。二択のテストが講習後に実施されるが、ほぼ合否には関係がないらしい。会場の雰囲気も少し気の抜けた感じだというから、私自身、そこまで心配はしていない。
しかし、問題は最後の自衛消防技術認定だ。
「ふぅん。警備さんにも色々あるんだね」
「はい。もうすごいんです、実技と学科があって。法令まで勉強しないといけなくて。消防器具の使い方がどうだ、とか緊急避難用具の使い方がどうだ、とか」
もともと勉強は苦手な方ではないけれど、自分が触れたことのない世界の知識は、そうそう定着しないのだ。
「もう本当に細かくて、頭がパンクしそうです」
思わず口調に熱がこもってしまったらしく、米田さんが苦笑混じりにうなずいた。
「うんうん。でも楽しそうじゃない。いいね。充実してそうなかんじだよ」
「ですかね。必死すぎて、楽しいとか大変とかもうわからなくて」
照れ隠しに制帽に手を当てたその時だった。
「米田さん! 困りますよ、油売られちゃ。ホール内の拾い掃きまだ終わってないでしょ」
怒号に近い男性の胴声が、大会議場へと続く廊下の向こうから上がった。ずかずかと大きな靴音を立ててやってきたのは、いかにも厳格そうな目つきの中年男性だ。米田さんと同じツナギ姿だけれど、どこか丸っこい印象の米田さんに比べ、筋肉質で角張った印象の人。右腕に「職員」と書かれた黄色い腕章つけていて、どこかのお菓子屋さんの洒落た紙袋を片手にひっさげている。
どうみても似合わない取り合わせに、いやな予感を覚えた。いつも遠目には存在を認めてはいたけれど、この職員さんはどう考えても、こういうお菓子を楽しみに買うタイプではなかった。
「阿郷くん、ゴミは逃げないよ」
「でも時間は逃げますからね。それとくん付けはやめてください。これでも一応あなたの上司ですから」
阿郷さんと呼ばれた男性は、今度は私に鋭い視線をよこし、ずいと紙袋を押しつけてくる。
「あんた、新人だよな。本谷さんに言っといてくれ、会議場の席の下まで、きちんと見回りしてほしいって」
「え、えっと......」
紙袋の中身は、綺麗に包装された洋菓子のようだ。オーガニックの原料を使っていることで有名になったお店。
「えっと、じゃないよ。これ昨日で賞味期限の切れた菓子なんだよ。大方この間のスピーチコンテストか合唱祭か何かで、保護者が持ち寄って忘れていったんだろう。ずいぶん長く放置されてたことになる」
「まぁまぁ。我々の落ち度でもあるわけだし」
米田さんが取りなすように落ち着いた声でなだめてくれたけれど、逆効果だったようだ。
「しかし最終的に施設の委任を受けて管理するのは、警備側ですからね。しっかり責任持ってもらわないとね。新人だからって浮かれてちゃ困るんだからさ」
阿郷さんの語調はいよいよ詰問に近いものになってくる。
「もうすぐ気温も暑くなってくる。暑くなると腐敗も早くなる。腐敗すると虫がわく。虫がわくと、どうなると思う?」
「うーんと。とりあえず、気持ち悪いです......よね?」
私は阿郷さんの神経を逆なでしないよう、言葉を慎重に選びながら返答した。一応満足のいく答えだったようで、彼はふんと鼻を鳴らしてみせる。
「そうだよ。利用者の方も気持ちよく使えなくなる。こうやってごちゃごちゃ話している暇があったら、ぜひとも注意を払って見回りをお願いしたい......ということです、米田さん。あなたにも言っておきます」
「十分わかったよ、阿郷くん」
あっけらかんといってのける年上の部下を前に、阿郷さんはこめかみを押さえてうなった。
「とにかく。私は広報企画課と来週の打ち合わせをしてきますから。その間に、ホールの清掃は頼みましたよ」
阿郷さんはそのまま急いだ様子で、踵を返した
――と思いきや、舌打ちをしながら何かを思い出したように振り返って、
「あとそれ。知ってるとは思うけど、食品類は発見した日に警備側で処分してもらってるから! ちゃんと処理してよ!」
と叫んできたのだった。
「あ、はい。わかりました!」
話すのはほとんど初めての人だったけれど、率直に「恐い人だな」と思ってしまった。
こうして面前で怒ってくる人には、本当に久し振りに出会った気がした。少なからず自分が動揺していることに気がつく。
世間ではこんなもの「しかられた」内には入らないのかもしれない。しかし、市民ホールの職員さんは、同じ職場で働く身内とは言っても、「契約先のお客様」に他ならないのだ。
だからそれはたぶん、私にとって初めて突きつけられた「クレーム」なのだった。
「悪い人じゃないんだよ。不器用なくらい真面目なんだよねぇ、阿郷くんは。嫌わないでやってちょうだい」
どうやら気持ちが顔に出ていたようだ。
「い、いえ。そんな、私は」
「勘違いされやすい人だけどねぇ。元々お役所の人だから、見るところが細かくて。泣かせた新人も多ければ敵も多いんだ。あ、これは内緒ね」
茶目っ気たっぷりに米田さんはふしくれだった指を口に当てて見せた。
「ここって公務員の方もいらっしゃるんですか?」
「ううん。あの人、元々市役所の街づくり政策課ってとこにいたらしいんだけど。色々あったんだよ。それで依願退職しちゃって、ここの施設に拾われて――って言い方が悪いけど。そういうこと」
「色々」という言葉に含まれるニュアンスに、踏みいってはいけないものを感じた。あいまいにうなずきを返すだけに留めておく。
「つまんない話しちゃったねぇ、ごめんごめん。とりあえず、そのお菓子は本谷さんに事情を話せば上手く処理してくれると思うよ」
じゃあ僕はこれで、と米田さんは鼻歌交じりにカートを押して行ってしまったのだった。