表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

『永遠』の死角

作者: 荒屋敷玄太郎

将棋ネタですが、将棋を知らない人でもお楽しみいただけると思います。

やれやれ、囲碁さんの方もやられたようでんな。


16/07/13 指し手について訂正。大ポカ、いうやつですわ。


22/12/04 続編『時をかける宇宙』投稿。ぜひご覧ください!

  7八飛車、と打たれた。

  痛烈な一手だった。

  川之森大五郎は薄い脇腹が膝につきそうなほど上体を屈めていた。

  将棋の世界では「劣勢の者が姿勢が悪くなる」と云うが、果たしてここまで苦悶の意を呈した棋士があったろうか。

 7八飛の前に打たされたのは5七角、これは必然手であり、また最善手であった。

 そしてここまで、川之森世界最強名人位(20年タイトル保持)は最善手を指してきたつもりであった。

 形勢は互角のはずであり、駒の損得はおろか、手数の損得すら無かった、と彼は読んでいた。

 苦悶の果て、川之森は初めて口を開いた。

「どこが悪かったんでしょうかね」

 それは虚空に向けた呟きだった。

「…僕にもわかりません」

 指し手であるプログラマーの椎名はすまなそうに応えた。

 彼は代理の指し手であり、また、その指し手を創り出した者でもあった。

 スーパーコンピューター『永遠とわ』──。

 椎名は『永遠』の圧倒的計算力を応用した将棋ソフト『Big_Bridge.』の算出した指し手をただ移し取るように指しているだけであり、盤上に表れる指し手の良し悪しをすら全く理解してはいなかった。

『永遠』は、しかも将棋の最善手の応酬が、全247手の曲詰めになることを証明した。

 棋士の手をカットした棋譜動画を見るとわかる。

 荒れ狂う波の中から青竜が姿を現し、嵐の中を猛烈に暴れ狂ってから海に戻っていく。

 そして完全に海に潜ってから、飛車が打たれ、次の手で成り、ふたたび青竜の眼をあらわす竜王になる。

 竜王で同じ手数を繰り返したとき、113手後に将棋は決着する。

 5五に竜を置いて。

 このことが何を意味するか。

 それは、本将棋の真髄であった。

 連綿と続いてきた、卓上遊戯の古典、本将棋という傑作ゲームに対してある証明がなされたのだ。

 すなわち「将棋には最適戦略ならぬ必勝手順が存在し、それは先手のみが持ちうるがゆえ、このゲームは先手必勝である」QED。

 この証明がなされた事によって、本将棋平手対局開始時の駒組み、というものは、限りなく「詰め将棋」に近い存在である事が判明したのだ。

 すべての局面にかならず正着手が存在し、後手は対応だけに終始する。そして先手が正着手を差し切ればかならず勝利する。

 究極的には、この瞬間から「本将棋の平手組み」は単なる「一人ゲーム」となったといえる。

 川之森大五郎は完敗した。人類がこの偉大なボードゲームと別れを喫する、決定的な一戦であった。

 このとき川之森は白日夢のような幻影をみた。初代大橋宗桂一世名人によって正式に本将棋が制定されてから現在までの450年間という重さと長さ。それにわずか30分で到達し、数時間で将棋の全ての局面を計算し尽くす『永遠』という怪物を。

 だが、と川之森は思った。だが、自分には少なくとも「何がわるかったかわからない」。

 強いて言えばその「なぜ」のために自分たちは将棋を指すのではないだろうか、と。

 これまでも、そしてこれからも。


 観戦室のモニターの前で、専門棋士たちの間に動揺の波が渡っていった。

 川之森が負けた!

 いや、将棋が完全に解析された!

 居並ぶ門下生、奨励会員たちも愕然としている。泣きだすものもいた。

「落ち着くのだ、諸君」

 ひとりの専門棋士の言葉に、動揺が止んだ。

「穴熊一徹棋仙位…! 」

 誰かが声をあげた。

 穴熊一徹は、名人位に双璧をなすタイトル『棋仙位』を初代から防衛している、専門棋士の影の重鎮である。その権力は棋界のみならず財政界にも広くわたり、川之森とは対極的に、汚れ仕事を豪胆にこなし、しれっとしている。将棋界の隆盛の鍵を握っている男だけに、川之森大五郎も一目おいている。

「『永遠』か…! あやつの力は侮れん。あれだけの時間で『将棋』を解体しおった…化けもんが」

 穴熊は吐き捨てるように言った。

「師匠」若手の奨励会員が手をあげる「やはりこれは先手必勝定跡ということでしょうか」

「そうだ。受け入れるのだ」穴熊は重りを飲んだように低い声でいった。

 しかしざわつきは収まらなかった。女流棋士ヤマトちゃんは顔に両手を押し当ててさめざめと泣いている。

「有段者ならこれが必勝の定跡とウスウス気付くだろう。だが誰でもわかるというものではない」

 モニターの中の川之森大五郎が、血を吐くように『(指す手が)ありません』と云った。

 投了だった。

「打つ手」を考えていた穴熊は焦った。時間が足りない。秒読み。次の一手。

「インタビュアーを遠ざけろ。武藤、桜木。川之森先生を一刻もはやくお連れしろ」

 二人の奨励会員が第2スタジオ内特設対局室へと向かった。

「今見たことは極秘とする。棋譜はもっと早い段階で投了したことに改竄する。熱心なものは覚えていて研究するがよかろう。しかし口外はするな。決して誰にも言うな。」


 川之森が奴凧みたいに二人に抱えられて会議室にやってきた。武藤も桜木も服をくちゃくちゃにされている。モニターを観るとまだ椎名は呆然としていた。

 〈生放送でなくてよかったわい〉穴熊は眉間に深くしわを刻んで独りごちた。

「穴熊さんすまない」川之森がいった「あれは必勝定跡だ。まさかと思った」

 ショックを隠せない面もちで蒼ざめて、彼は骨から震えていた。

「いいか、川之森名人。あれは必勝定跡などではない」穴熊は川之森の肩を両手で握りしめ、含める口調で言う。

「穴熊さんもお分かりでしょう。少なくとも7八飛車で勝負あった。指し手はすべて最善手、その他の手はすべて早詰みにつながります。また、最善手を指しても延命にしかならない。こうなればもう投げるしかないでしょう」

「それはよく分かっている。私もあれなら投げる。だが必勝定跡ではないことにしておくのだ」穴熊は溜息をついた「将棋は人間が指すものなのだ」

「私のほうが穴熊さんより棋力は上だ。私が敗れたことは消すことができない事実です」

 呆然から立ち直った川之森名人はカッとなって不遜な言葉を吐いた。

 穴熊は平然とかえした。

「必勝定跡なら、負けるはずはないのだな? 」

「当たり前です。おわかりでしょう」

「せやな」

 穴熊一門の門下生たちがハッとして穴熊を見上げた。

 〈師匠が関西弁になった〉

 〈またえげつないこと考えつきはったんや〉

 ニヤリと笑う穴熊の表情は、とても、とても「わるい顔」だった。

「仮に、や。『永遠』と『Big_bridge.』たら言う化けもんをわいが負かしたらどないやろかな? 」

「あんた勝てるのか、あれは私より強いんだぞ」

「ボクちゃん強いのは知ってまんがな。せやけど何であんさん棋仙位取られへんか分かるか? 」

「あれはあんたが私物化した財団で設立させたタイトルだろう! 対戦相手指名制度って何なんだ! 」

「なあ、日本ボクシングのタイトル戦ってケッタイやな。せやけどわいが負けて棋仙取られるのはええとしてボクちゃん負けても無くすもんなしや。これも怪態な話や。あんさんも負けたらわいに名人位くなはれ。確約くれたらすぐにあんさん指名しまっせ」

 穴熊の妖言に川之森は絶句した。

 そのとき観戦室の外が何やらガヤガヤと騒がしくなった。

「あれは? 」

「マスコミやな」穴熊は憎々しげに唸った。

「拉致同然に引っ張ってきましたからね。誰かがここを嗅ぎつけたんでしょう」武藤が汗を拭いながら言う。

「ダボハゼみたいな奴らや。鬼の首とったように書きたてよる」

「インタビューを受けてきます。このまま逃げることはできない」

 川之森は憤然と背を向けた。負ける、ということはこういうことなのだ。

「待ちやボクちゃん」穴熊は呼びかけた「必勝定跡とか抜かさんといてな。うっかりしたこと言うと棋界が潰れるで」

 ふたたび、サッと動揺のしじまが渡った。

 棋界が潰れる!

 将棋に先手必勝の手順があるとすれば、将棋とは振り駒で先手を引くだけのゲームになってしまう。

 あらためて棋士たちは背に冷水を浴びたように穴熊を見返した。

「川之森はん、あんたが今からマスコミにどう答えるか教えとくなはれ。あと、負けた言いわけ、これも聞かしとくなはれ」

「責任重大だな」川之森は難解な差し手を読むように、扇子を上唇に当てた。

「勝負は水もんや。負けるときは負ける。負けかた。負けかたが大事なんや」

 しばしの黙考をはさんで、川之森は口を開いた。

「完敗です。『永遠』を創り上げた東帝大工学研究科のみなさん、および『Big_Bridge.』のプログラマー椎名雄一郎氏に敬意を表します」

「ふむ」

「『永遠』の指す将棋は、われわれの研究する将棋の遥か先をいっています。わたくしが80歳で逝くとして1日に10局を研究します、すると生涯に研究できる将棋は30万局に満たない訳です。ところが7000YB(ヨタバイト 7×10*27)を誇る『永遠』は1秒間に10京回数の演算処理が可能だと言われています。乱暴に言えば『永遠』は小一時間で史上すべての専門棋士の生涯を生き抜いているも同然なのです」

「おお、即興にしてはきれいな言いわけやんな。手筋について何かあらへんか? 」

「初手の9六歩を指されたときに、おや、と思いました。この手は阪田三吉流の一種の、外連将棋の定跡とされていて、目下の定跡では『手損ではないが先手後手が入れ替わる、半手の損』とされているのです。そこを咎めるつもりで序盤戦を組み立てましたがまさに9六歩は稀代の妙手だったのでしょう、今にして思えば」

「あれ、おもろかったな。誰でも奇襲に目がいくようになっとるしな」

「9六歩は半手のリードを保っていたのです。そして痛恨の7八飛車。一見ただの中合いの飛車ですがこれを同角と取らねばなりません。ここから先は必然手の応酬で盤上がさばけて先手優勢」

「えげつないな。その後は飛車で王さん突き回してぐるぐるやって、竜でぐるぐる追いたてて5五竜で仕留めるまでに大道詰めみたいに延々といたぶりさらすのンな」

 穴熊は唸って懐からきせるを取り出し「小いき」を指で丸めて詰め、ジッポーで吸い付けた。

「師匠、ここ禁煙ですよ」

「やかましいアホンダラ将棋界の危地に禁煙もあるか」

 穴熊は目を剥いて怒鳴るとあらためてきせるを吸い付けた。

「しかし9六歩からの7八飛車まで全て最善手であり、必然手だったのです。悪手もポカも無い、なぜ負けたのかどうにも理解できません。もの言わぬ『永遠』はその答えを知っているのかもしれませんね。そしてその答えを探るためにわたくしたちは将棋を指すのではないでしょうか、以上です」

「実感がこもっとるな。しかしあんさん、その『悪手もポカもない』の下りはいらんのとちゃうかな。勘のいいやつは気づきよるで」

 穴熊は天を仰いで大量の煙を吹いた。

 川之森は頷いた「しかし、この一局、私の感想はそれなのです。なにひとつミスが無いのに敗北した」

 穴熊はまたきせるを吸って何か言おうとしたが、少し考えて煙だけ吹いた。

「…ま、それならそれでええ。マスコミも納得しよるわ」

 敗北者の責務として川之森はマスコミをあしらってくれるだろう。しかし、穴熊にとっては戦いはこれからだ。

 棋界のためにも、この必勝定跡を封殺するためにも、穴熊は『永遠』と『Big_bridge.』を倒さねばならないのだ。

 穴熊は、椅子の上に片足で組んでいた半胡座の姿勢から立ち上がった。

「武藤、ちょっと来ぃや」

「はい」

「『永遠』たら云う奴はどこに居てるんや」

「局の裏手に来てます」武藤は答えた「トレーラーに乗ってます」

「なんや『永遠』は長距離の運ちゃんやってんか」

 穴熊のボケは思った以上に受けなかったので、穴熊はとりあえず武藤の尻を思い切り蹴飛ばした。

「痛い! 」

「はよ行くで、ボケタン! 」

「師匠、どちらに? 」

 ずんずん歩きだした穴熊を弟子たちの声が追った。

 穴熊はわるい顔で笑ってみせると、

「ちょい『永遠』を拝んでくるわ。川之森が変なこといいよったら構わんからド突いて黙らせなかんで」


 12月の中旬である。

 技師の白石と中沢は、しかしうっすら汗をかいていた。

 局の変電施設に隣接して停めてある16輪の馬鹿でかいトレーラーの中には、スーパーコンピューター『永遠』が鎮座している。

 二人の技師は『永遠』の見張りをしているのだが、バルブ圧と水温ゲージ、電圧、演算処理速度をチェックする程度で、川之森との対局が終了した今、やや暇を持て余していた。

「おじゃましまんにゃわ」

 呑気な関西弁を操りながら現れた穴熊をみて、白石は気さくに声をかけた。

「あ、どうも。落語家のかたですか? 」

「ちゃいますで。わいは専門棋士、将棋指しや」

 ニコニコしながら軽く会釈する。

「棋仙の穴熊一徹だす。よろしゅうに」

「あ、どうも」中沢も会釈した。

「ここはずいぶんあったこうおまんな。ここまで来る途中は粉雪が舞いおったのにここはヒーターでも焚いとるみたいにポカポカや」

 言いながら穴熊は羽織の紐を緩めた。

「ああ、それは『永遠』の放出熱なんですよ」

「へえ! スーパーコンピューターいうのはストーブの代わりになりまんのか! 」

 見上げるとトレーラーの天井の上にゆらゆらと陽炎が立ち昇っていた。

 〈触ったら火傷しそうやな〉穴熊は呑気にそう考えた。

「熱い時にムラがあるので、暖房器具としては役に立ちませんねえ」白石は笑った「さっきなんか冷却水の温度が異常に跳ね上がってバルブ開けたり閉めたり大わらわだったんですよ」

「ほう、難儀な話だんな」

「スーパーコンピュータは『京』にしろ『永遠』にしろ、演算処理速度が限界に到達すると回路が強烈な熱を持ちますからねえ。例えば『京』なんかはバルブからの水道水をパイプではなく回路の表面をじかに通すことによってはじめて安定的な計算効率を供給することに成功したわけです」

 中沢は少し自慢げに言った。

「水なんか通して壊れへんのだっか? 」

「ははは、そこが技術ですよ! 」釣り込まれて微笑んだ白石が、メーターのひとつを見ながらパイプ椅子から立った「よろしかったら、『永遠』をご覧になりますか? 」

「ええんだっか? 」

「ええ、もう試合も終了しましたし。『永遠』が安定運転に戻ったらアジアユーラシアDNA分布解析の仕事が待ってますんで東帝大研究室に戻るだけです。門外不出だから、めったに見られませんよ」

 白石はうきうきと腰を浮かした。『永遠』を見せたいのだろう。

「ええな、ほんなら邪魔するで」

 まったく好々爺の仮面をかぶって穴熊は、白石に連れられてトレーラーのコンテナに入った。武藤もあとを追った。


 トレーラーの内部はほとんど『永遠』の筐体によって占められていた。

 コンテナが8脚並び、その両側に人がやっと入れる作業通路があった。穴熊と武藤は向かって右側の通路に通された。

「で、どれが『永遠』なんでっか? 」

 素朴といえばあまりに素朴な穴熊の問いに白石は微笑んだ。

「ここにあるコンピューターは、すべてで『永遠』なんです」

「なんやて、おい武藤、お前のコンピューターの『いんてり』たら『いんてる』たら云うコンピューターは、ありゃ将棋の盤より小さいやないけ」

 目を剥いた穴熊に、武藤は頷いた。

「僕が持ってるノーパソは512MBの演算処理ができるもので、たとえばこの『永遠』の100億分の一くらいの解析力しか持っていません」

 予想はしていたが、それは穴熊にとってほとんど理解の域を超えた数字であった。

 〈やっぱりどえらい化けもんや〉思わず穴熊はじぶんの出べそを手で撫でた。

「正確にはこれらの8機からなるスーパーコンピューターをクラスタ化して一機の『永遠』に連結させているわけです」

「クラスタ化? 」耳慣れない言葉に、武藤が繰り返した。

「クラスタ化…並行同期処理、という意味です。一台の『京』クラスのスーパーコンピューターをさらに並行動作させて数台を連結するもので、『永遠』はそれによって4ピコ秒に300の演算が可能になっているのです。4ピコ秒とは、光が4センチしか動くことができない刹那です」

 実に、実に誇らしげに中沢が解説する。

「これはコンテナに見えますが、これこそ『永遠』の本体です」

 白石が指した、4メートル四方ほどの赤い蓋のかぶった白い箱の行列。

 これが『永遠』か。

 穴熊は筐体にじかに手を触れた。

 熱い。

 中を、ちょっとした温泉水ほどの温度の液体が流れている。

 得体の知れない生物の脈拍のように鼓動が聞こえてくる。

 お前か。脳みその化けもん。

 お前が将棋を完全につぶしおったンか。

 穴熊は哀しく笑った。

「あんさん、よう見つけはったなぁ」

 穴熊をよそに、武藤は白石の案内を受けてトレーラー後部を見学していた。

「あっ、ここに水道管がありますね」

「そうです、これがスーパーコンピューターの泣きどころでして」白石は頷いた「毎分1トンの冷却水を循環させて回路を冷却します」

「水が止まったらどないなりますのや? 」穴熊が覗きこんだ。

「熱暴走、といって、処理速度がガタ落ちします。自己診断モードに入り自動的にクラスタが解除されて任意のシステムをダウンさせるためです」

「弁慶の泣き所、言うやつやな」

 武藤は、穴熊が実に狡っからい笑みを浮かべるのを、確かに見た。


 将棋というゲームは、序盤、中盤、終盤に進行していくものだ。

 終盤は「寄せ」といって、序盤の駒組み、中盤のやり取りに得た駒、それらを動員して一気呵成に攻め切る状態となる。

 すでに、穴熊と『永遠』との対局は始まっていた。


 のちに武藤は語る。

『あのとき、師匠は泣いていた』と。

 将棋指しなら、将棋の真理を追い求めていく『81桝の大海に潜行する者』たちなら、誰もが泣いたに違いない。

 ああ、この化けものは「将棋の終焉」を知ってしまったのだ。

『師匠は、でも、言ったんです』


「いてこましたる」


「ところでやな」穴熊は中沢にたずねた「もう一人おるやろ、『Big_Bridge.』たら云うのんが」

「ああ、『Big_Bridge.』。椎名さんのね」中沢は頷いた。

「せやせや、あれもコンピューターなんかいな? 」

「あれはソフトウェアなんですよ。この『永遠』はハードウェアでして、単体では将棋を計算することはできません」

「ふむ」

 穴熊の表情をみて、中沢は苦笑した。

「たとえば、穴熊さんがマージャンをやるとしますね。しかしあなたは将棋の専門棋士であり、マージャンに関しては門外漢としましょう。するとどんなにあなたが優れた将棋の実力を持っていたとしても、マージャンに強い人には勝てないわけです。つまりソフトウェアがないからです」

「ほう、わかったで! 」穴熊は膝を叩いた「『Big_Bridge.』は『永遠』の将棋のお師匠さんなんや! 」

 白石と中沢は顔を見合わせて苦笑した。

「まあ…」

「そういうこと、ですかね」

 二人はこののち、穴熊の叫びが至言であると知ることになる。


 穴熊と武藤は、テレビ局前の車まわしでタクシーを待っている椎名を捕まえた。

「やあやあ、今日はお見事でございましたな」

 扇子を掲げながら穴熊は明るく声を張り上げた。

「あ…でも…こ、こんにちは」

 椎名はうつむき加減の姿勢のまま、かすれた声で穴熊に応えた。

「あんさんは勝ったんやで、もっと堂々としぃないな」

 穴熊が明るく椎名の肩を抱くと、椎名は彼に目を合わさないようにじりっと体をかわした。

 武藤は怪訝な顔をしているが、穴熊は逆にこの男に注目した。こういったタイプの人間こそ、一点に特化したときおそるべき力を誇る。

「将棋指しの穴熊だす。ええ将棋だしたな」

 椎名はおどおどしながら更に距離を置こうとした。

「でも、僕はその…し、将棋なんてほとんどわからないんですょ…」

 彼の語尾はほとんど消え入りそうになっていた。

「せやけど君、あんな第一手、阪田せんせみたいな思い切った手を指してそれで将棋を知らんちゅうこともあらへんやろ」

 穴熊は身を寄せて椎名の肩を優しく叩いた。

「僕は…あの…『Big_Bridge.』に、将棋盤上の勢力判定にフラクタル条件を仮想して、一手ごとに局面を再構成するようプログラムしただけです…」

 〈なんちゅうこっちゃ、こいつもたいがい化けもんやないか〉

 穴熊は顫えた。自分は物心ついてからずっと、ずっと、ずっと将棋盤と向かい合って生きてきた。生きているうちで最も長い時間は、9×9の盤面を睨んでいた時間なのだ。

 そんな自分にもさっぱりわからない将棋用語で喋っている、この男は。

「あんさんはほんまに将棋を知らへんのか? 」

「駒の動きは知っています。それに、反則などを含めたルールも。でも、さっきあなたがおっしゃった阪田さん? とか、棒銀とか矢倉とか、そんなの一切わからないんです…」

 武藤は呆気にとられていた。彼も奨励会員である。彼は棋道を志してから、半ば意識的に将棋の為にならない人物を切り捨てて育ってきた。

 将棋以外のコミュニケーションを、ほぼ断ち切ってここまで生きてきたのである。

 そして、目の前にいるこのおどおどした男は、何ら戦法を知らない、戦術を知らない、すなわち自分とは一切のコミュニケーションの取れない存在に見えた。


 〈化けもんというよりは、言葉の通じないガイジン、いう感じやなあ〉


 プログラマーにとって、「将棋」を知らないこと、特に定跡の一切にとらわれないということは、プログラムを組むのに有利な条件として働く。

 先入観無く、未知のゲームとして将棋と向き合うことができるからだ。

 たとえば、ある局面と、一手だけ動いた局面は、棋士にとっては連続した将棋の局面なのだが、彼にとって…ソフトウェア『Big_Bridge.』にとってはまったく異なった、独立した局面なのである。

 この男も、ソフトウェアも、棋士ではないのだ。

 なのにこの男は、世界最強名人川之森大五郎を完膚なきまでに叩き潰し、将棋というゲームを解体したのだ。

 将棋に先手必勝の手順があるのならば、そこに戦法や戦略は存在しない。

 棒銀も矢倉もパラレル四間飛車も阪田が聴いた銀の泣く声も、心理戦も盤外戦術もすべては人間の感傷に過ぎないのだ。


 血の通っていない鋼鉄のライオンと、調教師。

『Big_Bridge.』と椎名の関係は、そのような印象であった。

 これもまた、センチメンタルな表現だが…


「そんな化けもんに、素手で立ち向かって行ったんやで、川之森は」

 椎名を乗せて走り去るタクシーの後塵を文字どおり拝した穴熊は、顔をしかめてそう言った。

「師匠、勝てますか、あんな化け物相手に」

 武藤は疲れた表情で穴熊をかえりみた。

「いっぺん賭けなしで試させてくれへんやろか」

 武藤は、師匠の弱気な笑みを、はじめて見た。


 それから一週間、年末。

 武藤は穴熊の師匠命令で、『永遠』の件が掲載された駅売りの週刊誌や将棋専門誌を買いあつめてから、宝塚にある穴熊宅へとやってきた。

 曰く──

 週刊ホスト 新年特別号「世紀の発見? 将棋に必勝法発見される! 」

 週刊パスタ 新年号「スーパーコンピューター、最強の男をやぶる! 」

 月刊将棋宇宙 新年号「ヤマトちゃんのおせち料理教室! 」


「何やねんこれは! アホかい! 」

 各週刊誌が報じた川之森大五郎と『永遠』の勝負の顛末を見て、穴熊は爆発した。

 驚いたことに将棋雑誌以外すべて巻頭カラー写真による特集を組んでいる。

 しかも肝心の将棋雑誌はといえば女流棋士のピンナップ刊中特集記事を売り物にし、『永遠』については1ページしか掲載されていない。将棋宇宙だけは月刊誌とはいえ、これはひどい。

「川之森先生、将棋宇宙の書き下ろしエッセイ落としてますね」

「どいつもこいつも! 」

 とりあえず穴熊は週刊ホストから床に叩きつけて踏みにじった。

 武藤は週刊パスタをペラペラとめくりながら、

「ああ、エンジニアさんと椎名氏のインタビューも掲載されてますね」

「もう読んだわい! 」穴熊は怒りに吠えた。

 確かに、川之森のインタビューに関しては打ち合わせ通りの記事となっていたが、対戦相手側の東帝大エンジニアチームと椎名のインタビュー記事にはしっかり「将棋は先手必勝の手順がある」という文が掲載されていた。

「師匠、これだけじゃないです。理工系月刊誌でも『注目のスパコン』で特集が組まれていますし、ネットの掲示板でも書き込みや閲覧数が跳ね上がっているんです」

「雪辱を急がんならんな。ここまで話題になったらどうしょもないわ」

「あ、なにか勝算が立ちましたか? 」

「武藤、師匠命令や、東帝大に行ってあのクソコンピューターをぶっ壊して来い! 」

「それはあんまり無茶でしょう! 完全に負けを認めたことになりますよ! 」

「せやなあ…」

 穴熊は言葉に詰まった。

 棋譜の改竄はうまくいった。これは穴熊が政界に取り入った暗躍が功を奏した。

 出版界にも顔がきくし、なにより素早く緘口令をしいたのも有効だった。

 しかしせいぜいそこまでであった。

 確かに棋譜こそ雑誌には載っていないものの、ネット上では不完全ながらも川之森と『永遠』の棋譜が引用されていた。

 専門棋士の棋譜は著作という判例が定着したおかげで、目下例の『必勝手順』は印刷物などに掲載できないが、ネット上でどこまで出回るかは穴熊にさえわからなかった。

「逆にいえばこれはチャンスなんやがなあ。これほどまでに『将棋』が注目を集めたのは、将棋が世界名人位という国際評価を受けたときと、わいが棋仙を30回防衛したとき以来なんや。今なら、わいが『永遠』共に勝てばチャラにできる。しかし来年になったらもうあかんわな」

「今日はクリスマスですよ…」

「せめて一回『永遠』と模擬戦ができれば方策が立つやも知れん。総理大臣を経由して東帝大にアクセスするか? しかしもう非公式でさえ負けは許されへん」

 穴熊がいらだたしげにふところのきせるに手を伸ばした時、武藤は手のひらを叩いた。

「師匠、そうそう、これ役に立ちませんか⁉︎ 」

 彼がカバンから取り出したものは一枚のCD-Rであった。

「なんやそれは? 演歌かいな」

「これ『Big_Bridge.』なんですよ」

「なんやと⁉︎ 」

 穴熊はきせるを取り落としてCD-Rに手を伸ばした。

「なんでや、お前なんでこんなもん持っとるんや! 」驚愕のあまりわめき散らす穴熊。

「知りませんでしたか? 今回の騒動で知名度を上げた椎名氏が、自分のホームページでソフトウェアの販売を始めたんです。懸賞金付きで」

 穴熊は頭を抱えた。この中には「先手必勝定跡」を把握した『Big_Bridge.』が入っているのだ。自分の工作がほぼ無駄になっていることに今彼は気が付いた。

「あのどクソガキが! 」

「ダウンロード料金が5千円で、勝利した場合棋譜をメールします。再現性が確認され次第、椎名氏が懸賞金百万円を振り込むという条件です」

「なんやそらアンダラァちょっとわいにやらしてみい」

 言ってから周囲を見回し「お前のコンピューター出せぇ! 」と怒鳴った。

「し、師匠、パソコン持ってないんですか⁉︎ 」

「わいはあんな電磁波の出るようなキカイあかんのや。お前はよ出せ、『いんてり』たら云う奴! 」押し倒した。


「奨励会員はみんなこれやってますよ…賞金が美味しいし」CDスロットにCD-Rを挿しながら武藤は言った。

 そしてもちろん、その真意は、『Big_Bridge.』の『必勝定跡』を研究するためでもあった。

「で、誰か勝ったんかい」

「それが誰も『嵐の青龍』までさえ行けないんですよ」

「なんや、ああ、曲詰入り第1手7八飛車やな。竜の乱舞が始まるとこや」

 CDが回って、画面に可愛い魔法少女が写し出される。

 《は〜い、びぐぶりたんでーっす☆》

「なんやこれ、えらいカワイイやないかい」

「い…痛い…」

 そしてドット数が極限までに減らされた将棋盤が画面に現れる。

「こっちに凝るべきでしょう師匠」

「だが椎名とかいう子、あんまり憎めんなあ」

 思わずもらした穴熊の言葉に、武藤はすこし驚いて師の顔を見つめた。

「なにを見とるんや。将棋はもうできるんかい」

「あ、すみません。操作方法わかります? 歩は一歩前に…」

「おどれ破門にさらしたろか」


 先手であるびぐぶりたんは既に9六歩を指している、後手番からの開始である。

「ふん」

 穴熊は第一手目を考えた。

 いわゆる『長考』である。

 〈おかしなものだ〉穴熊は頭の片隅で思った〈第一手からこんなに考えさせられるのは久しぶりだ〉

 武藤は動けなくなった。専門棋士の裂帛の気合いに気圧されているのだ。

 日本随一の専門棋士が、必殺の気合いをもって沈んだ長考である。飛ぶ蝿が落ちるといわれる剣術家のそれに匹敵するプレッシャーを受け、武藤は圧倒されていた。


 そして、

 《先手、7八飛車》

  可愛い女の子の合成音声が棋譜を読み上げる。

「わかった、投了や」

 穴熊の声に、武藤は愕然とした。

「おい武藤。今晩これ貸しときや」

「し、師匠一発で『嵐の青龍」に…! 」

「当たり前やアホンダラ、巧妙や。この形にうまいこと追い込みよる」

「その形は、しかし、川之森名人と同じ局面で…」

「そうや。せやけどわいの方が早くこの局面に追い込まれたんやで」

「川之森名人より早く⁉︎ 」

「アホ、早いから間違っとるんや。川之森がやったときより4手早い。相手はこの形にするために追い込んで来てるんであって、その形になるのをこちらが妨害するのが『延命』や。つまりわいの方が間違うとるいうこと」

 そんな理屈があるだろうか? 武藤には今ひとつわからなかった。

「証拠があんねや」口惜しそうに穴熊は言った。

「証拠? 」

「画面下のデジタル数字や。247て書いてあるやろ」と穴熊は初期配置に戻した画面を武藤に見せた。

 確かに盤の右下に247と表示されている。

「どれでもひとつ駒を動かしてみぃ。どれでもええ」

 武藤は香車をドラッグして置いた。

「9八香。センスの無い手やのう、お前それでも奨励会員か」

 このとき、数字は205となった。

 すぐに相手が指した。数字はひとつ減った。

「これってどういう意味なんです? 」

「詰みまでの手数や」

 無造作な穴熊の答えに、武藤は愕然とした。

「必勝定跡を使っているから、詰みまでの手数は最大247と決まっとるやろ。せやから最善手を指さんと数字は大きく減る。わざわざ知らせてきよるんや」

「ということは…」

「川之森は、口惜しいが全問正解で7八飛までこぎつけとんねや。それでこの体たらくや。必勝定跡に懸賞金賭けるとは、えげつない商売やで」

 穴熊はきせるを苦そうに吸い付けた。

「それにしても分からんのは、や」穴熊は扇子を額と膝で縦に挟んだ「必勝定跡があるんなら、わざわざ『永遠』につなぐ必要は無いわけや。それはなんでやろ」


 翌朝、武藤は軽い食事を持って穴熊の家に向かった。

 灯りがつきっぱなしだ。

「師匠? 」

 返事が無いので武藤は勝手に入った。

 居間、昨日の姿のまま穴熊はノートパソコンに向き合っていた。

 《先手、7八飛車》

「うむ、わかった」

 投了してから穴熊は武藤をふりかえった。

「おお、おったんか。『嵐の青龍』まで23手、わいではおそらくこれが最長やな」

「ずっと…やってたんですか?」

「せや。一回も勝たれへんけどな」穴熊が背筋を伸ばしているとき、プラスチックの焦げるような匂いがして、武藤はパソコンのファン部分を確認した。

「熱っ! 」武藤は呻いた。

「師匠、酷使しすぎですよ。冷却ファンが溶けかけてるじゃないですか! 」

「おお、そらすまん。今朝やっと連続最善手の想定指し手に近づいてきたんでな。その辺りから機械の反応が鈍くなって弱ったでぇ」

「そりゃそうですよ、ノーパソじゃただでさえ演算速度が不足するんですから…」

 言ってから、穴熊が黙って武藤を見つめていることに気がついた。

「師匠」

「それや」

 驚いたように目を見開いて穴熊は言った。

「わかった、そら『永遠』が必要やんなあ」

「どうしたんですか師匠? 」

 一人でうなずいている穴熊をみて、武藤はいざりよった。

 穴熊は我に返ったように、はっきりした口調で言った。

「武藤、桜木やら呼べるか? 」

「え、はい」

「奴も『Big_Bridge.』は持っとるんやな」

「はい! 」

 武藤は気分が明るくなっていく自分を発見した。

 穴熊が微笑んでいた。とても、「わるい顔」で。


 師匠の緊急召喚によって、穴熊一門の奨励会員ら総勢12人が勢揃いした。

 入品した専門棋士たちはこの時期忙しいものが多く来られなかったし、この中にはまだ奨励会に入っていないみならい棋士までいるのだが、むしろ穴熊にはちょうど良かった。

「おい、皆『Big_Bridge.』は持って来とるな? 」

『はーい! 』

 みんな各々のノートブックパソコンを頭上に掲げた。

「ええか、みんな。いまから、『メチャメチャやったれ』」

 一堂を疑問の沈黙が渡った。

 穴熊は苦笑して続けた。

「たのむ、これから『Big_Bridge.』に、できるだけ『無茶苦茶な手順』で挑んでみてくれ。そして自分が詰む手数と、盤の下の数字が一致しなくなったら、わいに教えてくれ。もし大正解出したやつおったらクリスマスプレゼント出すで」

「あたしもやるのー? 」みならい棋士のさなえが幼くも真摯な声を上げると、穴熊はこれ以上ないほどやさしい声を出して、

「せやで。持ち駒をな、ここおいたらあかんでっていうとこ置いたり、この駒とっても大丈夫かなっていうのを取ってみたりするんや」

「わかったー! 」

「おい、みんな、さなえの手も見てやってくれよ。詰むまでの実際の手数とカウントダウンの違いに注意してくれ」

 穴熊は期待に目を輝かせてきた。さらには、

「武藤、お前しばらくパソコンあかんやろ、他の門下でもええから奨励会員にもこの件を伝えてくれへんか? 」

「わかりましたっ! 」

 武藤も嬉しくなって声を張り上げた。

 穴熊一徹。

 ここぞという時にとんでもない悪智慧を働かせる男。


 そして、その夜。

 奨励会員たちが今までの憂さを晴らすように『Big_Bridge.』にムチャクチャな差し手で挑んでいると──

「ん、さなえちゃん? 」桜木がさなえのパソコンの局面に目をとめた「これ3手でさなえちゃん詰んじゃうよね? 」

「えっ? うーん、そうなの? 」

「待て待て待て、どれやどれやどれや? 」

 穴熊がやってきてさなえのパソコンを覗き込んだ。

 確かに、最短3手詰の局面に、デジタル数字は231を刻んでいる。

 これや…!

 穴熊の表情が輝いた。

「さ、さなえ、いま自分なにを指した? 」

「かくこうかんしてならなかったの」

 8八角不成…!

「わかった、検証する。これはひょっとするで」

 そして穴熊はさなえに、なにが欲しい?ときいた。

「しょうぎのこまー! 」

「よっしゃわかった。これやるで大切にせえ」

 穴熊は懐から取り出した古い錦の巾着袋をさなえの掌の上においた。

「なあにこれ、ふるいこまー! なんてかいてあるの? しらないこまだよ」

「酔象って読むんやで」

 ぶっ、と桜木は吹き出した。


 小将棋の駒の揃いは、本物なら文化財ものだ。


 12月30日。

 この日までに穴熊は、東帝大工学科の研究員に渡りをとった。


 彼らは、この年の最後に、珍しくも盛り上がった将棋の話題の、その渦中の人である。

 結果はどうあれ注目されれば研究費の捻出がやりやすくなるだろう、研究チームはふたつ返事で再戦の申し出を快諾した。

 また、年末なのも幸いして『永遠』は借り受けやすかった。

 穴熊はさらに、日本将棋連合に「年またぎでの雪辱戦をネットで生放送する」許可を取り付けた。まあ、自分で作った規則に自分で賛成するだけではあるのだが。

 そしてアポイントメントが取れて各関係者のスケジュールが調整されたこの日、穴熊は改めて「挑戦状」をネット上に公開した。


 宝塚駅前、喫茶サファイア。

「穴熊さん」川之森は痩せ衰えた顔で穴熊の前に現れた「あんたが負けたらこれでおしまいだ」

「川之森はん、あんたはえらい奴っちゃ」

 穴熊は熱心に眺めていた書類をヒラリと示した。

「第三手、25分思考、プラス4.5℃」

「な、何だそれは」

「おもろいで、これは奴らの『棋譜』や」

 第七手、17分間思考、プラス4℃ ※バルブ圧上昇。

 第九手、13分間思考、プラス4℃ ※バルブ圧上昇つづく。

「二十手辺りまでがすごい。合計思考時間98分、水温80℃、バルブ圧14.5hpやて。蒸気機関車やないんやから」

「『永遠』は、そんなことになっていたのか…? 」

「あんさんが、一手の間違いもなく、全て最善手を指したから『永遠』はこんなにも苦しみよったんや。『永遠』はな、必勝定跡の手数をカウントダウンしとるんや。それは一手毎に変動する。最善手ならば1減るが、初手に後手9八香なんて指したら41も減りおる」

 穴熊はきせるに火をともす。

「最善手ならマギレを思考せんならん。せやから序盤は『永遠』は確認のためか全部験算しよる」

 煙を吐く。マギレ、すなわち分岐のことだ。

「あんさんは27手まで最善手を指し続けたんや。わいはどこがあかんかわからんが余詰か早仕舞いやった」

「だからなんだと言うんだ。『Big_Bridge.』にさえ勝てないじゃないか」

 川之森は、子供じみた蒸し返しをした。

「あんさんやってみたか? 」

「もちろんだ! 」

「ははあ、パソコン壊しはったな」

「え⁉︎ 」

 川之森の驚きの表情を見て、穴熊は破顔一笑した。

「なんぎなソフトやで。『永遠』の代わりを無理やりこっちのパソコンにさせよる」

「あんたも、壊したのか」

「はっ、最善手、うてば打つほど熱うなり、や」

 川之森は思わず笑った。

  ところでやな、と穴熊は言った。

「あいつは、角交換での後手8八角不成を認識できへんことが判明した」

「はあ⁉︎ 」

「『Big_Bridge.』は『永遠』の助けが無いと手順の全分岐を探索することはできへん。せやから『指されたことが極端に少ない』手順はプログラム節約のためにカットしとるんや」

 穴熊は別の書類を取り出した。こちらはみたところちゃんとした棋譜用紙である。

「検証にはあんたの門下生も借りたで。それだけやない、奨励会員総出で再検証を行った」穴熊は強調するように声を低めた「勝ったやつも出たんや」

「初耳だ! 目下勝利者はいないはずだ! 」

「そうや、ポカなんや」穴熊はきせるを吸った「空き王手に気付かないこと、二歩をしてしまうこと、取った駒を取り違えてしまうこと。わいら専門棋士は、そんなことしたら自ら負けを認めるが、この『Big_Bridge.』はそんな事には無頓着や」

 穴熊は棋譜の束からチェックのある付箋を引き出した。

「19手目からや」

 棋譜を一瞥して川之森は息を詰まらせた。

 先手『Big_Bridge.』の4八角で後手玉が素抜かれている。

 しかし棋譜は続いているのだ。

「玉がいない局面は薄気味悪いな」

「こいつにとって敵玉を取ることは勝ちやないんや。このあと指せるだけ指してみると『Big_Bridge.』は、左金を詰める挙動に出よった。左金を追ってこれを詰めた時にやっと『あなたのまけだよ〜! びぐぶりたんつよ〜い! 』やて 」

「穴熊先生、声まで真似なくて結構です」

「遊び心良しや思うけどな。ともかくこれで分かることは、この『Big_Bridge.』は将棋を『詰めることだけが勝利条件』やと思っておるということや」

「ポカなんて『Big_Bridge.』は考慮に無いんだ! 」

「そしてこれを2ニ角と組み合わせるとこうなる」

 穴熊はファイル最後のページの棋譜を川之森に突き付けた。

 先手3一玉、後手2ニ角不成、先手7六歩、後手、

「3一角…まで…」川之森は呆然と言った。

「そしてなぜかさらに先手7七歩成を指した『Big_Bridge.』の反則負けや。手筋を作ってみて、棋譜再現の勉強のためにうちのさなえに指さしたもんや」

「えっ、これさなえちゃんが⁉︎ 曽孫さんの⁉︎ 」

 二度びっくりして棋譜を見直す川之森。

「棋譜やから誰が指しても同じなんやが、これで今のところネタの再現性は検証されたわな。そして『Big_Bridge.』はまだ指そうとしとるから負けを認めてへん。ゼロ距離王の素抜きや」

 うけけ、と、穴熊は意地悪そうに笑った。

「あんたこれを生放送で見せつけてやるつもりか⁉︎ それであの挑戦状なんだな⁉︎ 」

 川之森は興奮して叫んだ。これは確たる勝算ではないか。

「いや、こんな反則勝ちでは勝ったことにならん。わいはこいつらを詰めたらなあかんのや」

「『永遠』と『Big_Bridge.』を、詰める…⁉︎ 」

「名付けて『ステルスの角』や」穴熊は含み笑った「8八角はこちゃらの隠し玉や。パッチ当てでバグを直すことは簡単なんやろ。どこが悪手かばれへんように一撃でかっさらわんならん」

 言ったところで、穴熊の携帯電話に着信が入った。

 失礼、と穴熊は電話を取った。

「穴熊だす。はい、宝塚家族遊園地に頼んます。はい、市の許可も取っとります。では、7時ちょうどに。はい、頼んまっさ」

 ぴ、と携帯電話を切った穴熊は、時間を見直して、川之森にあらためて向かい合った。

「準備は万端や。あんさんを呼んだのは他でもない、あの棋譜をお借りしたい」

「あの棋譜…? 」

「あんさんの対『永遠』戦棋譜や。この『ステルスの角』の成否は川之森大五郎の棋譜が握っとる。わいは少なくとも二十五手まで、あんさんの棋譜通り最善手を指し続ける必要がある」

 そして穴熊は頭を下げた。

「頼む。棋界のため、専門棋士の名誉のため、あんさんの棋譜をわいに使わせとくなはれ」

 川之森はじっと穴熊の薄くなった頭頂部を見つめていたが、決意したように頷いて、

「何か書くものを」と言った。

 喫茶店からボールペンとメモ用紙を借り受けた川之森は、一心不乱にあの日の対局譜を書き付けた。忘れようものか、あの苦しい対局を。

「これでいいか」

 穴熊はメモ用紙をしばらく眺めると「なるほど、ここで2手経由できるんやな」と呟いてニヤリと笑った。

「飛車角いっぺんにもろたようなもんやわ」

 ふう、と川之森はキャスターを取り出して火を付けた。

「これで勝てるのか? 」

「シブロクやな。負けたらわいの将棋生命も、将棋界も終わりや」

 川之森は呆れて苦笑した。

「あんたは本当に真剣師だな。前にわたしに『名人位を賭けるなら棋仙戦に指名してやる』とか、へ理屈を言ったな」

「ふうむ」

「この件もそんな手を使うのか」

「そういえばそうやな」

「そんな怪しげな一勝で前の負けまで無かったことにしようってんだな」

「あんさんが棋仙取られへんのはな、あんさんがばくち打ちやないからや。わいはばくち打ちと勝負がしたいんや。椎名とかいう子は、見事なケン師(真剣師)やと思う」

 窓の外に数台の大型トレーラーが、宝塚家族遊園地に向かって走っていった。

 穴熊はそれを懐手に眺めながら、続けた。

「ケン師にはケン師の流儀で応じるまでや」


 同刻、穴熊宅では「年末奨励会員研究会」が開かれていた。

 本来ならこの場では、戦法、定跡、最新の名局珍局について侃侃諤諤やり合っているところだが、今日は皆、お通夜のように自分のパソコンのモニターの光を浴びている。

『Big_Bridge.』である。


 その中で武藤は、師匠命令でもあるさなえの教習をおこなっていた。

「たとえば金将は、右左の斜め下には進めない。酔象はま下にだけ進めない動きをするんだよ」

 武藤がいうと、さなえは瞳を輝かせた。

「これが『成る』と、『太子』という駒になる」

「『たいし』? 」

「そう」

「『しょうとくたいし』の『太子』だね! 」

「うん、よくわかるね」武藤は頷いてみせた「太子ってのは王子さまっていう意味だから、王様のあとを継ぐことができるんだ」

「えっ? 」

 武藤は盤上の酔象を裏表に返した。

 駒は『太子』に成った。

「『太子』は王将、玉将と同じで縦横斜めの八方向にひとますだけ動ける。そして『太子』が詰んでいなければ王将、玉将が取られても負けにならない」

「もういっこおうさまができるんだ! 」

「そう」

「おもしろーい! やってみよやってみよ! 」

「うん」

 武藤は盤上に駒を並べはじめた。

 平手局面に、双王の上、つまり5二と5八に酔象を配置する。

 5筋に強駒が一枚居る局面。

「ふーん」

 ──面白い。

 しょせん子ども相手のあそび将棋、そう思ってさなえと対局を開始した武藤は、たちまち盤上に潜り込んだ。

 小将棋は現在の本将棋のルールにもっとも近いルールの将棋である。

 今日、本将棋に在る駒はすべて小将棋に在る。

 さなえが穴熊から譲りうけた古将棋の駒は、本物の小将棋の駒であったが惜しむらく酔象が1枚しかなかったのだ。

 今の盤上にある酔象は、一枚は即席のプラスチックトークンである。

 それでも美品であり相当な価値があるだろう。

 小将棋には、駒が取り捨てであること以外にも、成り返り(敵陣三段目以内に居る、成りが可能な駒が敵陣から戻りながら成る行為)が出来ないことなど現行ルールとはいささか異なるものが多いが「酔象の成りで詰めよを回避」するなど、目を疑うウルトラCの手順が現れる。

 まして自玉が二枚居る光景たるや空前絶後である。

「…それでね、まえにおじいちゃんにえいがの遊園地つれていってもらったときにね、お水がぴょんぴょんとびはねるショーをみたの。おじいちゃん、あしたそれをみせてくれるんだって」

 はしゃぐさなえに、ほとんど上の空のまま、武藤は呟いた。

「正月か…とはいえそんな余裕あるのかねえ…」

「たからづかの遊園地で、よるにやるんだっておじいちゃんがいってたよ」さなえはあっけらかんと言った「おじいちゃんがおねがいしたんだって」

「ふーん」

 武藤は空返事してから、それが大変なことを意味しているのに気が付いた。

「あ、あの師匠、なにをするつもりだ⁉︎ 」


 宝塚家族遊園地では、穴熊が業者に依頼した『ウォーターイリュージョン」の準備が行われていた。

「ちょうど年が明けたら、ヴャーッと始めとくなはれ。それと監督のかた、わいが特注しておいたアレはできますやろか」

「ああ、高圧水のの一斉打ち上げで空にドラゴンを描くやつですね。承っております」

「はい、よろしゅうたのんまっさ」

 穴熊はニコニコと優しく笑った。

 その胸の内で。

 〈棋界史上最大の盤外戦術や〉穴熊はほくそ笑んでいた〈これで持ち駒はほぼそろたでぇ〉


 12月31日、20時。

 宝塚は穴熊宅。

 広い駐車場には『永遠』を搭載したトレーラーとネット放送の機材搬入車輌がすでに入っていた。

「あっ、どうもしばらく」

 車輌の位置を見にきていた穴熊は声をかけられて『永遠』のトレーラーを振り返った。

「ああ、白石さんやないか。今日は寒いとこお疲れさん」

「まさか先生が今日のお相手だとは思いませんでした」

「はっはっは、わいは強いで」

 いつみても上方落語家にみえるなあ、と白石は思った。

「ところで『永遠』のほうの準備はどないでっか? 準備万端のところをビシッとやったりますでな」

「準備はできていますよ。『永遠』の内部に冷却水を通し、試験運転中です」

「市の水道局のタンク車から満タン注水してもらいましたからね」と中沢も言った「あとはこちらの家庭用水の方で将棋が終わるまでは十分でしょう、純水にまで濾過できるフィルターがあるんですよ」

「そら結構。ならわいは会場の方に戻りますよって」

「あ、先生」

 背を向けた穴熊に、中沢は声をかける。

「なんでおます? 」

「そういうわけで、『永遠』の稼働中は若干上水道の出が弱くなりますので」

「ああ、おおきに。それじゃよいお年を」

「あ。よいお年を」


 穴熊はつぎに自宅の離れ、奨励会員たちの研究室となっている家屋を訪れた。

「邪魔するで」

「師匠、お時間はまだ大丈夫でしたか? 」武藤が穴熊に気付いて飛んできた。

「もうそろそろや。モニターの準備はでけとるか? 」

「バッチリです」

「ご苦労やった。武藤、このあとはわいのお茶子頼むで」

「かしこまりました」

 お茶子とは対局中に穴熊の介添をする役割のことである。

 研究室には大型ディスプレイが運び込まれ、インターネットに接続されていた。

 このディスプレイで、ネット生放送イトヨカ動画を中継し対局模様を観戦できる。

「穴熊さん、わたしもここであんたの対局を見守ることにするよ」

 川之森が憔悴しきった顔で言うと、穴熊は彼に笑みかけた。

「わいの死に水を取りに来たんやな」

「これだ」川之森は苦笑した「あんたこれで負けたら、棋界はひどいことになる。全専門棋士がおまんまの食い上げだ」

「わいの将棋生命を懸けて挑むわい。それでもあかんやったらどないでもしてくれ」

 固い決意を表情に頷くと、

「おじいちゃんがんばってー! 」

 さなえがこぶしを突き上げた。それがなにより頼もしい応援だった。

「まかしとき。三十六手できめたるさかい、ようみとりや」

 三十六手⁉︎

 その場にいた専門棋士たちまで耳を疑った。

「桜木に蕎麦の準備をさせとりますで、除夜の鐘がはじまったら皆さんで召し上がっとくなはれ。ほな、行きまっさかい」

 穴熊は離れを立ち去った。

 その背がかすかにふらついて見えた。

「先生だいじょうぶかな…」

「武藤おにいちゃん、おじいちゃんきのうからごはんたべないの」

「えっ」

 武藤は腰をかがめてさなえの顔を覗きこんだ。

「それマジ? 」

「まじー! 」


 穴熊宅応接室。八畳の客間に面しているため、ここが対局者控室となっている。

「あの、どうも、お邪魔してます…」

 ソファーでノートパソコンを開いていた椎名が猫背ぎみの会釈をする。

「あんさん、よう来てくなはった。お邪魔してよろしいか? 」

 穴熊がのそのそと部屋に入ってくると、椎名は弱々しく、対局者どうしのやり取りは、とかどうとか言ったが、穴熊はかまわず入ってきて椎名のノートパソコンを覗きこんだ。

「あっ」

「これやがな、ビグブリたん」穴熊は微笑んでモニターの『壁紙』を指さした。

「え、ええ」

「あんさんの『Big_Bridge.』、買わしてもらいました。そしたらお相手はこの娘やんなぁ」

「は、はい」

「めっちゃ可愛いやん。これ、どこの誰が描いたか教えくれへん? 」

「え」椎名はビクッと背筋を伸ばした「それ、ぼ、僕です…」

「え、ほんまかいな」

「は、はい…」

 穴熊は、今度は縮こまる椎名と、モニターの『萌え絵』を何度も交互に見なおした。

 そして何度も頷いた。

「えらい! あんさんすごいなあ。わいはてっきり可愛いねぇちゃんが描いとるものと思うたわ。ビグブリたんホンマよろしわー! 後でこの壁紙わいにもくれまへんか? 」

「あ、はい、いいですよ」

 この時はじめて、対戦者二人の視線が交錯した。

「生放送初めてか? 」

 穴熊が言うと、椎名はかすかに頷いた。

「緊張してまんのか? 」

 またも、頷く。

 穴熊も頷いてみせて、

「こんな時には、庭を見るとええんやで」

 と言った。

「にわ…? 」

「ああ、この応接間は庭に面しとりましてな。あいにく夜やが、居待ちの月や。冬の月夜の庭もなかなか風流だっせ」

 今気づいたように、椎名は縁側の外を見た。

 ちらちらと粉雪舞う、白い庭であった。雪に月明かりが映え、池の小藪の向こうに雄大に六甲山の山並みが見える。

「まるでこのまんま山まで行けそうに思えますやろ? それは、こちらから壁が見えへんように藪を高う造ってあるからや。借景というてな」

「本当だ、六甲山がすぐ裏にあるみたいだ」

 椎名は興味を持って庭を眺めた。

 松の雪が風で落ちた。

「あんさんには『永遠』と『Big_Bridge.』が付いとる。落ち着いて指すだけでええわけや」

「…はい」

「庭が気に入ったら、ぜひまた遊びに来とくなはれ」

「はい、あの、この庭すごいですね。とても広く見えるようにあちこちに錯覚を仕掛けてあるんだ」

 穴熊は、ほんの少しだけ心を開きかけた若者を置いて、部屋を出ることにした。

「ほな、これで、と言いたいとこやけどひとつ教えとくなはれ」

「はあ」

「『Big_Bridge.』って、何でそんな名前を付けはったん? 」

「え、そ、そんなことですか」椎名は小さく笑った「ゲームですよ」

「ゲーム? 」

「はい、ゲームでの、僕の好きな音楽の題名なんです」

「それがビッグブリッヂいうんや」

「はい」

 穴熊は腕を組んで考え込んだ。

「あの、それが何か…? 」

 穴熊は頷いた。

「ちょっと面白い偶然なんや。ま、後で教えたげまっさ」

 障子を開ける。

「ほな、また後で」

 障子が閉じると、椎名は庭を見た。そして、深呼吸した。

「あの人、僕に、落ち着けって言いに来てくれたんだ…」

 いっぽう、廊下を歩きながら、穴熊はふっと微笑んだ。

 〈これは、最後の手駒やな〉

 腹が、グウッと鳴った。


 12月31日20時55分。

 モニター画面に、若手棋士の解説者と、ネットアイドル・ナレーターの少女が写し出された。

「皆様、よい年の瀬をお過ごしでしょうか? こちらは日本将棋連合会長、穴熊一徹棋仙のご自宅でーす。今夜は年越しで、この穴熊棋仙と、ご存知スーパーコンピューター『永遠』との対戦をお送りいたしまーす」

「この『永遠』と、専門棋士との対戦は、みなさんご存知かも知れませんが、先日、川之森大五郎氏世界最強名人位が29手で投了、という事になりまして、今回は穴熊会長自らが『永遠』に果し状を叩きつけたものです」

「そのことで、噂では、将棋には必勝法があって、それを使えるスーパーコンピューターは負けない、なんて言われてるんですよ」

「必勝手順、それはまったく我々の夢ですね。わたくしも生きている間にその手順を見てみたくあります」

「つまり、今『永遠』が指している将棋はそうではないと? 」

「『永遠』の演算能力はすさまじいものです」

 この専門棋士は、ここでカメラを睨んだ。

「しかし、プロは負けません」


 12月31日21時0分。

 対局室──穴熊宅客間。

 将棋盤をはさんで、穴熊と椎名が向かい合った。

『よろしくお願いします』

 一礼して、椎名は9七歩を掴み9六に打った。


「今回は振り駒ではなく、『永遠』側が先手として対局開始ということになりまーす」

「これはとくに専門棋士側からの申し出として、先手必勝手順、いうものの検証のため、『永遠』の先手番で対局が行われることになりました」

「双方持ち時間は180分、これを使い切った場合は早指しの1分将棋となります。また、『永遠』にトラブルが発生し、その修復に時間を要する場合、修復にかかった時間を持ち時間から引くことになります」

「持ち時間が180分というのもかなり短いと思うのですが…」

「これは放送時間の都合ということもあり、また先日の川之森名人との対戦の際4時間で決着したことを踏まえて、穴熊棋仙、東帝大プロジェクトチーム両者から御快諾を得ております」

「なるほど、さて、注目の後手、穴熊棋仙第二手目です! 」


「うな重」


 穴熊は叫んだ。

「わいは腹ペコで死にそうや、まず、うな重を食わせぃ! 」

「え。」

「おう、ねぇちゃん、うちの武藤呼んどくなはれ。駅前の『いっこく』はんに頼んであるさかい、大至急持ってきてもろうて下さい」

「た、対局時間中の飲食は確かに認められておりますが…」

「わいは食いながら考えるほうなんや。うな重の特上、大盛りやで」

 そこに武藤がひょこっと顔を出して、

「はい、ただいま! 」

 とおもてに駆け出していった。


「20分」

 立会人のヤマトちゃんが言った時、武藤がおか持ちを持って滑り込んできた。

「おう、はよ食わせ食わせ」

 おか持ちを開けるのももどかしく、穴熊はうな重を引っ張り出して蓋を開けた。

 この季節に脂ののった大きな鰻が、見事に照りを返して湯気を立てている。

 その下の銀しゃりは無論つやつやと粒の立ったコシヒカリだ。

 椎名ののどが、ごくっと鳴った。

 穴熊は餓鬼のように割り箸を引きちぎった。

 箸を重箱に突き立てるようにしてタレの染みた飯をかっ込む。

 武藤はかいがいしく肝吸いやお香子のラップを剥がし膳の上に並べていく。

「25分」

 重箱が空になっていた。

「あー、うまかったり、牛負けたりや」

 地口を言いながら穴熊はやっと第一手を指した。


『わたしの手順そのままじゃないか』川之森はこぶしを握りしめた。

『ではなんの長考だったんだ? 穴熊はいったい何を考えている? 』


『永遠』と上り下り各1Gdpsのケーブルで連結された椎名のパソコンの『Big_Bridge.』は、5分の思考時間ののち、第三手を指した。

 穴熊はそれをみて、叫んだ。

「上海飯店の餃子ライス! 」

 またも脱兎の如く武藤が駆け出してゆく。


「15分」

 ヤマトちゃんが読んだとき、転がるように武藤が対局室に駆け込んできた。

「おお、今度は速かったのう」

 穴熊は自らおか持ちを開けて、どんぶり飯と餃子の皿を取り出した。

 武藤は卵スープと唐揚げとザーサイのラップを取り、手塩皿に醤油とラー油と酢を手ばやく添える。

「熱つ、熱つ、熱つ、出来立てや」

 椎名ののどが鳴った。

 こんがりキツネ色に焼けた大振りの餃子と、大盛りのどんぶり飯が瞬く間に消えてゆく。

「20分」

 穴熊は第四手を指した。


 そして、『永遠』は25分思考した。川之森のときと同じように。

 その間に穴熊は、ビストロ『カリーナ・カリーノ』から明太子スパゲティの大盛りを取り寄せた。

「おう、アルデンテや、アルデンテ」


 第十手。『ととや』のロースかつ丼。

 第十二手。コンビニおにぎり(ツナマヨ)とカップヌードル。

 第十八手目には、喫茶サファイアからメルトショコラ・ブラウニーと砂糖抜きのモカを頼んで口を変えた。

 第二十二手目、自宅の冷蔵庫から運ばせた冷たいお煮しめと温かいご飯。さらにそれを湯漬けにして高菜を浮かせてサラサラとかきこんだ。


「あの、先生、視聴者から『めしテロはやめてください』と苦情のメールが来ていますが」

「ああ。次は『富士』から天ざると炙りイワシを頼むわ。見とるみんなもそろそろ年越しそば呼ばれなはれ」


『蕎麦と鰯、か』川之森の表情が引き締まった『かたきをそばでいわす、つまり敵討の縁起担ぎメニューだ』

 キャスターに火をつけ、身を乗り出してモニターを注視する。

「穴熊さん、そろそろ始めるのか! 」


 12月31日23時40分。

 第二十六手。川之森が5七角、と打たされた局面だ。


『ここまではわたしの手順のままだが、どうするつもりだ、あと一手だぞ』

 川之森はやきもきして、こぶしで膝を蹂った。


 穴熊は席を立った。

「ちょっと花摘みにいってきまっさ」

 ナレーターの女の子が吹き出した。

 さすがに出っ張った腹を抱えて、穴熊は縁側を回ってトイレに行った。

 用を足して手洗い鉢の蛇口を開けると、全開にしても生ぬるい水がちょろちょろと流れるだけだった。

「よしゃ」

 その帰りに駐車場に行って『永遠』の方をみると、白石と中沢がトレーラー周りでてんてこ舞いしているのが見えた。

「よしゃ」

 頷いて、穴熊は対局室に戻った。

 そして、指した。

 ──8八角。


 とたんに『詰み』へのカウントダウンが激減した。

 117。

『117だと⁉︎ 一気に100手以上短縮されてるじゃないか! 」

 川之森は無意識のうちに、歯を食いしばって膝をたたいていた。

「川之森先生、あの、年越し蕎麦を」

「いらん! 」


 カウントダウンが一気に半分になったのを見て、椎名は憐憫の眼を穴熊に向けた。

 ところが穴熊は、ゆったりとした笑みを浮かべている。

 これが負けていく男の表情だろうか。

 はったりか?

 ともあれこれで、『Big_Bridge.』の必勝手順による『余詰』に入った。もう7八飛車を打つことはない。

『永遠』は15分考えて、4五歩、と指した。

 穴熊は応じてすぐに次の手を指した。またカウントが40も減った。

「ほう、わいの玉はあと7、80手で詰むんかい」

「残念ですが、そのようです」

 椎名が『永遠』の回答を指す。

『永遠』の思考時間はほとんどゼロ、つまりマギレが消滅したのだろう、恐ろしく速くなった。

「これでどやろか」

 穴熊が指した。カウントがまたどっと減少した。

 もはや局面は川之森棋譜とは乖離し、専門棋士たちもこの変化について研究を重ねていないため、なにが起こるか分からなかった。

 そのあと、たった四手の応酬でカウントは21にまで減少した。


 そして、11時58分。

 対局室に白石が慌てた様子で駆け込んできた。

「椎名さん、いったん『永遠』を停止させなければならない」

「えっ、どうしたんですか? 」

「圧と水温が危険域まで上昇した。それなのにここでは充分な水量が摂れないんだ! 」

「あと21手だ、どうにかならないの? 」

 その会話を聞きながら、穴熊は、ムリやな、と思った。


 外から、賑やかな音楽とともに放送が聞こえてきた。

『こちらは、宝塚家族遊園地です。明けましておめでとうございます。只今より新春ウォーターイリュージョンショーを、当園敷地内において開催いたします。ご家族そろって、この美しい水の祭典をごらんください』

 白石と中沢の顔が蒼白になった。


『ウォーターイリュージョンは高圧をかけた水を打ち出して、水を操るショーや。オープニングの際は、当然、周辺地域の水道の水圧も一気に下がるわけや』

 穴熊は含み笑った。

「どうした? タイムかいな? 」

「いえ、すぐに。白石さん、次の手は思考できますか? 」

「OKです」

「わかりました」言って椎名は第三十五手目を指した。

「さよか、なら、とどめや」

 穴熊はノータイムで、8八角不成、と敵角を取る。


「出た、『ステルスの角』! 」と武藤は叫んだ「しかし相手は『永遠』だ。この戦法が通じるのか⁉︎ 」

  川之森は煙草をふかした。

『たぶん通用する。さすがの『永遠』も8八角不成のような手の変化を読むには数分かかるだろう。『永遠』にとっての数分は、ひとりの専門棋士が生涯をかけて考える時間。それは…』


「『永遠』の熱暴走の危険水準が、レベル5に達しました。回路を防御するため一時全システムをシャットダウンします」

 と、『永遠』の合成音声が言った。


「荷物を限界に背負ったラクダの背中に、藁しべ一本乗せるようなもんや」

「…! 」

 椎名のノートパソコンのディスプレイに、『永遠』の概念図が表示されているが、システムダウンした各所が赤く染まっていく。


 〈第1、メインコンピューターが、停止しました。情報の、保存には、成功しました。

  第2、メインコンピューターが、停止しました。情報の、保存には、成功しました。

  第5、メインコンピューターが、停止しました。

  『永遠』の、クラスタ化が、解除されました。

  第4、メインコンピューター、自動停止。復旧まで、1時間ほど、機体を、冷却してください。

  第3、メインコンピューター、沈黙〉


 そのログを最後に、椎名のノートパソコンから『永遠』が切断された。

 椎名は愕然とした。

『永遠』が、こんなことで動作停止に追い込まれるとは!


「どうした、指さへんのかいな」

「指すよっ! まだ僕のプログラムが負けたわけじゃない! 」

「そうや。出しなはれ。あんさんの『Big_Bridge.』を 」

 穴熊は硬い表情で椎名の眉間のあたりを睨みつけた。


 椎名はノートパソコンに自己診断プログラムを走らせ、ハードも『Big_Bridge.』も異常無しと確認してから、現在の局面を再計算した。

『Big_Bridge.』は、「5五飛車」と回答した。

 その飛車は穴熊の後手玉にあたる。王手だ。

「穴熊さん」椎名は静かな激情を湛えた口調で言った「僕の勝ちだ」

 ぱちん、と音を立てて椎名は5五に飛車を打ちつけた。

 静寂が走った。


「あれ…? 」武藤は首をひねった。

「これは…」川之森が希望に満ちた笑みを浮かべる。

 司会進行を務める若手奨励会員が、震えるように笑った。

「ええっ? なんでなんでなんで? 」


「このおろか者が! 」

 穴熊は叫んで、その飛車を同角と成り返って取った。

「同角成で、王手やろ! 椎名はん、その5五飛車は大悪手や。以下2七王、4五角打つ、同金、同馬、2八王、5八飛車打つ、1九王、2八金打まで、易しい9手詰や! 」

「嘘だッ! そんなことッ! 」

「この局面、そちゃらが川之森先生連れて来てもムリやで」

「くっ! 」

 椎名はノートパソコンの譜面に、5五角成を打ち込んだ。

 たちまちカウントが減少する。

 そして、その数字は「0」を刻んだ。

「なんだ、これは…? 」

「ははあ、詰みが消えたんやろ」

「違うっ、たぶんバグだ! 」椎名は画面を再読み込みした「見ろ! カウントが8になったぞ! あと8手であんたは詰むんだ! 」

「ほう、よしゃ、やってみよか」

「2七王! 」

「4五角打つ」

「同金」

「同馬」

「2八王」

「5八飛車打つ」

「1九王」

「2八金打」

 カウント・ゼロ。

「あれ? 」

「はっはっは、雪隠詰めの金閣寺じゃ」

 またひどい地口を言って穴熊はがくっと上半身を傾けた。

「あの、これって、詰んでます、よね? 」

「まあわいもぎょうさん詰みの形知っとりますけどな」うんうん、と頷く「こんだけ判り易う詰んでます、ちゅう形はそんな無いな。」

「じゃあ、あの…参りました」

「へい、おそまつさんで」

 そして、穴熊は大の字に寝込んだ「も、もう、堪忍しとくなはれ〜」

 除夜の鐘が、殷殷と鳴り響いた。


 そのとき、白石が血相を変えて飛び込んできた。

「すみません、対局は中止して下さい」

「どないしたんやぁ〜? 」

「『永遠』が緊急事態モードに入ったので、非常排水弁を抜いたら、蒸気が吹き上がって、それを見た近所の方が消防車呼んじゃったんですよ」

「やり過ぎた。武藤、逃げるで」


 新年、未明。宝塚家族遊園地は除夜の鐘がてらに遊びに来たであろう家族連れで大賑わいであった。レーザーショーと照明で、あたりは真昼のようだった。

 穴熊たちは、ショーの最後に間に合った。

 足元の特殊ホースから、飛沫もあげず、水のかたまりが飛び出して、ウサギが跳ねるように虚空を舞って地面に弾けた。

「ね、みてみて、きれいでしょ! 」さなえがはしゃいで言うので、武藤は頷いた。

『あっけないものだったな』武藤はひとりごちた『でも専門棋士はさすがにすごい。たった一点の突破口があれば一瞬のスキを突いて陥れることができるのか』

「武藤くん、わたしの蕎麦を食べたな? 」

 川之森の痩せた体が姿をあらわした。

「川之森先生、あれは先生が要らないって」

「言ったかそんなこと」

「おっしゃいました」

「穴熊のやつ、これ見よがしに喰いやがって」川之森はチッと舌打ちした。

「師匠、本当に美味しそうに食べますよね」

「噺家なみにうまそうなんだ、これが、」

 ふたりして笑った。

「でもこれで奴がわたしの棋譜を使いたいと言った意味がわかったぞ」川之森は笑いながら続けた「考えるフリをして飯を喰うためだ」

「やめて下さい、はいなんて言ったら僕は破門です」

 川之森も緊張が緩んだのか、いくぶん打ち解けていた。

「わたしが思うに、あれは無理筋だ。相手の最善手を誘発しハメる、あんな手順は綱渡りだ」

「ごり押し推奨派ですからね」

 穴熊は、おのれの着想を、力押しで通す手筋を好む。しばしば、手筋に惚れて敗れる。

 彼はそれを『己の美学』だと称していた。

「だが、8八の角は、絶妙手なんでしょう。おそらくあの一手のために師匠は全てを組み立てていたんだ」

「あの5五飛車打ちの大悪手とセットなのだがな。なんだあの飛車打ちは」

「最善手やからや」

 影のように悄然と立っていた穴熊が、ポツリとこたえた。

「師匠? 」

 唐突な答えに武藤はふりかえった。

「あんな最善手があるものか。角交換を無視して飛車のただ捨てを行ない、角成まで許す。あれではまるで…」川之森は少し考えて言った「ばか詰だ」

 ばか詰とは、詰将棋問題の一種で、双方協力して最短手順で王を詰めるものである。

「そうやな、最悪手順による寄せや。わいの着想は、まあばか詰に近いもんやった」

 穴熊は、静かに語った。

「8八角不成は『Big_Bridge.』にしか通用せん。せやから『永遠』にはすっこんどいて貰わなあかんかったわけや。そこであんさんの棋譜が必要やったんや」

「わたしの棋譜が? 」

「あれは必勝定跡の棋譜なんや。お互いの最善手の応酬なら同じ手順を再現することになるやろ。せやからわいは己が持ち時間を、時間調整に使えた」

「考慮しているフリをして飯を喰う」

「さよう」

 頷かれてかえって川之森はのけぞった。

「わいは持駒が揃わんと何もノドを通らんのや。わいの第一手うな重はまさに千金の一手やで」

「あんたあの時、本当になにも考えず飯を喰っていたのか! 」

「失礼な。旨いなぁ思て喰うてたわい。食材に感謝と畏敬の意を持つことによって料理は何倍にも旨く感じるものや」

「そういう意味じゃない。つまりあの時間は『読んで』いたわけではないのだな」

「つまり定跡形を作りよったわけや。定跡形いうたらあんさんの棋譜や。それを指していくあいだわいは『永遠』をいたぶる時間調整ができる」

「『永遠』をいたぶる…? 」

「せや」穴熊は頷いた「あんさんの棋譜と『永遠』の『水温の棋譜』から、最も効率的に『永遠』の水温が上昇するタイミングを見計らっとったんや」

「相手が暴れてきたらどうするつもりだったんだ! 」

 暴れる…つまり読みを外す手を指してくることだ。

「それが100%無いのが、定跡ちゅうやつや。ところがその『定跡』を編み出したコンピューターはそれでも一手一手思考せんとならん。自分に負荷をかけながら」

 穴熊はきせるを出した。

「わいは二十四手までゆうゆうと時間を計れたわけや」

「水温の上昇効率ですね」

「そうや、そのピークが0時であればベストやった」

「どうして…? あっ⁉︎ 」

「やっぱりこれ師匠が! 」

『新年ウォーターイリュージョンショー』!

 穴熊はぬうっと顔を突き出した。

「わいは知らんで」

 二人とも青ざめてふたつ返事で頷いた。

「町全部停電にしたろか思たがな、それやと中継できへんねん」

 ガハハと笑う。

「あんたねえ、これは妨害工作だ、査問委員会ものだよ」

「おもろい筋思いついてもうたんやもん」口をとがらす。

「わたしが言いたいのは、これは将棋じゃない! 」

「盤外戦術も将棋のうち、や。ゲン担ぎに水芸イベント禁止とは、ルールブックのどこにも書いてへん。対局時間には行動は自由だから食事をしてもええ。向こうさんが勝手に考え過ぎただけや」

「勝つことが全てであるとわたしは思わない! ましてハメ手や妨害工作を使ってまでなんて、もってのほかだ! 」

「その棋風が、いずれ必勝定跡に辿り着くもんやろうなぁ。ところが残念なことに将棋云うもんは人間が指すものや。たとえば太閤将棋ちゅうもんがあるやろ」

「ああ。とんでもないインチキだ」

 太閤将棋とは、豊臣秀吉が考案した先手必勝の駒落ち定跡である。

 先手、豊臣秀吉が飛車先8三の歩を引いた局面からの開始である。これはひどい。角頭にじかに飛車があたっている。しかも駒落ち先手は豊臣秀吉であり、第一手は8七飛車成る、である。

「太閤ともあろう者が駒を引かせて勝つのはせんない、と思たんやろなぁ。で、駒を引いたから先手や。8七飛車成。太閤はんらしい、人を食った筋やわい。あんさん、こんな手を指されたらどないする? 」

「認められるか、そのようなもの! 」

「せやけどここに、いっさいのルールは正当やで。歩三兵さえ二歩ありやのに」

 川之森はことばに詰まった。

 駒落ち定跡の最極端、歩三兵は二歩を認めたうえで持ち駒に歩三枚を持つ、盤上には自玉一枚、という変則的なルールを用いる。

 一見勝負にならないようにみえるが、先手二歩ありを活かして2筋を破るトリックがある。

「わいやったら、その奇想に敬意を表して、相手の思惑どおりさしたる。勝負ごとは、相手が仕掛けてくるから面白いんや。それに、着目点がええやろ。太閤はんならこれぐらい仕掛けてきた方がおもろい」

 穴熊はじつに愉しそうにいった。

 誰よりも近くから師匠を見てきた武藤は、その言葉の核心にふれることができた。

 それが、「棋風」というものなのだ。

 そしておそらく、豊臣秀吉に、己が棋風の同根を感じ、つまり『ウマが合い』、その将棋を認めたのだろう。

「わいはそういうおもろい奴と将棋がやり取りしたいんや。このあいだの棋仙戦かてそやろ」

「え…? 」

 そのとき穴熊は、生放送である棋仙戦に、ひねくれ者と敬遠されている若手専門棋士の五堂四段を指名した。

 五堂プロは、いつもの格好で対局室に現れた。すなわち、鋲のあちこちに突き出たバイクコート、色とりどりのモヒカン、隈取り、あまつさえマイクを手にしていた。

「ようおっさん、いいshxtしようぜ」

「おう、たのんまっさ」

 このとき、穴熊ははからずも生放送で関西弁を出してしまったのだ。

「あんなおもろい奴いてへんで。わい相手に棒銀やて。とにかく拠点と決めたら遮二無二喰らい付いてきよる。こっちも定跡はずして受けてたってしもうた」

「あれは違った意味で名勝負だったな。五堂プロの苦しみ方なんか語りぐさだ」

「デスボイスいうんやて。苦しみ死んでいく人間の声をカヴァーしたもんやとか言うとったが、指しとって、ビリリッときたわい」

「棋界に残る恥だ」川之森は文字通り吐き捨てた「なんで相手を選ばなかった! 」

「ああいう奴やから、選んだんや」


『皆さま、本日のショーは最終プログラムを迎えます。グランドフィナーレ、クリスタル・ドラゴン。ほんの一瞬だけ浮かび上がる、水晶の竜をお楽しみください』…


「始まるがな」

 穴熊はさなえを見つけるとうれしそうにその手を取って、アリーナ席へと向かった。


 水圧を貯めるためか、グランドフィナーレを控えた広場は静まりかえった。

 レーザーの色とりどりの光が虚空を裂いていやが上にもフィナーレを盛り上げている。

 これまで交互に、輪舞を刻むように水を打ち出していた射出器が沈黙した。

 それから、マシントラブルを思わせるほどのたっぷりの間があって。…

 紫色のビームとスモークを背景に、一瞬だけ、透明な竜が虚空に描かれた。

 それは文字通り瞬く間のことであった。

 竜は人々の目にあざやかな残像を残して、水として弾け散った。


 残像は消え去りショーは終わりを告げた。

「本将棋のルールの終焉に、美しい竜の舞を見せてもろうた。わしはそれに対して見苦しい雪隠詰めの血祭りでしか答えられんかった」

 穴熊は惜しみなく拍手を送りながら寂しく一人笑った。

「そういう見立てであのような寄せを組み立てたのか…? 」

「おもろい筋やと思うてな。『Big_Bridge.』が8八角不成を──それが王手であっても──認識できないということは実証済みや。椎名も現金百万円を賭けている以上、そのミスを発見していれば早急に処置するやろ。今のところアップデートの形跡はない」

「つまりステルスの角は活きていたわけだ」

「簡単なのはあんさんの言う通り『生放送で反則負けを公開する』ことやったが、それでは傍目にはコンピューターの不具合にしか見られん。せっかく穴を見つけたんや、誰の目にも明らかな勝ちにしたいわけや」

 穴熊は、今、感想戦を交わす相手を必要としていた。それは懺悔と告解にも似て、この重い勝利に対して思いのたけを述べられる、将棋を理解できる人物を求めていた。

「将棋を知らない人間にすら、一目瞭然に仕留め切る必要があった。なぜなら、この件は『永遠』、『Big_Bridge.』、『将棋攻略法』の三本立てで世間の耳目を集め過ぎとる。うちの近所の魚屋のにいちゃんかて知っとったがな。この子らにも分かるように詰めたったら、初めて将棋観る人も興味引いてくれるやわからん」

 穴熊は将棋ファンに対してとてもマメな人物でもあった(狡いことを考えていないときに関西弁なのはサイン会のときくらいだ)。常日頃から『なにか将棋に注目があつまる派手なことでも起こらないか』と思っていた穴熊にとっては、棋界を救う好機とも思えた。

 そして反則勝ちというウヤムヤにしたくない、という不敵な思いが、穴熊の闘志を燃え上がらせた。

「8八角不成を何処で使うか、そう考えたとき、邪魔なのは『永遠』や。『永遠』を絶対確実に黙らせるには、12時直前に長考を強いる必要がある。8八角不成は、8八角成りに劣るがその変化を読み切るには…」

 そう、まさに『ラクダに一本の藁』

「そこで、構想したのが、二十四手目から、『8八』を詰める手順や」

「『8八』を詰める…? 」

「せや。焦点をあてる、とでもいうかな。『永遠』は最善手のみ指すようにプログラムされとるやろ? せやから相手の対応はすべてこちらも把握できるわけや」

 しぜん穴熊の指す手は、敵玉を攻めるという合理性を欠いた、異様な戦型を作り上げてゆく。

「兎にも角にも、自分のカウントダウンなど考えず、12時ちょい前に8八角不成、と角交換に持ち込む」

「8八角不成で『永遠』にとどめを刺し、出てくる『Big_Bridge.』は8八角不成が見えていない! 」

「8八は空白地帯、と『Big_Bridge.』は認識したはずや。その場合、5五飛打ちが圧倒的好手となる。いや、最善手やな。そこに角が無ければ」

「あの8八角に、そこまでの意味を持たせたのか…それならば『Big_Bridge.』は逃れようが無いな。まんまと5五飛車打つ、だ」

「そこやがな、あんな大ポカを指す奴はおるやろか? 5五飛車は同角成でタダ。しかも王手の『お手伝い』や。そこからのわずか九手詰を読めん奴は奨励会員には居るまい? 」

「当然だ、わたしの門下生でこんな手を気付かず指したら即刻破門まである」

「うちとこもそうや。せやから椎名氏自身がそこに気付いたらおジャンやがな。そこで最後の持ち駒を取りにいった」

「最後の持ち駒…? 」

「川之森はん、あんさん『Big_Bridge.』ってどない意味やと思った? 」

 穴熊の唐突な問いに川之森は意表を突かれた。

「『Big_Bridge.』で将棋関連なら、大橋宗桂、ということか? 」

 咄嗟に答えると、穴熊はにやりとして頷いてみせた。

「わいもそう思っとった。しかし、阪田三吉を知らなんだ椎名氏が大橋宗桂を知って将棋マシンの名前に付けるやろか? そう思って直接本人に尋ねたんや。そしたら、あれはゲームの音楽やと」

「ff5だ…」武藤が思わず言った。

 とりあわず穴熊はきせるに火をともした。

「それで確信が持てたんや。この子は本当に将棋のいろはも知らん、5五角成が読めても以下詰みにつながるとは思いもよらんやろう、とな」

 煙を吐き出した。

「まあ、人間なんでも機械に頼り過ぎるのは良うない、ちゅうこっちゃな」

「──それで、僕は負けたんですね」

 ショーの終わった薄闇の中からまたひとり影が現れた。

「椎名はん…」

「ここに来れば会えるって若奥さんにお聞きしました。これを…」

 椎名はケースに入ったCD-Rを穴熊に差し出した。

「何やろうかな? 」

「試合前に約束した、その…、『Big_Bridge.』の壁紙が入ってます。ボイスリーダーと一緒に」

「おお! あれか! ボイスリーダーちゅうのはなんや? 」

「『Big_Bridge.』が音声で譜面を読み上げてくれたり、朝起こしてくれたり、着信を知らせてくれます」

「なんやと⁉︎ あんさんそれごっつ良えやないかい! こんなええもんわいにくれるんかいな」

 武藤は心底嬉しそうな師匠の姿を発見して、驚愕した。

「僕が使っている物のコピーなんです。ムフフな画像も入ってますよ」

「ほうか、ムフフかいな。それはムフフや」

 穴熊と椎名は、しばらく、ムフフ、ムフフと笑いあった。

「師匠…」

 武藤に声を掛けられて、穴熊は慌てて咳払いをした。

「と、とりあえず、これ、ほな、貰うとくわ。おおきに、な。ところで、わいもあんさんに相談があるんや」

「えっ…? 」

「あの将棋や。わいが8八角不成とした時点で同銀と取ればわいはお手上げやった。あんさんが将棋を少しでもかじっていれば、わいは完敗やったんや」

「そうだったんですね。全く気付きませんでした」椎名は頷く。

「そこでや、あんさんうちにちょくちょく来て、将棋をやってみいひんか? 」

「え? 」

「わいの弟子にならへんか、ちゅうことや」

「え? 」椎名は当惑した。

「ええっ⁉︎ 」武藤も驚愕した。

「わいの門下生として奨励会に入るにはいささかトウが経ち過ぎとるが、な。将棋にかかわるのに年は関係あらへん。むしろあんさんの様な人間が、将棋界には必要なんや。わいに将棋を教えさせてくれんか」

「椎名さん、やめとくが良いよ」ここぞと武藤は言った「シゴキがすごいんだから」

「武藤だまっとれ」穴熊は武藤の尻を蹴り上げた。

「あの、僕でよければ、ぜひ…! 」

「あーあ、持ち駒にしちゃったよ」

 川之森がにやりとした。

「ところで、穴熊さん、早く戻らないと」

「なんや急ぎか? 」

「番組がまだ続いてるんですよ。さっき『永遠』がボヤになったでしょう、それが生放送されたせいで視聴者数が爆発的に増えて、海外の視聴者も面白がって中継放送したんです。日本のプロフェッショナルがスーパーコンピューターに煙を吐かせて勝ったって、将棋ってすごいな、って! 」



「奇しくも『Big_Bridge.』は、大橋宗桂殿の再来だったのかもしれんな」

「大橋宗桂一世名人ですね 」

「うむ」穴熊はきせるをふかした「将棋のルールが制定されたのは、それが先手後手の不利有利の差が極めて少ないと判断されたからじゃ。それまでにはやはり将棋のルールについて考察と研究が重ねられてきた。取り捨て制から持ち駒制に変えたのは最大の改革だった。あれで将棋は世界一面白いチェスになった」

「まさに画期的でしたね」

「コロンブスの卵じゃな。取った駒を使える、というルールだけでも合い駒の概念が生まれ、掛け算の要素が生まれ、選択肢の幅が恐ろしく広くなる。ルールとしてのバランスも取れている」

「千日手や二歩、打ち歩詰めなどの判定などもそうですよね。先手の有利さをきわめて厳密に縮小している」

「中将棋から駒を廃して、駒組みのバランスを取ったりもした。絶妙のバランス感覚であったが、それでも欠陥が証明されたわけだ。もともと小将棋も、必勝定跡が生まれたため、さるやんごとなき方が酔象を廃したとされている。現存する小将棋の駒にほとんど酔象が見つからないのは、ルールを定着させるために一切の酔象の駒を棄て去ったのかも知れない」

 穴熊はきせるを叩いて灰を落とした。

「先手必勝などとルールに問題が生まれたゲームには改良が必要なのだ。棋道に終わりなし、将棋にはまだ改良の余地があるということじゃ」

「そういえば、かつて永世名人が『将棋に必勝法が発見されたら、各一局に一回、香車をひとますだけ後退させる利きをつけるとよい』と仰ったそうですね」

「ルーリングの改定が必要だ、という意味だったのだろうな。必勝法が生まれてしまうのはゲームの欠陥と言っていい」

「ノイマンの法則」武藤はぷっと吹いた。

 穴熊はぎろっと武藤をにらんだ。

「ゼロサム二人ゲームの法則か。将棋やチェスのような『他方の損失が一方の利益につながるゲーム』にはかならず最適戦略が存在する。しかしそれはゲームの公平さを保つ努力や、その娯楽性とは無関係のものだ。ルーリングの改定は、ゲームの進歩には欠かせないものなのだ」

「つまり今回の場合も、なんらかのルール変更が必要となるわけですね」

「むろんだ。先手必勝などルールの最大の欠陥だ」

 穴熊はきせるを吸った。

「武藤、実はな。わいは酔象の復古を将棋連合に提唱するつもりなんや。5二と5八に酔象を配する、これが成ると太子になる。盤上に各々の王がふたつあるチェスなんて他にないで」

 武藤は、穴熊がまたぞろ関西弁になっていることに愕然とした。

「あ、あの、本気ですか」

「王がほろびても太子がそれを継ぐ。まことにゲンがええやろが。わいはこれに『和将棋』とつけて正式なルールとしようと思う。『本将棋』の『太子』や。それにな、敵の陣地で王子が生まれる、それが国を受け継いで守る。ロマンやないかぁ」

 武藤は溜息をついた。

「師匠、棋仙位も誰かに受け継いだらどうですか? 」

「おどれホンマ破門にさらすで」


 永遠の死角 了


 ※この物語はフィクションであり、実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません










評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ