忘れかけの花束
健はこの日、いつも脹れる地下鉄の駅公舎にいた。
来年度に迫ったオリンピックに向けて外国からの観光客も増え、余計に人だかりが出来ていたのである。もちろんその人混みの中に、鞄にヘルプマークを付けた男性が電車を待って居た。健自身は、ヘルプマークをつけた人を見るのが初めてだったため、目線のやり場に困っていた。他の乗客たちは乗車時に目のやり場を助ける携帯を見つめながらも、器用に電車に乗り込んで行くのである。いや、そうではなく気付かない乗客もまた居て、ちょこちょことヘルプマークを付けた男性にぶつかるのではないか。
その事に気が付いた校外授業の帰りの小学生は、次々に名乗りをあげて道や席を譲り渡した。よく見るとその男性は脚を引きずっており、席につく際には息をつくように重たい思いを下ろしていた。しばらくの間、賑やかな子供達の声でうまっていたが、健の降りるひとつ前の駅で下車をした。下車をする前に、席を譲ってあげた男性に手を大きく降りながら『またね。』という声が静かにとどろいた。男性もこれ以上のない笑顔で『ありがとう。』と囁いた。
あいにく、そんなに幸せな時間は続かなかった。
気づけば車体とホームの境に、ヘルプマークを付けた男性が挟まっていたのだ。状況をみていなくても、騒ぎ立てる声で原因と今における状況は把握ができた。要するに、飛び込み乗車客と歩きスマホと、ヘルプマークを意識できなかった人たちの一方通行の利用が原因であった。健が不意に予想して眼を閉じていた出来事だった。
先日の花屋さんを思い出した。
『今どき、珍しい子だね。
花をじっと見て、まるで会話をしているようだよ。
あんたにゃしっかりせんと、そこにいる恋人さん、ほかの男に飛んでいってしまうよ。
まぁ、他に甘い蜜を味わいさせたいにゃらいいんけど。』
『あの、おばぁちゃん…。まず、どこの言葉ですか。
通じてはいますけど。でも…
いま、
わたし、独り身で、あの、一人で…』
『そんなもん、わかっちょる。んだから、いってんだべ?
人を 大事にせぇ。って』
そんなことを言われたのだった。
健がそれを思い出したのは、自分の見過ごしから招いた事故だと認識したからであった……。
式場にむかっていた健は少し、由美の失った悔しさと憎しみで、頼んでいた花束を粗末にしていることを、まだ気付いてはいないのであったーーー




