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春の風が、リヨンブールの街路をゆるやかに抜けていく。石畳を撫でる風は冷たさを残しながらも、どこか柔らかい。市場のざわめき、露店の呼び声、遠くで笑う子どもたちの声――それらは確かに耳に届いているのに、シュバルツの意識はすべてを薄い膜越しに受け取っていた。
通りの隅、簡素な宿の一室。壁に掛けられた小さな鏡の前に、彼は立っていた。
肩よりも下まで伸びた黒髪が、静かに垂れている。
柔らかく、絡まりやすく、光を吸う色。 かつて誰かが指を通した髪。 誰かが「綺麗だ」と言った髪。
そのすべてが、もう不要だった。
――重い。
そう思った瞬間、胸の奥が僅かに痛んだ。里で過ごした冬。羽の温度。雛鳥を見守った時間。義手を取り付けた日。あの場所に「帰ってこい」と言われたこと。
思い出すな、と言い聞かせても、身体は正直だ。 髪に触れるたび、記憶が指に絡む。
「……終わりだな」
声は低く、感情を含まない。 誰かに聞かせる言葉じゃない。自分自身に区切りをつけるための音だった。
シュバルツは腰の道具袋から、小さな刃物を取り出す。冒険者用の簡易ハサミ。切れ味は十分だ。人の髪を切るために作られたものじゃないが、それでいい。
人に頼む気はなかった。 他人の指が触れた瞬間、何かを見抜かれる気がした。 それだけは、耐えられない。
ザクッ。
最初の一束が、容赦なく切り落とされる。 音は軽い。驚くほど呆気ない。
床に落ちた黒髪を、彼は一瞥もしなかった。
ザク、ザク、と切る。 鏡の中で、少しずつ首元が露わになっていく。 春の空気が、短くなった髪越しに直接、肌を撫でた。
冷たい。
それが心地いい。 罰のようでもあり、覚悟の証のようでもあった。
帰らない。 帰れない。 帰る場所だと、思ってはいけない。
守ることも、守られることも、もう怖い。 手を伸ばした先で失う痛みを、彼は知りすぎていた。
切り落とされる髪と共に、里での時間を過去に追いやる。 そうしなければ、前に進めない。
……はずだった。
ふと、刃を持つ手が止まる。
鏡の左側。 耳の上、もみあげのあたり。
そこだけ、奇妙に長いまま残っている一束があった。 細く、不器用に編まれた三つ編み。
毛先には、小さな青い石。 光の角度で、青にも緑にも黒にも見える、不思議な色合い。
――ラブラドライト。
名を知らなくても、忘れようがない。
あの里で。 まだ背丈も足りない、カラスの子供が。 必死に指を動かして、何度もほどいて、それでも諦めずに編んだ姿、一生懸命編んだものだ。
『黒いにーちゃんの目に似てたから、あげる』
拙い言葉。 でも、あまりにも真っ直ぐで。 胸の奥に、今もそのまま残っている。
切ろうと思えば切れる。 刃を入れる理由も、十分すぎるほどある。
それなのに――指が動かない。
シュバルツは無意識に、その三つ編みに触れていた。 柔らかい。 温度がある。
毎朝、義手のリハビリがてら、編み直していた。 左右の感覚を確かめるように。 何も考えず、ただ手が覚えていた作業。
切る必要性は、確かにない。 短い範囲に収まっている。 邪魔にもならない。
だがそれ以上に―― 切れば、あの子の笑顔まで失う気がした。
里の記憶をすべて捨てるつもりだった。 それでも、全部は無理だったらしい。
「……残すか」
小さく呟く。 誰に言うでもない、ただの事実確認。
残す。 それだけだ。
鏡に映る自分は、ずいぶん印象が変わっていた。 首元は短く、戦場に似合う長さ。 野営でも邪魔にならない。
けれど左側だけ、異物のように残る三つ編み。
切り捨てた過去と、 切れなかった温度。
その両方を抱えたままの、不格好な姿。
シュバルツは床に落ちた髪を無造作にまとめ、袋に詰める。 捨てるかどうかは、後で決めればいい。
次に、首元に手を伸ばす。 露店で買った、ただの羽飾り。 シエルの羽に似ていただけの、安物。
「……本物には、程遠いな」
そう思いながらも、無意識に手は動く。 アルヴィンから渡されたグループの羽。 それも一緒にまとめ、紐に通す。
失くさないように。 それだけの理由で。
首から下げ、服の内側にしまう。 胸元で、羽と髪が重なる。
守るものも、守られるものも。 まだ、完全には手放せていないらしい。
春の光が、窓から差し込む。 外では子どもたちの笑い声が弾け、市場の鐘が鳴る。
温かい世界だ。 自分には、縁のない。
「……これでいい」
そう言って、シュバルツは背を向けた。
帰らない。 帰る場所だとも、思わない。
それでも―― 帰りたいと思ってしまう場所が、初めてできたことだけは。 切り落とした髪よりも、重く胸に残っていた。
春の町を、野良猫は歩き出す。 短くなった髪と、残された三つ編みを揺らしながら。 未来を知らないまま、それでも足だけは止めずに。
コツっ、コツっと、靴底が石畳を叩く音だけがやけに耳に残る。
春のリヨンブールは人が多い。露店の呼び声、荷馬車の軋む音、笑い声。全部が生きている街の音だというのに、シュバルツの歩調だけが、そこから少しずれていた。
ギルドは中央通りを抜けた先。
タバコの補充と、次の依頼。
考えることはそれだけでいい。
……今回も盗伐でいい。
森でも、街道でも、地下でも構わない。
長期で、帰還予定未定。
兵舎みたいに寝泊まりして、任務だけこなして、顔も覚えられずに消える。
それが楽だ。
フラフラと、追いつけないほど遠くへ行けばいい。
どこまで行っても、背中を呼ばれることがなければ――
「……追いつく?」
ふっと、喉の奥で短く息が漏れる。
自嘲にもならない。
まさか。
来るわけがない。
シエルは、里にいる。
雛鳥たちがいて、家族がいて、守るべき場所がある。
俺みたいな根無し草を追いかける理由なんて、どこにもない。
……ない、はずだ。
無意識に、左側の髪に指が触れる。
短く切った首元とは違う感触。
残してしまった、細い三つ編み。
指先で軽く撫でて、すぐに離す。
癖だ。意味はない。
「……来るなよ」
小さく呟いた声は、春の雑踏にすぐ溶けた。
願いなのか、命令なのか、自分でも分からない。
ギルドの建物が見えてくる。
重厚な扉、掲示板、出入りする冒険者たち。
ここに来れば、また“黒猫”に戻れる。
誰にも縛られない。
誰の番でもない。
誰の帰る場所でもない。
それでいい。
それしか、できない。
シュバルツは歩みを止めず、石畳を踏みしめた。
胸の奥で、何かが微かに追いすがる気配を残したまま。
――遠くへ行けば、きっと、追いつかれない。
そう、信じるしかなかった。
ルネ カラスの男の子
冬の里でシュバルツにめっちゃ絡んでた子
ルナ 病弱やカラスの妹、散歩に1度だけ参加してたよ
レネイ ルネと喧嘩しまくるトンビの女の子、一度もシュバルツの笑顔見たことない「見間違いじゃないの??」




