26話 走る、走る、走る
「あたしの背中に乗りなさい。隣町まで走ってあげる」
「走る……? 本気で言ってるのかイルヴィラ。無理だ、隣町まで何キロあると――」
「この靴があるわ」
そう言って、イルヴィラは膝を曲げて靴を強調する。
イルヴィラが履いている赤い靴を見た俺は、その靴が魔石が融合されたものであることに気付いた。
「『反発』……いや、『増幅』か……? そんな珍しい魔石を良く持ってるな」
俺は立ち上がりながら言う。
イルヴィラの靴に融合されているのは、エネルギーを増幅する魔石だ。
それが融合された靴なら、たしかに普通の靴とは全く違う推進力を得ることができるだろう。
ただし、『増幅』が生み出すエネルギーは到底人間が扱いきれるような出力ではない。
そう、ごく一部の人外じみた能力を持つ人間を除いて。
「まだ戦闘ではあんまり使いこなせないんだけど、ただ走るだけならなんとかなるわ」
「だから乗りなさい」と、イルヴィラは俺を手招きする。
しかし俺はその誘いに易々とのっかることはできない。
今俺の目の前にいる少女はたしかにトップクラスの冒険者だが、それと同時に華奢な身体の持ち主でもあるのだ。
「……俺は大人の男だ。相応に重いぞ? 本当に、大丈夫なのか?」
俺がためらいがちにそう尋ねると、イルヴィラはもう我慢できないとでも言いたげに頭をかいた。雨に濡れてなお滑らかな赤い髪がそれに従って動く。
「ああもう、大丈夫だから乗りなさいって言ってるのよ! それとも、あたしが信じられない訳!?」
そう言うと、イルヴィラは俺の目前にまで歩いてくる。
そして俺の胸に、ドンと力強く拳を撃ちつけた。
「いい、レナルド? 『人に頼れ』って言うなら、あんたも人を頼りなさい。自分が出来ないことを他人に求めるんじゃないわよ」
その蒼い瞳は、真っ直ぐに俺を射抜いている。
「厳しいな……だが、その通りだ。ぐうの音も出ん」
たしかにそうだ、俺はイルヴィラを信じ切れていなかった。
カリファにあれだけ大口叩いたんだ、それを己が実践できなくてどうする。
俺も、人を信じなきゃな。
「……頼む。信じるぞ、イルヴィラ」
「まっかせなさい!」
そう快活に答え、イルヴィラは俺を背負った。
こんなに小さな背中に乗って潰れてやしまわないか、と心配したが、イルヴィラはしっかりとした足つきで俺を背負う。さすが本職の冒険者といったところか。
俺を背負ったイルヴィラは走り出す。
『増幅』の力を利用したイルヴィラの走りはまるで風になったかのように軽やかで、背に乗る俺は感動を覚えていた。
「すげえ……」
思わず口から言葉が零れる。
それを聞いたイルヴィラが、走りながら俺に言う。
「あんたはジッとしてなさい、一時間で着いてあげるるから」
「……直線距離で五十キロは軽く離れてる上に山林続きだが、本当に一時間で着けるのか?」
「……さ、三時間もあれば着いてやるわよ」
二時間増えたな……。
いや、それでも恐るべき速さではある。
イルヴィラが言った通りのことをできるのは、この世界でもほんの一握りの人間だけだろう。
走りながら、イルヴィラは口を開く。
「もし三時間で着けなかったら、一日あんた専用のメイドになってあげるわ」
「なんだよ、その条件」
そういえば、最初に会った時もその賭けみたいなのやってたな。
結果にゃんこ言葉をするはめになっていたが。
「う、うるさいわね。こうやって自分にプレッシャーをかけていくタイプなのよ、あたしは!」
少し上擦った声でそう答えながら、速度は全く落とさずにイルヴィラは隣町へと駆けた。
「おい、大丈夫か?」
「はぁ? 大丈夫に、決まってるでしょうが」
走り出してからもう二時間以上がたった。
強がるイルヴィラだが、呼吸のたびに上下する肩が疲労度合いを如実に表している。
しかし決して速度は落とさず……その精神力には、素直に感嘆する以外にない。
「何か、俺にできることはないか?」
今度は、俺がイルヴィラにそう尋ねる番だった。
「激励してほしいわね。どこかで聞いたことのあるような安い言葉じゃなくって、心の底から奮い立たせるような言葉をかけてほしいところだわ」
心の底から奮い立たせるような言葉、か。
そうだなぁ……。
考えた末、俺はイルヴィラの耳元でささやく。
「ほら、頑張らないと俺のメイドになることになるぞ。頑張れ頑張れ」
「ひゃうんっ!?」
急に耳元でしゃべられたことに驚いたのか、イルヴィラは乙女のような声を上げた。
「ああ、すまん。こそばゆかったか?」
心配してやると、イルヴィラは見る見るうちに顔全体、耳たぶまでもを赤くする。
後ろにいる俺でさえ気づくほどなのだから、前からみたらもう完全に真っ赤っかなのだろうな。
「……心の底から奮い立ったし、心の底からいらついたわ。レナルド、あとで覚えときなさい」
「お、おう。なんかごめんな」
どうやら一応効果はあったようだが、よけいな羞恥心まで刺激してしまったようだ。
やはり他人が望む感情を与えられるような完璧な言葉を言うのは、まだ俺には難しいな。
イルヴィラの背に乗りながら、そんなことを考えた。
「あっ!」
それからさらに十数分後。イルヴィラが不意に声を上げる。
「どうした、イルヴィラ」
「……ふふん、ざまあ見なさいレナルド。あんたのメイドは、しなくてすみそうよ」
そう言って、イルヴィラは俺を背中から下ろした。
下りた俺は地面に立ち、イルヴィラが見ている方角を見る。
そこには、柵に囲まれた魔物たちと、それをのんびりとみている人々の姿があった。
「ついたわ、ディリーの街に」
イルヴィラは荒い息のまま、ニコリと笑って俺に言う。
最初は強がって息遣いも抑えていたのだが、すでにそんな余裕はなくなっているようだった。
「ちゃんと三時間以内なはずよ」
そう言いながら、イルヴィラはその場に座り込む。
背後を見れば、今までイルヴィラがかけてきた数個の森がどこまでも続いていた。
ここを、彼女は男一人を背負って駆けてくれたのだ。
「ああ、ありがとうイルヴィラ。本当に」
俺は本心からイルヴィラに感謝した。
まさか、本当に走りきれるとは……。
敬意と感謝でいっぱいの俺に、イルヴィラは「約束は守る女なのよ、あたし」と返した。
「肩を貸そう」
俺は座り込んでしまったイルヴィラに言う。
ディリーまではあとほんの数百歩。
しかし今のイルヴィラには辛い距離だろう。
「いいわ、歩ける」
そう言って、イルヴィラは立ち上がる。
だがその顔には疲労が色濃く浮かんでいて、正直見るに堪えない。
イルヴィラが今こんなに疲れた顔をしているのはカリファの為……そして俺の為なのだ。
それがわかっている俺には、とても何もせずにいることはできなかった。
「いや、頼む。俺にも何かさせてほしいんだ」
「……わかったわよ。肩、借りるわ」
二度目の訴えで、やっとイルヴィラは俺の肩に手を回してくる。
その華奢な腕の感覚に、より一層敬意の念を強めながら、俺はイルヴィラに肩を貸す。
そして俺たちはディリーの街へと足を踏み入れた。




