10話
夜風が、わずかに冷たかった。
神代の執務室の窓は、いつの間にか半分ほど開いている。
――いや。
最初から、開いていたわけじゃない。
「……いつから、そこにいる」
神代の低い声が、静かな室内に落ちた。
返事の代わりに、窓際の影がわずかに揺れる。
次の瞬間。
そこには、黒いスーツの男が立っていた。
まるで最初からそこにいたかのような、自然すぎる立ち姿。
年齢は三十代前後。整った顔立ちに、感情の薄い目。
だが――
ただ立っているだけなのに、妙に“奥行き”のある男だった。
「……警察関係者の部屋に、ずいぶん気軽に入るものだな」
神代が机に肘をついたまま言う。
男は、わずかに首を傾けた。
「失礼。扉を叩くべきでしたか?」
声音は穏やか。
だが、どこか温度がない。
「用件を言え」
短く切り捨てる神代。
男は一歩、室内へと歩みを進めた。
「あなたが、昨夜の件を調べようとしていると聞きまして」
神代の指先が、ほんのわずかに止まる。
だが、表情は崩さない。
「……それがどうした」
「いえ。単なる助言です」
男は微笑んだ。
――薄い、作り物のような笑み。
「深追いは、お勧めしません」
沈黙が落ちた。
数秒。
神代は、ゆっくりと椅子に背を預ける。
「……忠告のつもりか?」
「ええ。善意の、です」
間髪入れず返る。
あまりにも淀みがない。
「随分と親切なことだな」
「ええ。私、無用な混乱は好みませんので」
神代の目が、細くなる。
「――あの能力者は、“ただの目撃対象”ではない」
男の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「それだけ、覚えておいていただければ」
神代は、数秒黙り込んだ。
やがて。
「……名前は」
ぽつりと問う。
男は一瞬だけ考える素振りを見せて、
「名乗るほどの者ではありません」
そう言って、窓の方へ視線を向けた。
次の瞬間。
風が吹き込む。
カーテンが揺れ――
男の姿は、消えていた。
神代の眉間に、深い皺が寄る。
「……チッ」
小さく舌打ち。
すぐにキーボードを叩き、端末を操作する。
表示されるのは、例の映像の解析データ。
さらに、独自に引き出した周辺の人物情報。
「……」
神代の目が、ゆっくりと細まる。
「……は?」
画面を見つめたまま、低く呟く。
――記録が、薄すぎる。
不自然なほどに。
目撃時間帯。
周辺カメラ。
該当エリアの人物ログ。
どれもこれも――
肝心な部分だけが、綺麗に抜け落ちている。
「……偶然、か?」
そんなはずがない。
神代は、ゆっくりと椅子に深く座り直した。
そして、小さく笑う。
「……面白い」
だがその目は、まったく笑っていなかった。
――その頃。
僕はというと。
「……はぁ」
自宅のソファに沈み込みながら、深く息を吐いた。
今日は、さすがに疲れた。
大学。
海の一件。
明里とのやり取り。
そして、あの妙に鋭い刑事。
「……ほんと、勘弁してほしい」
天井を見上げる。
静かな夜。
いつもと変わらない、自分の部屋。
――の、はずなのに。
なぜか。
ほんの少しだけ。
誰かに見られているような、妙な感覚が残っていた。
「……気のせい、だよな」
小さく呟いて、目を閉じる。
疲労が、ゆっくりと意識を引きずり込んでいった。
僕はまだ、知らない。
自分の周囲で。
静かに。
確実に。
何かが、動き始めていることを。




