第七節【岬の迷宮】
翌朝目覚めると、まず感じたのは違和感だった。
俺やリズナの、ではなく、屋敷が何やら騒がしかったのだ。
(何かあったのか……?)
そう思い、リズナを起こさないように起き上がり、部屋の外に出た。
一階に降りると、玄関先で兵士とマリスさんが話している最中だった。
マリスさんの表情は険しく、兵士に何か支持を出していた。
話が終わると、兵士はマリスさんにお辞儀をすると、港へ向かって駆け出した。
「どうかしたんですか?」
「か、カイト様……」
俺が声を掛けると、ようやく俺に気付いたマリスさんがこちらに目を向けた。
その目は焦りに満ちていて、普段感じられる余裕は一切見られない。
「……いえ、カイト様はお客様です。何もお気になさらないでください」
そう言いつつ、彼女の表情は葛藤が溢れ出ているように見えた。
ふと、俺は屋敷全体に《探知》を放った。
「……マークは出掛けたんですか?」
そう尋ねると、マリスさんは目を見開いて驚愕していた。
今の《サーチ》で、この屋敷にマークが居ないことを把握していた。
そして、この完璧従者がここまで取り乱している。
そこから考えると、昨夜何かが起こり、マークはマリスさんに何も告げずに出て行ったんだろう。
「詳しいことを教えてください」
マリスさんは一度俯いてから顔を上げた。
その目には涙が溜まり、今にも零れ落ちそうだった。
「……カイト様。……どうか、どうかお力を……!!」
§∞§∞§
問題は深夜に起こったとのことだ。
あの領主代行のハンス・バグラーが、拘束されていた牢から脱獄したのだ。
見張り達は全て気絶させられており、何者かの手引きが疑われた。
しかし、間者の痕跡は全く無く、ハンスの痕跡しか見つからなかった。
そして、脱獄したハンスの行き先は、港の北東にある迷宮だった。
早朝、見張りの交代の者がハンスの脱獄に気付き、報告を受けたマークは単身、ハンスを捕獲する為に迷宮へ向かったということだった。
「どうしてマークは一人で行ったんだ?」
「ご主人様の私室に置手紙がありました……」
マリスさんはそう言うと、封筒と便箋を差し出して来た。
読んでもいいということだろう。
俺は差し出された便箋に目を通した。
そこには、昨日捕えたハンス・バグラーが脱走し、逃げた先が迷宮であること。
そして、マークが一人、ハンスを追って迷宮に向かったことが書かれていた。
しかし…。
「どうしてマークは一人で行ったんだ…?」
「……領主としてのけじめ、でしょう」
「けじめ?」
「はい。調査とはいえ、二年もの間不在となっていたこと、その間に来たハンスの暴挙を止められなかったこと。そしてなにより、雨を晴らすことができなかったことへのけじめです……」
マークの気持ちは解る。
解るけど、それは仕方ないことだ。
迷宮の起こす異変を、たかが島の領主がどうこうできるものではない。
むしろ、早期に異常に対処し、島を巡って調査を続けた彼を誰が責められるだろうか。
俺は便箋をマリスさんに返すと、窓の外に目を向けた。
ハンスが脱走したのは深夜。
そしてマークが屋敷を出て迷宮に向かったのは、明け方頃という話だ。
今は九時頃だから、恐らくマークはもうそろそろ迷宮に辿り着いている頃だろう。
マークの実力なら魔物相手にも遅れは取らないだろう。
しかし、それは通常の魔物が相手だった場合の話だ。
迷宮に現れる魔物は、通常の魔物よりも強力で、厄介な特性もある。
極めつけは、最深奥にいる守護獣という本当の化け物の存在だ。
ハッキリ言ってマーク一人では相手にならないだろう。
「昨晩、ご主人様から話は聞かせていただきました。
カイト様の実力を。剣術だけではなく、魔法をも自在に操る、伝説の《賢人》を彷彿とさせると……」
《賢人》、ねぇ。
歴史の至る所に現れては、その正体は知られておらず、ただ《賢人》という名前だけが広まった存在。
その魔法は、天候を、地形をも変えてしまう。更に、無から有を生み出す神の御業ともいえる秘術を使う、人間の領域を超えた存在と言われている。
マークはここまでの旅で俺をそこまで評価してくれていたのか。
「ご存じの通り、私はあなたを危険視し、警戒しておりました。そんな私がするのは都合の良いお願いだと解っています!
ですが、一時とはいえ仲間となったマーク様の為、あなたの力をお貸しください!!」
マリスさんはそう言うと、俺の前に跪き、地面に額を擦りつけて懇願した。
俺はそんな彼女の肩に手を置いて顔を上げさせる。
顔を上げたマリスさんは、いつもの鉄面皮のような仮面ではなく、両目に涙を溜めた人間らしい表情をしていた。
「そんな顔しないで下さい。
俺にだって解りますよ。マリスさんがどれだけマークを大切に思っているのか」
俺はそう言って客間に戻ると、リズナを起こさないようにしながら身支度を整え、エントランスに居るマリスさんの元へ戻った。
マリスさんは俺の格好を見ると、口に手を当てて驚くと、再び深くお辞儀をしてきた。
「ありがとう……ございます……っ!!」
床に涙が落ち、いくつもの小さな水溜まりを作っている。
暖かい、優しい水溜まりを。
「マリスさんの為じゃありません。
俺が、俺の意志で、マークを助けたい。だから行くんです。
マリスさんは、マークが戻ってきたら叱ってやってください。主が間違ったら叱ってやるのも良き従者のすることでしょ?」
マリスさんの横を過ぎ、扉に手を掛けて振り返る。
「それに、マークは俺の友達だ。
友達の為に力を行使するのは、当然のことなんですよ」
それを伝えると、俺は扉を開けて雨の中に飛び出した。
「行ってきます!」
§∞§∞§
= リズナ =
目が覚めると、隣にあの人は居なかった。
起き上がって部屋を見渡したがどこにも居ない。
私が寝過ぎたから、先にご飯を食べに行ったのかな?
(きゅるーーーー)
ご飯のことを考えた途端、お腹が音を立てて鳴った。
幸いにも誰にも聞かれていない。
お腹を押さえながらベッドから降りると、荷物の中から着替えの服を取り出して着替えると、部屋を出て食堂に向かった。
すると、階段の所で階下に人の気配を感じた。
息を潜めて下の様子を窺うと、あの人とご飯を作ってくれた女の人がお話をしていた。
気になったのは、あの人の格好だった。
ここまで来た時と同じ、戦っていた時と同じ格好をしていた。
それを見た途端、私の胸に不安が溢れてきた。
このままあの人を見送ってしまったら、もう帰ってこないのではないだろうか?
私はこのお屋敷に置いて行かれてしまうのではないか?
もう二度と、あの人に頭を撫でて貰えないんじゃないだろうか……?
そう思うと、体が震えた。
最初、あの人に感じたのは『安心感』だった。
身も凍るような冷たかった、あの雨の中で私を見つけ出し、温かく包み込んでくれたとっても大きな男の人。
目覚めた時飲ませてくれたあのスープの味は今でもちゃんと覚えている。
着たこともない可愛らしい服を着て街を一緒に歩いた。
知らない人に怯える私を、あの人は優しく頭を撫でて安心させてくれた。
……この人とずっと一緒に居たいと、そう思えた。
最初に不安を感じたのは、ここに来る途中の、怖い人達に囲まれたあの時だ。
あの人は、私が怖がっていた人達を簡単にやっつけてしまった。
その時、あの人が自分とは全く違う、とてもスゴイ存在なんだと理解した。
……私はあの人にとって足手纏いでしかない。
そんな私を、いつまでも傍に居させてはくれないだろう……。
そう考えると怖くなって今まで以上にあの人の傍に居るようにした。
夜もあの人が一人で起きていると、その膝に乗って頭を撫でて貰った。
そうすることで安心感を得たかったのだ。
「行ってきます!」
あの人はそう言うと出て行ってしまった。
「ぃ、ゃ……」
置いて行かれたくない。
離れたくない。
傍に居たい…!
そう思ったら、私も走り出していた。
誰にもバレない様に外へ出ると、お馬さんが居る小屋に向かった。
私は沢山いるお馬さんの中から、元気の良さそうな子を選んでその背に乗った。
お馬さんの操り方は、馬車に乗っていた時に見ていたから憶えている。
だけど、あの人がどこへ向かったのかが解らない……。
それが解らないと追いかけることができない……!!
私はそれを認められず俯いてしまう。
その目からは、涙が今にも零れ落ちそうなほど溢れていた……。
――― リン ――― リン ―――
途方に暮れていると、どこからか音が聞こえてきた……。
聞き覚えのある音。
どこで聞いたんだったっけ……?
目を閉じて耳を澄ませる。
すると、その音からあの人の温もりを感じることができた。
理由は解らない。
だが、この音の先にあの人がいると、そう確信を持つことができた。
私は目を開けると、音が聞こえる方角へお馬さんを走らせた。
§∞§∞§
= マーク =
ハンスが脱走した報せを受けた私は、単身で彼が逃げた先、迷宮に挑んでいた。
迷宮に現れる魔物は野生の魔物と違い、一体一体が強力な能力を持っており、苦戦を強いられていた。
ここに来るまでハンスに追いつくことは無く、それはあの男がまだ生きてこの迷宮に居るということを意味していた。こんな凶悪な魔物が溢れる迷宮に、だ。
自分も、この高い《隠密》能力が付与されている魔導具のマントを着ていなかったら、すぐに魔物の餌食になっていただろう。
体力と共に、精神力もすり減らしながら、私はハンスを探し続けていた。
「やはり、なんとかカイトに同行して貰うべきだったかな……?」
カイト。彼は凄い男だ。
彼を初めて見たのは【ビエイドの街】で、彼を狙う盗賊をあっさり撃退している姿を目撃した時だ。
気配を完全に消して手に気付かれることなく接近し、瞬く間に制圧してしまった。
その隠密能力は、注意深く観戦していた私が、何度もその存在を見失ってしまう程だった。
そんなカイトの実力に惚れ込み、早速その晩に彼に接触した。
最初、彼は私のことを警戒していたが、どうにかパーティを組むことができた。
話してみると、親近感の沸く青年だった。
保護したという少女は彼に懐いていたし、悪い男ではないとすぐ解った。
そして、【ガジロス盗賊団】の襲撃。
頭領のガジロスとの一戦で、私はカイトの本気を少しだけ垣間見た。
地面に落ちた雷の威力と、その魔法を完全にコントロールする操作性。
それを見た時、私はかの伝説の《賢人》という人物とカイトの姿が重なって見えた。
そして港に辿り着き、紆余曲折はあったものの、彼に助力を願うこともできた。
彼が力を貸してくれれば、迷宮攻略も犠牲を出さずに行える。
長年この島を苦しめてきたこの異変を終わらせることができるかもしれない。
そんな希望が生まれたのだ。
しかし、私は単身迷宮に挑んでいる。
ここに来るまでは、それなりに自分の腕に自信があった。
短期間で冒険者ランクも《銀》まで上げられたし、武器も王国職人が丹精込めて造った一級品だ。更に、このマントもある。
一人であっても、ただの貴族であるハンスを捕えて戻るくらいのことはできると踏んでいた。
しかし、ハンスには追い付かず、更に迷宮内の魔物の強さに、積み上げられた自身は粉々に打ち砕かれていた。
「……ふぅ」
どのくらい時間が経っただろうか?
一日、二日?いや、もしかしたら半日も経っていないか?
一体どこまでこの迷宮が続いているのかも解らず、襲い来る魔物の相手をするのは予想以上に精神をすり減らしていた。
「ハァ…ハァ…」
何度目かの魔物との戦闘を終えた私は、壁に背を預けて荒い息を吐いていた。
長くは保たない……。
先頭による傷を、治癒術式が付与されている魔石の魔導具を使って癒している時にそう感じた。
治療と休息を終えて立ち上がると、視線を迷宮の奥へ向ける。
すると、ふと今までに感じなかったものを感じた。
……匂いだ。
迷宮の奥から嗅ぎ慣れた……そう、潮の匂いを感じた。
歩調を速めて奥へ向かう。
すると、今までにあった広間とは違う、広大な空間に出た。
天井に埋まる幾つもの大きな発光石によって煌々と照らされた空間は、中央に巨大な湖があり、湖の中心には円状の島があった。
そして、その島に倒れている男を、ハンス・バグラーの姿を見つけた。
死んでいるのだろうか?遠目にはピクリとも動かない。
湖には所々浮島のように岩の足場があり、それを渡って島へ向かった。
足場を渡り終えてハンスへ駆け寄った。
ハンスは白目を剥き涙と鼻水を溢れさせ、口からは泡を、下半身からは別の液体を流しながら気を失っていた。
ハンスの状態を見ると、特に目立った怪我も無かった。
ただ、身に着けている装備は着の身着のまま、投獄された時と同じ服装だった。
しかし唯一、その腕には銀色の腕輪がついていた。
恐らく、この腕輪は魔導具で、私のマント同様の《隠蔽》の効果が付与されているのだろう。しかも、マントよりも高レベルのものが。
だからこそ、ハンスは無傷でこんな迷宮の、こんなに奥まで進むことができたのだろう。
とりあえず私は、気を失っているハンスの腕を掴んで、引き摺るように出口へ向かった。
背負った方が早いというのは解っているが、流石にこの男の汚物で汚れた下半身に触れるのは生理的に嫌だったのだ。
しかし、一つ目の岩の足場に飛び移った瞬間、異変が起こった。
今まで凪いでいた水面は、徐々に大きく波打ち始め、それと同時にどこからかともなく途轍もない殺気が空間全体に満ちていたのだ。
今まで感じたこともないような殺気に、心臓が握りつぶされたかのような錯覚を覚え、周囲を見渡した。
敵らしい魔物の姿は見つからない。
しかし、確かに敵はこの空間に居る。本能がそれを察知している。
(……ハンスを連れてすぐに逃げるか?
いや、今動くのは危険じゃ……クソッ!なんなんだ!?この気配は!!!)
自分はどんな状況でも冷静に対処できる。
そう思っていたが、その大き過ぎるプレッシャーを前に、一向に思考が纏まらない自分が嫌になる。
・
・
・
暫くすると、唐突に殺気が霧散した。
波打っていた水面も今は凪いでいる。
空間は再び静寂に包まれていた。
(……止まっ、た?)
圧力から解放され、無意識に止まっていた呼吸をゆっくりと再開させる。
冷や汗がドッと溢れ出し、立ち上がろうと足に力を籠めるが体が言うことを聞いてくれない…。
それでも無理矢理立とうとして、ハンスから手を離して膝に手を着いた。
その瞬間。
ドパアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッッ!!!!!!
私が立っている足場とは反対側から天井まで届きそうな水柱が上がった。
その水柱の中に。
黒い影が写った。
とても巨大な影。
その頭の相貌がギラリと光った。
「ギシャアアアアアアアアアオオオオオオオオオオオオオオアアアアアンッッッ!!!!!!!」
巨大な咆哮と共に、水柱が霧散する。
そこから現れたのは、絶対的な絶望だった。




