9話
明里の家のキッチンは、三人入ると少し手狭に感じた。
それでも、わちゃわちゃと笑い声が絶えないのは、きっとこの家の空気のせいだろう。
「要人、玉ねぎもうちょっと細かく!」
「え、これ以上!? 僕、もう涙の限界なんだけど……」
僕が半泣きで包丁を動かしていると、横から海がくすくす笑う。
「にーちゃん、へたっぴ」
「うるさいなあ。君もやってみる?」
そう言うと、海は「やだ」と即答して、明里の後ろに隠れた。ひどい。
明里はそんな僕たちを見て、少しだけ肩を揺らして笑う。
「はいはい、じゃあ次はこねる係。要人、ボウル持って」
「了解、シェフ」
ひき肉に塩胡椒、炒めた玉ねぎ、卵、パン粉。手の中で混ざっていく感触が、なんだか妙に懐かしい。三人で交代しながら、ぺたぺたと空気を抜いて形を整える。
海の作ったハンバーグは、どう見ても丸じゃなかった。
「……これ、何の形?」
「くも」
「くも?」
明里が吹き出す。
「いいじゃん、焼けば一緒」
結局、フライパンの上では全部それなりの“ハンバーグ”になった。
ジュウ、と肉の焼ける音。広がる香ばしい匂い。
その瞬間、海のお腹が盛大に鳴った。
僕と明里は、同時に笑った。
「いただきます」
三人で手を合わせる。
自分たちで作ったハンバーグは、正直、びっくりするくらい美味しかった。
「……うま」
思わず本音が漏れる。
明里が少しだけ得意そうに笑った。
「でしょ?」
海はもう無言で頬張っていて、口の周りにソースをつけている。
「海、ついてる」
「え?」
僕がティッシュで拭いてやると、海は少し照れくさそうに笑った。
なんでもない時間。
でも、こういうの、嫌いじゃない。
食後、海が眠くなるまでの遊び相手は、自然と僕の役目になった。
リビングに寝転がって、カードゲームをしたり、意味のない追いかけっこをしたり。
「にーちゃん、つかまえてみて!」
「はいはい、待てー」
わざと少し遅れて追いかけると、海は得意げに笑う。
けれど、三十分もすると、動きがだんだん鈍くなってきた。
目をこすり始める。
「あ、限界だね」
明里が小さく言う。
海はソファに座ったまま、こく、こく、と舟をこぎ始めた。
僕はそっと近づいて、頭を撫でる。
「今日はいっぱい遊んだな」
返事はない。
もう、すうすうと寝息を立てていた。
海を布団に運び終えたあと、僕は玄関で靴を履いた。
「今日はありがと、明里」
振り返って、まっすぐ言う。
「……僕、結構楽しかった」
明里は一瞬だけ目を丸くして、それから、いつもの少し照れた顔で笑った。
「大げさ」
「本音だよ」
ドアを開けて、外の冷たい空気を吸い込む。
「また呼んで」
「気が向いたらね」
その軽いやり取りが、妙に心地よかった。
僕は手をひらりと振って、夜の道へ出た。
——同時刻。
神代が静かに資料を開いた、その瞬間だった。
「……始めるか」
要人の身辺調査。
裏で動くには、今が一番いいタイミングのはずだった。
だが。
「——それは、あまり感心しませんね」
低い声。
神代の指が、ぴたりと止まる。
いつの間にか。
本当に、気配一つなく。
例のスーツの男が、部屋の入口に立っていた。
神代はゆっくりと顔を上げる。
「……来ると思っていたよ」
男は薄く笑った。
「光栄です」
空気が、静かに張り詰める。
調査開始のはずだった夜は、どうやら——
思っていたより、ずっと面倒な展開になりそうだった。




