閑話休
その重さ事包もうと、飛ぼうと思ったのは
夜の兵舎、焚き火の影が揺れるあの頃――
まだ右も左も分からなかった幼い少女が、ひとりぼっちで泣いていた。
名前も、素性も、血筋も、街の誰も知らない。
けれどただひとり、近づいて声をかけてくれた青年がいた。
黒い瞳。黒い髪。黒いコート。
闇夜に溶けるような佇まい――まるで猫のような気配の薄さ。
だからシエルは迷わず言った。
「黒猫さん」
名を知らない。
だけど救われた。
助けられた。
温かい飲み物と毛布をくれた大きな身体。
タバコを吸う大人
名前も知らないのに、呼ばなければいけない時が来たら
――特徴で呼ぶしかなかった。
シュバルツは訂正しなかった。
むしろ少しだけ、眼差しを細めて笑った。
あの日から呼び名は固まった。
それは「他に呼び方を知らなかった」だけじゃない。
彼女が名を知るより前に、心がその存在を覚えてしまったから
小鳥の中で最初の「人のぬくもり」が黒い影のような優しさで刻まれた。
ゆえに――
黒猫
名前を呼ぶには、まだ幼すぎて
そしてその呼び方は、彼女の生存と記憶の証だった。
後に里で皆が名前で呼んでも、
彼女だけは変えなかった。
「黒猫さん」は、ただの呼称じゃない。
命を繋いだ懐かしい灯。
最初に与えられた安心の名前。
そしてシュバルツがそれを訂正しない理由は――
その名で呼ばれる瞬間だけ、救えなかった誰かの影が薄れるから。
あなたが、何気ない温かさをくれたから




