第一話 憧憬と承継
すでに完結済みですので、編集し次第、一話ずつアップしていきます。
第一話 憧憬と承継
涙で曇ったその記憶の中で、明確に覚えているのはピカピカに磨かれた革靴だ。
つま先の丸まった女物。ごく小さなサイズ。
みんな足早に通り過ぎていく中、私の目の前で足を止めてくれたのは、その可愛らしい革靴の持ち主だけだった。
「お嬢ちゃん、どうしたの。迷子?」
見上げると、そこには童顔の女の人。艶やかな黒髪を男の子みたいにばっさりと、耳の上あたりで切り落としていた。きりっとあがった眉は凛々くて、年の離れたお姉さんという雰囲気で。
「お父さんを探してるのに、どこにもいないの」
「そっかぁ。でも、大丈夫だからね」
濃紺の制服に身を包んだお姉さんは、私の目線に合わせて膝を着いた。
布地に埃がつくことなんて気にも止めてないようだった。「お姉さん、おまわりさん?」と私が聞くと、その人はきまり悪そうに笑った。
「そう見えるかな? ごめんね、ただの警備員なの。この会場のね」
「けいびいん?」
「まぁ、うん。そうね。おまわりさんみたいなものだよ。ね、あなたお名前は言えるかな」
「倉森みはるです。八歳です」
みはるちゃんね、と呟きながらお姉さんは腰のベルトから黒い固まりを取り外した。
――こちら村中警備士より中央警備センター。迷子発見しました。八歳の女の子、倉森みはるちゃん。おさげ髪に淡いピンクのワンピース。迷子の報告はありますか? どうぞ。
一瞬の間をおいて、ノイズ混じりの男の人の声。
――中央警備センターより村中警備士。現状特に情報なし。警備センターで保護するので帯同よろしく。以上。
「村中警備士、了解」
ああ、忘れもしない。よく頑張ったね、とウインクして手を引いてくれたあの人。
私はその時、将来はこの人みたいになろうと決めたのだ。
※※※
「ほれ、何呆けてんの」
ぼす、と頭に衝撃を受けて我に返った。制帽越しにはクリップボードの固い感触。途端にバキュームで吸い上げられたように現実に引き戻された。
「あ、すみません」
鏡のように磨かれた床、幾重にも反響する来館者の革靴の音。ブースを設営しているスタッフさんの怒号......。
学校の体育館ほどの広々としたロビーの端っこに、今私は警備員として立っていた。
「立哨、交代の時間でしょうに。搬入日だからって気を抜かないでよね」
声の主は口をへの字に曲げて、腕時計をぺしぺし叩いた。すらりとした体型に、正しく延びた背筋。セミロングの黒髪を後ろで束ね、唇には薄いピンク色のリップ。くっきりとアイラインを引いた気の強そうなつり目は、非難するように私を射抜いていた。
私の指導係をしてくれている先輩、相良さんだ。
「わかったらさっさとピッチ(業務用PHS)と立哨用のキーボックス寄越して。あんたも時間ないでしょ。次、センター配置なんだからさ」
ちなみに立哨とは、周囲を警戒して見張りに立つ業務のこと。センターとは警備と防災の拠点である「中央警備センター」を指している。
「すみません、立哨って何だかぼうっとしちゃって」
「ま、気持ちはわかるけどね」
でも要点はちゃんと教えたはずよ、と相良さんは人差し指を立てた。
「消火器の計器確認、消防設備や避難経路上に障害物がないか。あとウチの天井には、」
「熱感センサーがあるんですよね。でも精度があんまりよくなくて、迷い込んだ鳩とかに反応しちゃうから注意するようにって」
相良さんはきょとんと目を丸くする。
「なんだ、わかってんじゃん。それだけ理解してて、何をそんな想いふけるようなことがあったわけ?」
「あの。実は、あれを見てて」
指さした先には、大理石の物々しい碑が一つ。
三つの鉄扉を備えた正面玄関から入って右手、丸柱の陰に隠れるようにして設置してある。豪快な払いで立派に刻み込まれている文字は「定礎」の二文字だった。
「定礎板? またあんなもんを何で?」
相良さんは戸惑ったように、目を白黒させた。
「ここの完成披露式典、父と一緒に来たんです。それで、ちょっと感動しちゃって。もう十四年も前ですけど。あれの前で竣工式やったんですよ」
迷子なったことにはあえて触れなかった。お父さんお父さんと泣き叫び、「誰か」の助けを待っていた少女はもう大人になった。今は私がこの施設、日久津市民ホールを守る警備員なのだ。
「まさかとは思うけどさ、本部の新任研修のときに熱烈にウチの施設希望したヤツって、もしかしてあんた?」
「あ、もしかして、噂になってました......?」
「そりゃ、わざわざこんな面倒そうな施設を希望する人間、普通はいないからね。本部にいる同期が珍しがってた」
やっぱりあんたか、と苦笑する相良さんの弁は、おそらく正しい。
ここ日久津市民ホールは、小都市の一公営施設にも関わらず、世界中から様々な客が訪れる。西館には「国際会議場」という名の大ホールがあるのだけど、それも実態を伴ったものなのだ。
ただ、人が多く集まれば、当然トラブルも多くなるのが常だ。その分業務も過酷なものになりがちらしく、社員の間ではこういった大規模施設は忌避されているようだった。
「だけど、私は逆に面白そうって思いましたよ。いろいろなお客さんもいそうだし」
「ふーん。物好きなものね。でも、倉森って出身は山の手の方だって言ってたよね。お父さん、よくこんなド田舎の市民ホールにまで連れてきたなぁ」
職員の目を気にして声をひそめながらも、チクリととげのある台詞を吐くのが、率直な相良さんらしい。
「まあ、仕事の関係だったんで」
「お父さんの? 建築関係の人だったの?」
「ええ、まぁ」
「そういえば倉森って名前、どこかで......」
――あぁ、こちら中央警備センターより倉森警備士。交代時間過ぎてるけど、戻れそう? ちょっと話したいこともあるので、できれば早く来てください。どうぞ。
相良さんの言葉を遮るように、無線機がくぐもった声を発した。
「やばい、交代時間過ぎてるんだった。ちょっと急いだ方がいいね」
「は、はい! じゃあ立哨お願いします」
肩につけた無線機に声を吹き込みながら、私は小走りで駆けだした。
「こちら倉森警備士、至急センターに戻ります!」
続く