第一話 エンゼル・デビュー 五月病という名の神託
夏休みデビュー、高校生デビュー、そんな陳腐でくだらないページの片隅にでも追いやってよい言葉は知っているが。
今僕の目の前でプラスチック製の羽を背負い、頭上にこれまた手作り感にあふれる天使の輪を浮かべている同じクラスの天音 祈は、痛烈なまでのGWデビューをはたしているのであった。
五月病という言葉では片付かない。連休という名の断絶が、彼女の中で何をどう発酵させ、どのような化学変化を起こしたのかは定かではないが、休み明けの教室に現れた彼女は、控えめに言って「手遅れ」の状態だった。
「見つけましたよ、阿久 真くん。いえ、現代に蘇りし、あるいは転生の間際でドジを踏んだ、うっかり者の悪魔さん」
教室の隅、僕の机の前に立つ彼女は、仰々しく指を突き付けてくる。指先には百円ショップで買ったようなキラキラとした星のシールが貼られていた。
「……天音さん。一応確認するけど、その恰好は何かの罰ゲームか、あるいは演劇部の練習かな。どちらにせよ僕には関係がないだろうからこれで帰ることにするよ。天音さんまた明日教室で。」
「いいえ、これは――天からの啓示であり、これは私の制服です。阿久真くん。あなたのドブ川に沈んだ墨汁を煮詰めたような真っ黒な名前。それがあなたの罪の証。私はあなたを更生させ、その魂を純白の漂白剤で洗い上げるために遣わされたのです」
「名前の読み方は阿久だと言ったはずだけど。それと僕の魂の汚れなんて、せいぜい1週間放置した亀の水槽のヌメリ程度だよ。」
「だとしても!汚れたあなたの魂をしっかりと救済してあげる必要があるのです!」
僕はため息をつく。 阿久 真。確かにそう書くが、僕は平々凡々な一学生であり、前世の記憶やら特別な力などはない。
しかしながらGW中に何らかの『覚醒』を遂げてしまった彼女の獲物――ターゲットになってしまったらしい。
一体どこの誰に吹き込まれたのだろうか、嘆かわしい。もしも僕がタイムトラベラーなら、GW前の彼女にああいう風になってはいけませんと注意しただろう。
「……アクマくん、ちゃんと人の話を聞いていますか?」
首をかしげるとともに手作りの背中の羽がカサリと鳴る。
「ああ、うん。もちろん聞いていたよ。来週は化学の小テストがあるみたいだからしっかり勉強しないとね。」
「うぇ!?そうなんですか…ちゃんと復習しないと――って違います!」
バンバンと僕の机をたたいて抗議する。そのたびに天使の輪はゆらゆらと揺れていつ僕の頭に落ちてくるのかひやひやする。天使的に物を大事にしないというのはどうなんだろうかと思ったが口にはしない。
「いいですか、悪魔さん。悪魔とは、善行という名の猛毒を摂取し続けることでしか、その歪んだ性根を矯正できないのです。――さあ、本日のノルマをこなしていきましょう!」
彼女はどこからともなく、これまた素朴さ満載の、画用紙で作った『善行スタンプカード』を取り出した。夏休みや冬休みのラジオ体操を彷彿とさせるデザインである。
もちろん僕はラジオ体操のスタンプを全部貯めることはなく、1日途切れてしまえばやる気をなくしてきた。
「わざわざ用意してもらったのは嬉しいけど、こうやって毎日やっていくようなものだとだんだんと義務感が出てくるよね。義務感でやってしまうとそれは善行と呼べるものなのかな。」
「……だ、大丈夫です。たとえ義務感があったとしても善行は善行。あなたの魂は少しずつ浄化されていくでしょう。」
「……なるほど。義務感すらも浄化のプロセスに組み込むとは、天音さんのシステムはなかなか強固だね。けど、そうなると僕の『やる気のなさ』という悪魔的属性と、君の『義務的な善行』という天使的属性、どっちが先に根をあげるかの我慢比べにならないかな」
「我慢比べではありません。愛のムチというやつです!
さあ、まずは1枚目のカードの最初のスタンプを押すために善行を始めましょう!」
両手を広げ自信満々にポーズを決めた彼女の周りからふわりと光が舞ったように見えた――
もちろん彼女が本当に天使で羽が舞い散ったからではなく、僕の席が窓際であり夕日にさらされた彼女が激しく動けば埃が舞うのは当然である。
「善行と言っても具体的には何をするんだい?困っている人を探しに練り歩くのであれば、僕は家に帰って賞味期限が切れるポテチを食べるという善行をやる予定があるから帰らせてもらうよ。」
「もちろんちゃんと用意していますよ。ですが、ポテチを食べるという善行は是非ともご相伴に預かりましょう。」
この自称天使はお菓子で簡単に人の家までついてくるつもりらしい。家を知られたら僕の安全圏がなくなってしまいかねないので話を逸らすことにする。
「――それで僕は今日何をすることになるのかな?」
「では、発表します。本日の善行クエストそれは……」
デレデレデレデレとドラムロールを口でいう天音さん。面白いのでそのまま眺めていると、流石に恥ずかしかったのかドラムロールが小さくなり発表される。
「『校内に落ちている空き缶を、一個につき三回ありがとうと言ってからゴミ箱に捨てる』です!」
「……一個につき三回? 効率が悪すぎないかい。そもそも空き缶に感謝するくらいなら、それを製造したメーカーの株を買う方がよっぽど建設的な支援だと思うんだけど」
「それに三回である必要性はあるのか?感謝は一回言えば十二分に伝わるんじゃないか。それとも天使様は三回も言われないと感謝の心に気が付かないのか?」
「三回と言うのは――あれです。『二礼二拍手一礼』それと同じく1回ではなく複数回感謝を述べることが大切なのです!」
「なるほど、日本文化を取り入れるのはよいことだと思うけど属性が交通渋滞しちゃうんじゃないかな。」
「なっ…。そういう可愛くないことを言う口には、この『聖なるミントガム(市販品)』を放り込みますよ!」
「…。わかったよ。やればいいんだろ、やれば。ただし1周だけだ。放課後の校内でそんな沢山空き缶が落ちているとも思えないからね。それで手を打ってくれないか。それに僕の帰宅時間は、悪魔の門限のように厳しいんだ。」
押し問答を続けていても僕の帰宅時間が早くなるわけでも、彼女の救済が終わるわけでもない。
やれやれといった感じで立ち上がる。
「ふふん。それでは行きましょうかアクマくん。まずは校門からです!」
満足そうな顔をした彼女は僕の腕を取り歩みを進める。手作りの羽が当たって少し痛いが何も言わないでおく。
どうやら僕の平穏な帰宅はしばらく訪れないらしい。
結局僕たちは校舎を一周し、自販機の影に隠れるように捨てられていた空き缶を三つ発見した。
僕は彼女の監視の下、錆びついたスチール缶に向かって「ありがとう」と三回、合計九回の感謝を捧げた。正直に言って、人生で一番無駄な、そして一番「善人」っぽい時間だった。
「はい、よくできました! スタンプ第一号です!」彼女は満足げに、僕のカードにお手製の消しゴムはんこを捺した。
「……ふう、これで満足かい。空き缶もなくなったし、僕の魂についた汚れも少しは綺麗になったとは思う。もう帰ってもいいかな。」
「ええ、そうですね。今日はこれまでにしておきましょう。……あ、アクマくん。」
校門の前で、彼女は足を止めた。夕日に照らされたプラスチックの羽が、安っぽく、けれども少し綺麗に光る。
「さっきのポテトチップスの話、忘れていませんからね。明日、私の分も用意しておくように!」
「それは善行じゃなくて、ただの貢物じゃないかな。」
「いいですか、天使にお供えをするのは全人類の義務です。それでは、また明日!」
彼女はスキップでもしそうな足取りで、僕とは逆方向の道を去っていく。
背中で揺れる白い羽を見送りながら、僕は自分のカバンを肩にかけ直した。
――善行。 彼女の言う通り、もしこれが悪魔を浄化するための猛毒なのだとしたら
毒が回りきる前に、僕の「平穏」という名の免疫が尽きてしまいそうだった。
明日も、明後日も。
僕のスタンプカードが埋まるまで、あるいは彼女の「デビュー」が終わるまで。この奇妙な救済劇は続くのだろう。
「そういえば、持っていくポテチの味を聞きそびれたな」
そんな言葉をこぼし、長く伸びた自分の影を踏みながら、疲れた体を休めるため足早に帰路につくことにした。




