44
1度目は逃げるよ
春になった。
雪はまだ森の奥にしぶとく残っているが、里に差す光はもう柔らかい。
命が生まれ、巣が温まり、未来が続いていく――そんな季節だ。
だからこそ、シュバルツは里を出るつもりだった。
誰にも言わずに。
シエルにも、ヒバリにも、里の連中にも。
義手を作る、それだけが目的だったはずだ。
それ以上を受け取る資格は、自分にはない。
……そのはずだった。
森へ向かう境界で、
なぜかそこにいるはずのない男がいた。
「なんだ、シュバルツ。もう行くのか?」
あっけらかんとした声。
春の空気みたいに軽くて、疑いも警戒もない。
(……なんでいる)
気配は消した。
匂いも落とした。
まして今はヒバリの出産直後だ。
番のアルヴィンが、里を離れる理由なんて一つもない。
「……あぁ」
短く答える。
「元々、義手を作りに来ただけだ。用は済んだ」
アルヴィンは少しだけ目を細めて、
それからすぐ、いつもの笑顔に戻った。
「ふーん。シエルは寂しがるな〜
あれは追いかけるタイプだぞ?マジで」
軽い冗談。
だが、その言葉だけで胸の奥が冷える。
「……俺にはもう、関係ない」
吐き捨てるように言った。
春だというのに、首筋を撫でる風がやけに冷たい。
アルヴィンは、笑ったまま言う。
「あるぞ?」
その一言が、妙に重かった。
「お前がどんなに否定してもな、
シエルはお前を番にする」
断言だった。
「一度決めたら曲げねぇ。
あいつ、頑固だし。
生き抜くことも、その延長線だ」
シュバルツは何も返さない。
「次に里へ帰ってくる時はさ」
アルヴィンは背中の翼を広げながら、
軽く、しかし確かな声で言った。
「諦めて、俺らの“家族”になれよ」
そして最後に。
「達者でな」
そのまま、里の方へ飛んでいった。
振り返らない。
見送らない。
ただ、それだけなのに――
胸の奥に、確かに何かが残った。
冬の里での出来事を思い返しながら南へ下る道
冬の里を背に、シュバルツは静かに歩いた。
雪がまだ溶けきらない森の小道は、踏みしめるごとにわずかに軋む。義手の金属が服の上で擦れる音に、無意識に肩をすくめる。
思考は里のあの日々に自然と流れた。
雛鳥たちの寝息。
小さな羽の柔らかさを、間近で感じた日々。義手を装着した日々、シエルが手入れをしてくれたときの、無言のやさしさ。
「……あいつら、俺の手を怖がらなかったな……」
ヒバリの出産の日。里全体で魔力を注ぎ、命をつなぐ光景。戦場では見たことのない温かさに触れた日。
「……命をつなぐって、こういうことか……」胸の奥で、わずかに何かが震えた。
戦場で無数の命を奪い、生かせなかった自分とは別の世界がここにあった。
けれど、思考はすぐに影を帯びる。
俺は戦場で生き残った。痛みも、死も、孤独も、すべて背負ってここまで来た。
「……でも、この里が、俺の居場所なんだな……」
それを自覚するだけで、胸の奥が締め付けられる。温もりは優しく、けれど痛みを伴った。
足元の雪を蹴る。森の枝が風で揺れ、枯れ葉がささやく。
戦場での轟音や血の匂いとは違う、静かで冷たい空気。だが、それは恐ろしいほど安心できるものでもあった。
「……帰る家、か……」
俺は、戦場で生き残った。
盗み、殺し、戦い――
孤児として、生きるために選んだ道だ。
父は酒に溺れ、
母は、いつの間にか消えた。
帰る場所なんて、なかった。
「……でも……」
口に出す前に、飲み込む。
(……この里が、俺の居場所だったんだな)
そう自覚した瞬間、
胸が締め付けられる。
温もりは、優しい。
だが同時に、残酷だ。
手に入らないと分かっているものほど、
はっきりと痛みを残す。
「……それでいい」
足元の雪を蹴る。
枝が風に揺れ、枯れ葉がささやく。
「……それが、オレだ」
静かに、そして確実に、心の奥の何かがほぐれ始める。
自分と、里で触れた小さな命や温かさ。その二つの世界が、ぎこちなく交差していく。
「……この道を下れば、街か……」
森の出口に向かう足取りは、無言ながら少し軽くなった。
シュバルツは、無意識に肩の力を抜き、義手の感触を確かめる。
触れた温度が、命を託された意味を、冷たい手のひらに教えてくれる。
森を抜け、雪解け水の匂いが混じった湿った風が吹き込む。
道は徐々に広がり、日差しが地面を温めるようになった。足取りは変わらず静かだが、義手の金属が歩くたびに微かに擦れる音に、ふと目を細める。
「……里の匂い、まだ残ってるな……」
冬の里で見た光景が、頭の中で繰り返される。
雛鳥たちの小さな羽音。
森を抜け、道は南へ続く。
雪解け水の匂いが混じった湿った風。
日差しは暖かいが、風はまだ冷たい。
街――リヨンブールは、遠い。
道中、宿に寄り、依頼を受けるだろう。
盗伐でもいい。
長期の兵舎仕事でもいい。
遠くへ行けばいい。
追いつけないほど、遠くへ。
「……追いつく、か……」
鼻で笑う。
「はっ……まさか……」
シエルが追ってくる?
そんなはずはない。
……そう、思いたいだけだ。
夜、焚き火の前で義手を外す。
冷たい金属の感触。
それでも、胸の奥には、
確かに残っている温度がある。
「……守るべきものは……」
言いかけて、止める。
守れない。
守る資格がない。
だから、離れた。
逃げた。
それでも――
春風が、首筋を冷やすたび、
羽音と笑い声が、思考をかすめる。
里はもう、背後にある。
だが、心のどこかで、
まだ“帰る場所”として息をしている。
シュバルツはそれを否定しながら、
南へ、歩き続けた。
一度目の春。
彼は確かに、逃げた。
そしてその逃走は、
後に来る“再会の秋”を、
より残酷にすることを――
この時の彼は、まだ知らない。
この男一貫性無さそうに見えて、命を失うのがトラウマすぎるんよ…
だから逃げる、中途半端に




