22話 笑顔の裏
「おや雨が降ってきたね? 森の方は太陽がでてたのに……」
オーシャニアへと帰還した俺たちを待っていたのは、天からの嬉しくない歓迎だった。
「ここまで天気が変わることも珍しいわね……」
イルヴィラがそう呟く。
森との距離はそこまで近くはないが、彼女の言う通り、こんなに大幅に天気が変わるような距離ではない。
空を見上げれば、海からオーシャニアの街全体に向かって、灰色の厚い雲が何層にも折り重なっていた。雲は光を遮断し、街の雰囲気はどこか薄寂しく感じられる。
降り出した雨は瞬く間に強さを増し、視界に影響が出るほどの大雨となった。
「宿に急いだ方が良さそうだね」
「ああ、そうだな」
俺たちはピースバード亭に向け、歩く足を速める。
歩きながらも、俺はこの街のことについて意識を巡らせていた。
海岸に降り続ける雨と言い、やはりこの街には何かが起きているようだ。
「レナルド、濡れたくないから服の中入れて!」
と、エウラリアが俺の上着の前側をペラリと手に持つ。
これだけの雨だ、身体の小さいエウラリアが受ける負担は大きい。
そう思った俺はエウラリアを羽織った上着の中へと招き入れた。
すると、エウラリアが服の中でもぞもぞと動き出す。
何をしているのかと見てみれば、しきりに鼻をヒクヒクと動かしていた。
「すんすん、すんすん……よかったね、レナルド! キミはまだおじさんみたいな匂いはしないよ!」
「何で匂いを嗅いでんだ」
グッと親指を突きだすエウラリアに小声で注意しながらも、俺は少しホッとする。
加齢臭がすると言われたらさすがにショックだからな。しばらく立ち直れない。
気付けば俺ももう二十八だもんな……月日が経つのは早いものだ。
そして歩くこと数分、俺たち三人はピースバード亭へと戻ってきた。
上着は雨でぐっしょりと濡れてしまっていたが致し方ない。
風邪を引かないためにも、宿に入ってからすぐに脱いで風呂に入った方がいいな。
そんなことを考えながら宿の扉を開ける。
「……あ、お帰りなさいっ。ご無事でしたか?」
宿の主人はどこかへ出かけているらしかったが、アルシャが笑顔で俺たちを出迎えてくれた。
……が、俺はそこでふと、今見たばかりのアルシャの笑顔に異変を覚えた。
「どこか」と言われると言葉にするのは難しい。
しかし、どこかが変なのだ。
俺は笑顔の練習をするために、アルシャの笑顔を間近で見た経験がある。
さきほどのアルシャの笑顔には、その時に見た完璧な笑顔に比べてぎこちないような印象を一瞬だけ感じた。
上着から顔だけを出したエウラリアも、俺と同じような印象をもったようだ。
「浴場はいつでも準備できていますので、身体をゆっくり温めてきてくださいね」
そう言ってアルシャは浴場の方向を腕で示す。
俺はエルディンたちと共にそれに従って浴場へと進んでいく……途中で足を止めた。
アルシャの異変に気づいているのに、何もしないでいいのだろうか。
いや、よくないだろう。
隣を歩いていた俺が突然通路の真ん中で立ち止まったことで、エルディンとイルヴィラは振り返る。
「? どうしたのよ、レナルド?」
心底不思議そうな顔でイルヴィラが尋ねてくる。
イルヴィラがアルシャと接したのはほんの数分だけだ。異変に気が付かないのも無理はない……というか、気が付かなくて当然だろう。
「いや……少し用があるのを忘れていた。風呂に入るのはそれを済ませてからにする」
俺は浴場に入るのを後回しにすることを告げた。
「ふーん。ま、あたしはどうせ女湯だし関係ないか。……あんまりモタモタしてると風邪ひくんだから、気をつけなさいよね?」
彼女の少し回りくどいような素直ではない心配に、俺は頷いた。
エルディンはそんな俺を見て思案顔で何かを考えていたようだったが、すぐに俺に言う。
「なら、僕たちは先に行っているよ」
「ああ、悪いな」
そして浴場の方への振り向きざま、エルディンはチラリと一瞬視線を逸らし、歩いてきた通路の方へと向けた。
……もしかして、アルシャの異変に気が付いたのか?
エルディンとイルヴィラは俺を残して浴場の方へと歩いていく。
「……あれ、気づいてるんじゃない?」
二人が角を曲がったところで、エウラリアがぼそりと呟いた。
「かもな……」
会話さえほとんどしていないはずだが、今の意味ありげな視線はおそらくそういうことだろう。
冒険者には観察力も必要だ、他人を観察するのに長けていてもおかしくはない。
それにしても恐るべき勘の鋭さだが……。
そんな思考は、隣から聞こえた「くしゅんっ!」という可愛らしいくしゃみにかき消された。
「大丈夫か?」
「ちょっと冷えちゃったみたい」
エウラリアは二の腕を手でこする。
「……ボクもアルシャのことは気になるけど、大人しくお風呂に入っておくことにするよ。もし風邪をひいちゃったら、かえってアルシャにも君にも迷惑をかけちゃうことにあるからね」
俺はその言葉に少し目を丸くした。
「……まさかエウラリアにそんな気遣いが出来るとは……」
「ちょっと、それどういう意味さ!?」
半分は本心だが、もう半分は冗談だ。
ぷんぷんと怒るエウラリアを上着から外にだす。
「こっちは俺に任せて、お前は安心して風呂に入ってきてくれ」
「……キミ一人で大丈夫かなぁ」
エウラリアが不安げな瞳で俺を見る。
大丈夫かだって?
そりゃもちろん大丈夫……では、ないかもしれない。
なんといっても、俺のコミュニケーション能力の欠如はエウラリアのお墨付きだ。
「……下手を打ったら後でフォローを頼みたい」
俺の言葉にエウラリアは眉を下げて「仕方ないなぁ」といった風な顔を浮かべる。
「うん、わかったよ。……くしゅんっ!」
そう言い残しエウラリアも浴場へと向かって行った。
二人と一匹と別れた俺は、来た通路を再び戻っていく。
「あれ? レナルドさん、どうかしましたか?」
俺が戻ってきたことに気付いたアルシャが顔を向けてくる。
「いや……ひょっとしたら俺の思い過ごしかもしれないんだが……。いつもと様子が違う様に思えてな」
俺がそう言うと、アルシャはニコリとかすかに笑みを浮かべた。
「大丈夫か、アルシャ?」
「私は大丈夫ですよ。……でも、ありがとうございます。心配してくれて」
アルシャはぽつぽつと語りだす。
「ついに青竜が海で目撃されたんです。私たちの前に姿を現すのなんて十年ぶりですから、それで街の人たちも……私も少し動揺してしまっていたみたいです」
青竜……この近辺の海に棲息しているらしい魔物か。
どうもその魔物は、この街では神聖視されているらしい。
強大な力を持つ魔物に畏敬の感情を持つことは珍しくない。
魔物を祀り上げている街や村の話はいくつか聞いたことがある。
青竜もそういった対象の内の一匹ということなのだろう。
アルシャの語り口から、青竜が姿を現すというのが相当に不味い状況だということは明確に伝わってきた。
「雨の影響もついに街まで広がってきてしまいました。これ以上広がれば、この街の問題だけではなくなってしまいます。……何とかしないといけないんです。『海巫女』の、私が」
「アルシャ、一人で思いつめる必要はない」
俺はアルシャを諌める。
今のアルシャには、思いつめすぎて周りが見えていないような気がした。
理由はちがくとも、俺も長い間同じような状況に陥っていたことがある。
融合屋を始めてから最初の数年は特にそうだった。人一人来ない店の状態が「お前の実力が足りないからだ」と責めてくるようで、俺はその呪縛から逃げるようにスライムの魔石の融合に没頭したのだ。
その状態から抜け出すまでには数年かかった。
まるで泥の海にほっぽりだされたような孤独感と、もがいてももがいても身体に泥が流れ込んでくる疲労感……今思い返しても、あの時が人生で一番つらい期間だったと思う。
そんな経験をしたからこそ、今のアルシャを何とかしたいという思いは強かった。
アルシャの頭の中では「自分一人で今の状況を打破しないといけない」という思いが、ぐるぐると繰り返し巡っているのだろう。
「アルシャ、人間一人ができることなんて高が知れているんだ。だから……もし何かあったら、遠慮なく俺やエウラリアにも頼ってくれ。協力させてもらう」
アルシャは当時の俺と同じような気持ちになってしまっている。
だが、アルシャはあの時の俺とは違って一人ぼっちではないのだ。それを彼女に知ってほしかった。
「……レナルドさんは、本当に優しいですね」
「俺がこうなったのはどこかの妖精のお蔭だ……癪だけどな」
エウラリアが、俺を一人ぼっちでなくしてくれた。
自分でも気づいていなかったが、俺はきっとそれが嬉しかったのだ。
他人と関わることの嬉しさ、楽しさを味わえたから。
だからこそ今、「頼ってほしい」という言葉が自然と口から零れたんだろう。
「ありがとうございます。おかげで少し元気が出ました。遠慮なく頼らせてもらいますね?」
アルシャは笑う。
問題は何も解決してはいないし、外は雨が降り続けたままだ。
それでも、少しでも彼女の抱える苦しい気持ちが取り除けたなら嬉しいと、俺は思った。
俺もアルシャに笑いかけ、言う。
「なら良かっ――へっくしょんっ!」
「た、大変! 風邪をひいてしまいます! すぐにお風呂に入らないと!」
「……わ、わかった。行ってくる……」
最後の最後で失敗したぁ……!
生理現象とはいえ、悔やんでも悔やみきれないぞこれ!
アルシャのことを心配していたのに、最終的に心配されて終わってしまった。
「なんであそこでくしゃみが出るんだ……」
俺は痛恨のくしゃみに頭を抱えながら、浴場へと向かうのだった。




