第41話 フィデルの記憶力
「さて、早速本題に入ろうと思うのだが、その前に確認しておきたい」
いつものように、研究室にある小さな応接セットの長椅子に、私とフィデルが向き合って座る。いくら護衛でも、ミュンヒ先生は私の隣にフィデルが座るのを嫌がるからだ。
「なんでしょうか」
「この二週間。俺が学園にいなかった理由だ。オリアーヌは大丈夫だが、フィデル。お前はちゃんと理解しているんだろうな」
「勿論です。ほぼ毎日、カスタニエ嬢から聞いていましたから」
そうか、とミュンヒ先生は満足気に頷いた。しかしこれは、私が寂しさのあまりフィデルに愚痴っていたわけではない。昼食の時間や放課後など、ミュンヒ先生の研究室に行かないことを不思議に思ったフィデルが、毎日のように聞いて来るからだ。
この脳筋の頭は鶏頭なのか、日をまたぐと忘れてしまうらしい。
『今日は研究室に一回も行っていないけど、大丈夫か?』
フィデルの頭と同じで大丈夫ではない。そう聞かれる度に、心の奥が痛くて仕方がなくなるのだ。
さらにもどかしく感じる時は、感情をぶつけてしまいそうになった。けれどそんなことをしても、ミュンヒ先生に会えるわけではない。前世で『諦めることも大事』だと説いた私が憎らしかった。今ならなんと声をかけるだろう。
『その気持ちを糧に頑張りましょう』
できなくても、その言葉を口にするだけで頑張った気分になってもいい。少しでも気持ちを前に向けることが大事だと思うからだ。
前に前に。実際は進んでいなくても。立ち止まっていても。気持ちだけは……。
そんな私の疲労と苦労の甲斐もあって、フィデルは得意げな顔で口を開いた。
「公王様への定期報告で登城していたんですよね。エミリアンの監視をしていたのは驚きですが、一応ミュンヒ先生は侯爵様ですから」
「一応とはなんだ」
「侯爵様なのに、教師をされているからです。そんな人はミュンヒ先生以外、見たことがないので。あと、それに伴って、カスタニエ嬢との婚約解消を進言しに行ったんですよね」
良かった。一言余計なことを口走っていたけれど、ちゃんと理解してくれていたらしい。この二週間、耐え続けた私の努力も無駄ではなかったことが分かり、救われた気分になった。
けれど胸をなでおろしていたのは、ほんの束の間。フィデルがまた、余計なことを口走った。
「それで、どうなったんですか? 気になって気になって仕方がなかったんです」
「何でお前が……」
「そりゃ、カスタニエ嬢は護衛対象ですし、エミリアンとのことだって気になるのは当たり前じゃないですか。一カ月前まで共に行動していた護衛対象というのもありますが、友人ですから。知っておきたいんです」
確かに。フィデルからすれば、エミリアン王子は護衛対象というより、友人の方が大きいのだろう。アシルほどではないが、付き合いは長いはずだからだ。
「お陰で訓練に身が入らないから、一旦忘れようとしていたら、本当に頭から抜け落ちていて。カスタニエ嬢に、かなり迷惑をかけてしまいました」
「……あの時、近くで腕立て伏せや素振りをしていたのは、そういうことだったの?」
向かい側に座るフィデルへと、静かに問いかける。
毎日毎日、教えていたことが、あの瞬間すべて抜け落ちていたというの? 近くにいながら? 同じことを同じ人に、二週間も言い続けるのって結構、辛いのよ? それなのに……一旦忘れる?
私の忍耐を無視して? あまりにも自分勝手だとは思わないの?
「か、カスタニエ嬢!?」
「ミュンヒ先生。帰って来たばかりでお忙しいとは思いますが、お話が終わった後、フィデル様にたーーっぷりと課題を出してもらえませんか?」
「構わんよ。さっきの意趣返しをどこでしてやろうか、考えていたところだったからな」
「では二倍ですね」
「あぁ、楽しみにしていてくれ」
青ざめるフィデルを無視して、私とミュンヒ先生は底意地の悪い笑みを浮かべたまま目を合わせた。
***
「楽しみというと、エミリアン王子との婚約解消は、上手くいきそうですか?」
フィデルへのお仕置きはここまでにして、私は本題を切り出した。するとミュンヒ先生も、さすが大人というべきか、すぐに切り替えてくれた。逆にフィデルは……一番聞きたかった話題なのに、肩を落とし、さらに疲労感がにじみ出ていた。
しかし、それに配慮をするミュンヒ先生ではない。フィデルを無視して話し始めた。
「まず公王様の方は問題ないだろう。学園での評判も悪くなっていたからな。それを払拭させるために、休学させようか、と言ってきたくらいだからな。事の重大さを理解してくれていた」
「それは良かったです。有り得ない、と一蹴されてもおかしくはありませんから」
「まぁな。政略結婚の意味合いを考えれば、王子の行動は自滅に等しい。だから始めは、オリアーヌの機嫌を直すために、一旦その原因でもあるアペール嬢から引き離すのはどうだろうか、と相談を受けた」
シルヴィ嬢は男爵令嬢であり、婚約者でもないため、エミリアン王子が王城に戻れば完全にシャットアウトできる。その間に考えを改めさせる魂胆なのは見え見えだった。
「当然、否定してくれたんですよね」
「俺の目的も婚約解消だからな。ここで元に戻されては困る。しかし貴族派との縁談を、易々と解消できるものではない」
「はい。そこは重々承知しています。だからお父様の説得をお兄様に頼んだのですが……そちらもどうなりましたか?」
シルヴィ嬢が学園に戻ってきたのは、ジスランがカスタニエ公爵邸に帰った一週間後。早々に手紙が来るものだと思っていたのだが、来る日も来る日もそんな様子は微塵もなかった。
だからミュンヒ先生に、ジスランのことも頼んでおいたのだ。
「オリアーヌの気持ちを、直接会って確認したいそうだ。始めは一時の迷いで手紙を寄こしたのだと思われたらしい。しかしジスランがわざわざ学園に行き、さらに同じように説得されて考えが変わった、と言っていた」
「やはり、私を信用してもらえなかったのですね」
私がオリアーヌに転生したのは、学園に入学してからだ。お父様の中のオリアーヌは、傍若無人に振る舞う、我が儘娘。
一時の迷いと言われても仕方がなかった。今の私をお父様は知らないのだから。
「だから不本意だが、オリアーヌにはカスタニエ公爵邸に帰ってもらう」
「……分かりました」
「そんなに気落ちするな。勿論、俺もついて行くつもりだ。カスタニエ公爵にも、その旨は伝えてある」
「本当ですか?」
「あぁ」
ということは、私とミュンヒ先生の関係を、お父様も知ってしまった、ということになる。ジスランはシスコンだったし、攻略対象者だったから、なんとかやり過ごせたけれど、お父様は違う。ここレムリー公国で、公王に次ぐ高位者だ。
けれど説得できなければ、婚約解消も叶わない。ミュンヒ先生の助けを借りながら、一週間後。護衛であるフィデルを伴って、私はカスタニエ公爵邸に向かって馬車に乗り込んだ。ミュンヒ先生も共に、というのは言うまでもない。




