21
もうここまで来たら何となく察してくれ
小鳥、ガチで小鳥でした、求愛行動はほぼ鳥と変わらないよ
シュバルツ「眠れたか…?」
湯気の向こうで、黒猫の声は低く揺れた。
無論、ただの挨拶ではない。
視線はシエルの肩の可動、首の傾き、背中に残る緊張を正確に読み取っている。
シエルはパンを千切りながら、にこりとした。
「えへへ、うーん……半分眠れて、半分眠れてない、って感じでしたね。
背中がじーんってして……ちょっと羽が勝手に動くんですよ。」
そう言うと、肩甲骨の奥でまた疼くように血が波打つ。
声は明るいが、疲労の影は薄く瞼に刻まれている。
しかし――黒猫に弱音を見せるつもりはないらしい。
「でも、眠れなくても飛べるくらい元気です!
……まだ飛べないですけど。」
小さな笑いが零れたが、黒猫の目は微かに細くなる。
その言い方は時折、死地に向かう兵と似ている。
痛みを笑いに変え、自分で自分を前に押す声。
黒猫はスープに手を伸ばしながら、低く続けた。
「……無茶をする顔だ。
本当に飛ぶ気でいる。」
問いではなく、観察。
静かな指摘。
それを受けたシエルがぱちりと目を瞬かせる。
「生えたら、飛びたいですもん!
空、ずっと見てたし。」
パン屑がテーブルにこぼれ、指で集めながら彼女は笑う。
「黒猫さん、もし落ちたら助けてくださいね?
きっと地面、すごく痛いだろうから。」
その声は朗らかで、しかしどこまでも真っ直ぐだった。
生きるためなら痛みに歩み込み、
空を目指して傷口ごと前に進む少女。
黒猫の沈黙は、数秒の深さを持って彼女に落ちた。
その沈黙の中で――
あの時、守れなかった。
二度と繰り返したくない。
だが、翼を奪われても空を望む娘を、止める権利が俺にあるのか…?
そんな思考が、朝の光より鋭い。
そして静かに、彼はシエルを見た。
守るためか。
見届けるためか。
その答えはまだ、彼自身にもわからないまま。
「本来ならですね、翼の生え変わりって決まった時期に起こるんです、けど久々に出したから体がびっくりしたんでしょうね、小鳥も、あんなに痛かったけ?と思うくらいにはびっくりです…」
羽油持ってないです……!!と嘆く
朝の窓から差し込む光が、シエルの髪の先に薄く触れる。
その明るさに似合わず、声は少しだけしょんぼり沈んでいた。
肩を指で揉むように触れ、羽根の付け根を確かめる仕草。
触れるたび、微弱な疼痛が波紋のように広がる――
大きな翼が生え揃う前の、幼い鳥のような繊細さ。
そして、次の瞬間。
目尾を落としテーブルに額をこつん。
黒猫の手が、湯気の向こうでゆるく止まった。
その言葉の重さを知る者にしか見えない、細微な変化。
黒猫は息を僅かに吐く。
返すべき言葉はひどく難しく、
だが声は静かに落ちた。
「生え変わり…か、簡単な回復ならかけることはできるがな…」
それは同情ではなく、提案でもなく――
支えるという意思そのもの。
シエルは目をぱちりと開き、
次の瞬間には花が咲くように笑った。
「黒猫さん、優しい。
じゃあ……治りきるまで、手伝ってくれますか?」
誘うような視線。
痛みの向こうを見据える光。
一度失った翼が、再び空を求める。
その成長は誰より痛み、誰より眩しい。
黒猫はゆっくり視線を返し、わずかに顎を引いた。
守るためか。
見届けるためか。
あるいは――あの日失ったものの代わりか。
答えはまだない。
だがその横顔は、確かに彼女の未来を見ていた。
「……必要なものは、そろえてやる。」
朝霧の残る石畳を、靴底がこつこつと鳴らす。
夜を越えたばかりの街は、焚き火の煤とパンの香りが混ざり合い、
目を開いたばかりの獣のように少し眠たげだ。
シエルは肩の小さな鞄を抱え、品定めするように市場を見回す。
「干し肉はまだあるし、野草乾燥薬はそろそろ補充したいかなぁ…
痛み止めの薬草も欲しいですし……あっ、保存用の脂も買おうか悩む…」
羽の付け根がまだ疼くのか、ときどき肩を回しながら歩く。
黒猫は横で無言。だが観察していないわけではない、
シエルが少しでも足を引きずれば、その癖を見逃す目ではない。
やがて冒険者ギルドの看板――剣と麦の紋章――が視界に広がった。
「黒猫さん、タバコ買うんですよね?小鳥も見たいので一緒に行きます!」
嬉々として腕を掴む指。
黒猫は少しだけ瞬きをし、拒まず歩調を合わせる。
扉を押せば、酒と獣皮と紙の混ざる匂いが温かく流れ出る。
受付前には依頼表がずらり、冬は魔物が降りてくるせいで紙の量が多い。
黒猫は慣れた動きでカウンター奥の売店へ向かった。
渋く乾いた匂いのする葉が数種、紐で束ねて掛けられている。
受付の男が黒猫を一瞥し、苦笑を混ぜて声をかけた。
「シュヴァルツさん、また辛い葉のほうですか?
普通のより値が張りますが…」
黒猫は懐を探るふりもなく答える。
「それでいい。二束。」
――迷いなく。
まるで、その煙草だけが今を繋ぎ止める糸であるように。
「黒猫さん、辛い葉って何ですか?」
黒猫は少しだけ視線を逸らし、煙草の束に手をかけながら答える。
「辛い葉……単純に言えば、普通より刺激が強くて、香りも濃い。吸うと体も頭もシャキッとする。戦場や長時間の監視で眠気や疲れを紛らわせるために、俺はこれを選んでる。」
小鳥は目を輝かせて、身を乗り出す。
「へぇー!香りも強いんですか?どんな匂いか、少しだけ嗅がせてもらっていいですか?」
黒猫は小さく眉をひそめるが、束を差し出す。
「……気をつけろ、刺激は強い。子供には向かない。」
小鳥は慎重に鼻を近づけ、ふわりと香る乾いた葉の匂いを吸い込む。
「うーん…渋いけど、ちょっと美味しそうな香りもしますね!」
黒猫は黙ったまま煙草をカウンターに置き、会計を済ませる。
「ほら、準備はこれで整った。後は出発だけだ。」
小鳥は興味津々で葉の匂いをもう一度確かめながら、背中の羽に手を添えて小さく頷く。
冬の街に、また二人の静かな歩みが続いていく。
一方のシエルは棚を見つめて眉を寄せている。
「ええと、乾燥薬と……
痛み止めの《シル草粉末》、あと保存油……高い……」
指先が小瓶の値札で止まる。
全部は買えない、そんな現実計算が瞳に浮かんだ。
そこに影が差す。
黒猫が買った煙草の束をポケットに押し込み、横に立つ。
無言のまま、シエルの手に《保存油》を取って渡した。
「必要だろう。」
その声は低い。叱るでも甘やかすでもなく――
ただ事実として、翼の痛みの先を見据えた言葉。
シエルはきょとんとし、
次の瞬間ふわりと羽毛のような笑み。
「……ありがとう。
黒猫さんが言うなら、ちゃんと使います。」
黒猫は黙って棚から目を離さず、シエルの小さな手が保存油を受け取る様子を見つめる。
彼の瞳の奥には、あの片翼の痛みを思い出す光がちらりと揺れる。無言のまま、余計な言葉は必要ない――自分がしてやれることはこれだけだと、静かに理解している。
シエルは小さく頷き、保存油を胸元に抱えるようにして背筋を伸ばす。
「これで、少しでも楽になるかな……」
黒猫はその表情を確認し、肩越しに街の通りを見やる。人通りは少なく、冬の空気が二人を包む。
「…使い方は、気を抜くなよ。」
シエルは柔らかく微笑みながら、背中の羽をそっと撫でるように触れる。痛みが和らぐかどうかは分からないけれど、その気持ちが何よりの支えになると、小鳥は感じていた。
街の寒さの中、二人は黙々と準備を整え、再び旅立ちの一歩を踏み出す――けれどその距離感には、確かな信頼と静かな優しさが確実に刻まれていた。
購入を済ませ、店を出ると、風が二人の顔を撫でた。
煙草の匂い、薬草の匂い、凍った朝の空気。
どれも小さく、確かな温度で息に混ざる。
ギルド前の階段を降りながら、シエルがぽつりと呟く。
「これで旅の準備は少し進みましたね。
里まで、もうすぐ…また痛むかもしれないけど、ちゃんと飛べるようになりたい。」
その横で黒猫は煙草を咥え、火をつける前に一度シエルを見る。
風に揺れる片翼――
まだ、完全ではないが確かに伸びようとしている。
黒猫は火をつけず、そのまま煙草を指に転がしながら返した。
「飛びたいなら、生え切るまで付き合う。
……痛むなら、言え。」
言葉は少ない。
だが、その背にはひどく優しい影がさしていた。
そして彼らは、まだ知らない未来へ歩き出す。
里へ。翼の向こうへ。
二人の旅は今、静かに速度を増していた。
薄い羽根が数枚、床に散って光っている。
窓から射す朝の白い光を受け、まるで雪の欠片みたいに儚い。
宿に戻りシエルは箒を借り、しゃっ、しゃっ、と掃きながら
指先で羽根を一枚つまんでじっと眺めた。
「…これ、着火剤になるかな…??」
ぽつり、呟きは本気の思考の音。
羽は乾いて軽い。油分は少ないが、繊細ゆえに火は早く回るだろう。
ただし――まるで花弁のように燃え尽きるのも一瞬。
熱量は弱いが、火を"起こす"には十分すぎる。
雪の夜、濡れた薪に火を噛ませる最初の灯としては、むしろ理想的。
ただし、それは自身の欠片を燃やすことだ。
箒の動きが一瞬止まる。
手にした羽は、まだ痛む背中の感触と繋がっている。
黒猫の声がふっと後ろから降るように響くかもしれない。
――「燃やすなら、痛みの対価であることを忘れるな。」
そんな声が脳裏をよぎったのだろう、
小鳥は指先で羽根をそっと撫で、細く笑う。
「焚き火ひとつ生むのに、体の一部を使うなんて変ですよね。
でも……生きるためなら、無駄じゃないかも。」
羽根を灰皿に落とす。
燃やすか、残すか――決めるのはまだ先。
薪の爆ぜる音、焚き火のぬくもり。
旅はまだ続き、翼は生え揃っていく途中。
シエルは小瓶に羽根を数枚だけ残し、
箒を返しに階下へ向かった。
小さな決意のように、こつん、と足音が階段に響く。
燃えてもいい。
使ってもいい。
――ただし、生きる力に変えられるなら。
そんな思案の火種を胸に抱いて。
里まであと数日
冬の街道を歩く二人の足音が、雪に吸い込まれるように静かに響く。
小鳥は背中の違和感を感じながらも、羽を軽く広げて雪を踏みしめる。片翼はまだ完全ではないけれど、羽毛が雪に触れる感触は、少しずつ心地よさを取り戻している。
黒猫は無言で後ろから追う。右目の緑青が白銀の世界に鋭く光り、左目の緑が静かに雪景色を映している。彼の視線は常にシエルに向いているが、必要以上に声をかけず、距離を保つ――それでも、片翼を持つ彼女の背中を守る意思は揺るがない。
小鳥は途中で木の実や根菜を拾い、生活魔法で少しずつ携帯食に加工していく。
「後数日かぁ…黒猫さん、ちゃんと栄養と水分取らないとだめですよ!」
黒猫は軽く頷き、タバコの束を胸ポケットで握りしめる。体に染み込む冷気と、煙草の香りが、わずかな安堵をもたらす。
空は淡い白銀の色に染まり、日差しは弱いが確かに暖かさを含んでいる。
小鳥は時折、前方に目を細め、遠くに見える森や丘を指さす。
「ここを抜けたら、あと少しで野営地…!」
黒猫は彼女の声を聞き、心の中で静かに思う――
(こいつは本当に強い。小柄な体で、片翼でも、雪と森の中をこんなに軽やかに進む。俺は、ただ後ろから守るだけで十分なのか…?)
後数日の旅路はまだ長いが、二人の間にある沈黙の信頼と、少しずつ芽生える互いの理解が、その先の道を照らしていた。
羽根油
有翼人の幼鳥に親が塗る油。
傷を防ぎ、羽毛を整え、伸びる翼を保護する――
親の代わりであり、巣の温度であり、
飛ぶ者が空へ向かうための唯一の許し。
それを持たないシエルは、
自らの翼に、親の手を持たないまま痛みに立っている。




