気がついたら、何処にもいない
シエル「なんか!ヒバリの事とか!教えとか!習ってる間に!黒猫さんどっか行ったんだけど!?!?」
アルヴィン「さすが猫、逃げ足早いよなー!アッハッハ!!」
里の空は穏やかな春色で、風も柔らかい。
羽を畳んだまま、シエルは物置小屋から戻ってきたところだった。書類の束を胸に抱えている。
ギルドの本登録に必要な認可証。
長居するつもりはなかった。用が済んだら、またすぐ追いつく――そのつもりでいた。
「……黒猫さん?」
住処の前に、気配がない。
いつもなら、どこかに“いる”。音も匂いも消していても、シエルには分かる。
けれど気がついたら、それすら感じなかった。
嫌な予感が、背中を撫でる。
アルヴィンを見つけて、思わず駆け寄った。
「ねぇ、アルヴィン。黒猫さん、どこ?」
一瞬の間。
その一瞬で、シエルは悟ってしまった。
「え!? 黒猫さん、もう行っちゃったの!?
一言もなしに!?
……指輪、返してないよ!!?」
声が裏返る。
自分でも驚くほど、必死だった。
アルヴィンは頭をかきながら、いつもの軽さで答える。
「ぉー、三日前には出てったぞ」
「……みっ、か……?」
数字が、うまく頭に入らない。
「だけどな、シエル。
今追いかけても、多分黒猫は拒否すると思うぞ?」
シエルは口を開きかけて、閉じた。
「そもそもさ。
お前が里に帰ってきた理由、忘れたのかー?」
――忘れるわけがない。
ギルド本登録のため。
里の認可証をもらうため。
シュバルツの義手を作るため。
そして、有翼人としての知識を詰めるため。
全部、彼と“ちゃんと並ぶ”ための準備だった。
「……分かってる」
小さく、でもはっきり言う。
「だから戻った。
黒猫さんのためでもあるし……自分のためでもある」
アルヴィンは少しだけ真面目な顔になる。
「だろ?
なら今は、ここにいろ。
あいつは……逃げる時は、徹底的だ」
シエルは、胸元をぎゅっと掴んだ。
服の下、まだ返していない指輪の感触がある。
――決別の意味も、覚悟も、何一つ知らない。
ただ、
何も言われずに行ってしまった、という事実だけが残る。
「……拒否、されるかな」
ぽつりと零す。
アルヴィンが口を開く
「拒否されるって言うなら、渡した羽も里を出る時に返すだろ?それすらせずに出てった、時間が必要なんじゃね??人間だし、俺らとは違う。」
シエルは空を見上げる。
渡りの風が吹く季節。
追えば追いつける距離かどうか、そんなの分からない。
でも。
「……それでも」
まだ、飛ばない。
今は、飛べない。
翼を広げる理由は、逃げるためじゃない。
追いかけるためでもない。
“並ぶ”ためだ……
アルヴィンは空を見上げながら、気の抜けた声で続けた。
雲は高く、春の風は穏やかだ。飛ぶには最高の日だというのに。
「そもそもさ。
ヒバリに釘刺されてたのに逃げるほど、追い詰められてる感じでもねーんだよなぁ、黒猫」
独り言みたいに、けれど確信を含んで。
「むしろさ……
命とか、大切なもんとかを“失う覚悟”が、まだねぇだけだろ」
シエルははっとして、アルヴィンを見る。
その横顔は軽くて、でも不思議と重い。
「有翼人にとって命ってのはさ、
守り切れるもんじゃねぇし、抱え込むもんでもねぇ」
アルヴィンは自分の胸を、軽く拳で叩く。
「巡るもんだ。
生きて、渡って、繋いで、また誰かに託すもんだ」
翼を持つ者の、当たり前の感覚。
だからこそ、地に足を縛られた者とは決定的に違う。
「死ぬその時までな、
空を飛ぶもんなんだよ。
飛べなくなったら終わり、じゃねぇ。
飛ぼうとするのをやめたら、終わりだ」
風が吹き抜ける。
シエルの羽が、微かに揺れた。
「黒猫はさ。
守るのも、守られるのも、もう一回失うのが怖ぇだけだ」
アルヴィンは苦笑する。
「だから切った。
だから逃げた。
でもな――」
一拍、間を置いて。
「“帰る場所ができちまった”ことそのものを、
まだ受け止めきれてねぇだけだろ」
シエルは何も言えなかった。
否定できない。
肯定も、できない。
「ヒバリなら、きっとこう言うぜ」
アルヴィンは肩をすくめる。
「『失う覚悟がないなら、まだ生きる番だ』ってな」
シエルの喉が、きゅっと鳴る。
「……黒猫さんは」
小さな声。
「生きるのが、怖いんですか」
アルヴィンは即答しなかった。
それが答えだった。
「怖ぇよ。
だから飛んでんだ」
軽く笑って、空を見る。
「生きるってのはさ、
何かを抱えたまま、落ちるかもしれねぇ高さを飛ぶことだ」
翼を広げる仕草を、ほんの一瞬だけしてみせる。
「黒猫は今、
“落ちる覚悟”ができてねぇ」
シエルは胸元に手を当てる。
返せていない指輪が、そこにある。
「でもな」
アルヴィンはちらりと、シエルを見る。
「覚悟がねぇってことはさ。
まだ、終わらせる気もねぇってことだ」
その言葉に、シエルの瞳が揺れる。
「……来ないだろう、って思ってるかもしれない」
アルヴィンは笑う。
「でもな。
飛ぶ鳥は、風を選ばねぇ。
巡った命は、巡りきるまで終わらねぇ」
春の空に、遠く鳥影が流れる。
「今は追うな。
でも、忘れるな」
アルヴィンは最後にそう言って、踵を返した。
「空を飛ぶってのはな、
逃げることじゃねぇ。
生き続けるって決めることだ」
残されたシエルは、しばらくその場で立ち尽くす。
胸の奥で、何かが静かに燃えていた。
――逃げた男は、まだ生きる側にいる。
そして、自分もまた。
春の風は、どちらの背中にも等しく吹いていく…
シエルは胸の中で、静かに決める。
黒猫が知らないところで。
黒猫が拒む未来を、否定せずに。
今は待つ。
知るべきことを知り、力を蓄える。
――指輪を返す時は、必ず顔を見て。
あの眼を…不器用な人を、姉の大切だった人をちゃんと見る。
アルヴィン「難儀だよなー人間って」




