第九話 エンゼル・アクシデント あるいは僕の平穏と心地よい不純物
善行というのは、本来、記録に残すべきものではない。見返りを求めた瞬間に、それは功徳ではなく取引へと成り下がるからだ。――などという僕の正論は、目の前でスタンプカードを嬉しそうに眺める『天使』の羽音にかき消された。
「そろそろ一枚目のシートがスタンプで埋まりそうですね。よく頑張っていますよアクマくん」
「そうだね。ほぼ毎日、それも天音さんの裁量で一つ以上押していたら、一枚目ぐらいすぐ溜まってしまうね。そろそろ『浄化』は終わって解放されるのかな」
「解放だなんて、人聞きが悪いですよ。これはアクマくんの心が美しくなった証、いわば精神の領収書なんですから」
「領収書。なるほど、これを持って天界に行けば、僕のこれまでの苦労をいくらか払い戻してもらえるというわけだ。……ちなみに、相神先輩はどうしたんだい。あの一画だけが、まるで空き家のような寂しさを放っているけれど」
僕は部室の北西、あの豪華なアンティークエリアに目を向ける。主のいない主権領域は、ただ埃を被るのを待っているかのように静まり返っていた。
「ルシファーさんなら、『地獄の亡者からの呼び出しがあるから今日は留守にする』って言ってました」
「……。なるほどね。今日は久しぶりに『二人だけ』の善行ができそうだ」
あまり深く追求する必要も感じられないので僕は立ち上がり、掃除用具入れから箒を取り出した。
戸々先輩の依頼をこなして以来、この部室には奇妙な「依頼」が舞い込むようになったけれど、今日くらいは原点に立ち返るのも悪くない。
「今日は中庭の落ち葉掃きにしましょうか。秋でもないのに、どうしてあそこはいつも散らかっているんでしょうね」
「それは、そこが僕たちのような『吹き溜まり』の居場所に最適だからだよ」
校舎の裏側、人通りの少ない中庭。カサカサと竹箒がコンクリートを撫でる音だけが響く。 隣では祈が、相変わらず安っぽい羽をピコピコと揺らしながら、僕の三倍くらいのスピードで落ち葉を積み上げていた。
「ねえ、アクマくん。私、最近思うんです」
「なんだい。急に改まって、天界への帰還命令でも届いたのかな」
「違いますよ。……私、最初はアクマくんを『浄化』しなきゃって思ってましたけど、今のままでもいいかなって。毒気があるからこそ、薬も効く……みたいな? アクマくんがいないと、私の『善意』も、どこに向けていいか迷子になっちゃいそうですから」
「……。それは随分と、僕を都合の良い『サンドバッグ』扱いしている言葉だね。天音さんが迷子にならないために、僕が一生毒を吐き続けなきゃいけないなんて、どんなディストピアだ」
僕は吐き捨てるように言ったけれど、箒を動かす手は止まらなかった。 この不合理で、非生産的で、僕の平穏を少しずつ削り取っていく時間は、気づけば僕の日常の「骨組み」になっていた。 不純物が混ざっているからこそ、この景色は色鮮やかに見える。
「……ま、いいさ。一枚目のシートが埋まったら、二枚目のシートを用意してくれ。ただし、次はスタンプの形をもう少しセンスの良いものに変えてもらえるかな。その『ハト』のマーク、インクが滲んで、どう見ても太ったカラスにしか見えないんだ」
「ええっ! カラスじゃありません、愛の使者です!」
笑い声と、羽音と、箒の音。 この関係が、それなりに「気に入ってしまっている」ことに気づかないふりをしながら、僕は最後の一葉を掃き寄せた。
「これでとりあえず今日の『善行』は終わりかな。天音さん、落ち葉をゴミ袋に入れて捨てに行こうか」
「ふっふっふ…それには及びません。これからスタンプが一枚溜まったご褒美を用意しました。落ち葉はこれに使います」
そういって、祈はなぜか持ってきていたカバンからアルミホイルで包まれた物体を取り出す。形状からして、サツマイモであろうと推測される。
「……天音さん。ご褒美をもらえるというのは嬉しいけれども、校内で焚火なんかして焼き芋を作ったら、鳳凰院さんが飛んできて『善行部』の活動が制限……いや、廃部になるかもしれないよ」
「うぇ!?そうなんですか?部活動でこういうことをしてみたいと思ったのですが…」
しゅんとしょぼくれる祈。おそらく楽しみにしていたのだろうが、そもそも火種もないし、もしあったとしても言った通り、鳳凰院さん率いる風紀委員がどこからともなくやってきて消火活動を行うであろう。
僕は祈をなだめつつ、集めた落ち葉をゴミ袋に入れることにした。
「天音さん、校内で焚火はダメだけど、帰りにハンバーガーを食べるぐらいだったらいいんじゃないかな?買い食いは――校則的に問題ないし、ご褒美ってことでどうだい?」
その言葉に、祈は顔を明るくする。ウキウキしながら落ち葉を入れたゴミ袋をゴミ捨て場へと運んでいく。
「えへへー、アクマくんから誘ってくれるなんて嬉しいです。」
「やれやれ……今度からこういうイベントをやるときは一言僕に相談して欲しいな」
「ダメですよ。それだとサプライズになりません。わかりきっているご褒美だと『善行』へのやる気が変わってきますから」
「……確かに一理あるね。でも法に触れたり、校則として問題があるかもってものは避けてくれると嬉しいな」
他愛のない、しかしながら心地の良い、そんな言葉を交わしながらゴミを捨て、部室へと戻る。
豪華なアンティーク机の上には行く前になかった「今日は先に帰ります」とだけ書かれたメモが置いてあったのでそのまま祈と二人で帰る準備をして校門へと向かう。
「こうして、アクマくんと一緒に帰るのは初めてですね」
「そうだね。いつもは方向が逆だから校門で別れていたからね」
「ハンバーガー、一番大きいやつを頼んでもいいですか?」
「いいよ。スタンプ一枚分の対価としては安すぎるくらいだ」
夕日に染まる通学路。隣を歩く祈の足取りは軽く、背中のプラスチックの羽が西日に反射して、本物の宝物のようにキラキラと輝いていた。
僕はその光を目に焼き付けながら、ふと思う。 この『偽物の羽』を背負った少女と、ただの『阿久真』という名前だけの僕。そして、あの一画に立てこもる『自称・地獄の王』。
その三人が揃って、初めてこの『善行部』という不条理なバランスは保たれているのだと。
ハンバーガーショップでの短い談笑。 不健康な脂と塩分の味。 「また明日」という、かつての僕が最も忌避していたはずの「約束」の言葉。
そのすべてが、完璧な平穏よりもずっと、僕の心に馴染んでいた。
一旦、ここでこの物語の締めとしようかと思います。
ここまで読んでくださった方々ありがとうございます。
次は異世界ものを書いてみようかと思います。




