ボス猿の咆哮(4)
咆哮ではなく雄叫びを合図に、僕を砕くための、砲弾のような一撃が解き放たれる。
「……おぉおおおおあっっ!!!」
来る、殴られる。来る、来る…… 来た―――! スローモーション来たー! ギリ発動した。超スローじゃないけど十分だ。
おっ、痛みが消えている。気にならない程度に痛みが薄まっている感じで、痒いとかこそばゆいに近い。頭のクラクラも治まっている。いや、今はそれより攻撃をかわさなきゃ。迫りくる拳骨はスローになってても結構な速さだ。焦らず慎重に拳の射線から離れよう。
体重を後ろにずらし、小幅に後退する。大猿はさっきまで僕がいた空間を殴り、盛大に空振りしていた。
手応えなく空を切った拳に大猿はバランスを崩し、一歩二歩とよろめいた。大きく見開いた目で僕がいたはずの地面を凝視している。まさか僕が避けるとは思っていなかったのか、僕が消えたように見えたのかもしれない。
今こそ「瞬間移動だよ」とでも言ってやりたいが、スロー世界でしゃべってもこいつにとっては超高速の早口になるから伝わらないだろう。
一瞬僕が消えたように見えたとしても、数歩後ずさっただけだから視界から消えたわけじゃない。少し奥の位置にいる僕にすぐに気づき、口をパクパクと動かしている。「何をしやがった、てめえ!」とでも言っているのかな。やっぱりスロー世界じゃ声や音は聞こえないや。
大猿の表情には怒りが満ちていき、口を大きく開け始めた。
咆哮が来る。そう察知した直後、僕に聞こえたのはヒグラシの鳴き声をトーンダウンしたような奇妙な音だった。アカツキが言ってたあくびとは違うが、それに近い音程だ。しかし、変な音だったが確かに聞こえた。つまり僕は意識を失っていない。
大猿は咆哮が効いたと思い込んで殴ってくるだろう。効いたふりしてギリギリでかわして反撃してやる。さあ、来い。
僕が直立不動でいると、大猿は勝ち誇ったように粘っこい笑みを浮かべたまま殴りかかってきた。わずかな体重移動もしないように気を付けて真正面から迎え撃つ態勢でじっと待つ。
拳が近づいてくる。もう少し。あと少し。鼻先十センチくらいのところで初めて体を動かす。ステップは使わず体の捻りだけで拳の軌道を外す。目の前を拳と太い腕が通過していき、それが肘になった瞬間、肘関節を左の掌底で下から全力で突き上げた。
少し抵抗を感じつつ徐々に猿の腕がしなる。しなりが限界に達したとき、発砲スチロールが割れるように簡単に、大猿の腕は本来曲がらない方向に曲がった。
変な方向に曲がったままの腕が勢いのまま振りぬかれていく。大猿はまだ痛みを感じてもいないのか、ニヤついた表情のままだ。このままもう一撃、スローモーションが終わらないうちにとどめを打っておきたい。
掌底を打ち上げた反動でしっかりと地に足がついている。大猿に向かって左足を一歩踏み込む。捻った体を戻す勢いに乗せて右手の拳を繰り出す。大猿の懐に潜った。狙うのは喉。背伸びしてギリ届くくらいの高さだ。腕と体が一筋の槍になったように、拳を大猿の首元に突き出した。つま先まで真一文字に伸ばした足が地面から離れる寸前、拳の最も尖った先端が大猿の喉に接触する。
スロー世界にいながらも、ほんの一瞬のインパクトだった。首周りに生えている体毛が拳から逃げるように一斉に放射状に倒れ、喉元の体表がクレーターのようにへこむ。それは何重もの波紋となって、見る見る大きく首全体に広がった。激しく波打った皮膚は、台風に曝されたテントの幕みたいに破れ、無残に引き千切れた。
パ―――ンと、小気味よいビンタのような音が響き、その音に弾けて飛ばされるようにスロー世界は終わっていた。
打ち上げ花火が爆ぜるみたいに血しぶきが飛び散り、やはり咲き終えた花火のように、勢いを失くした無数の血しぶきがパラパラと土の上に降り注いだ。
首が吹っ飛んだりはしていないのでエグイことにはなっていない。よかった。首の肉が削げて骨とか見えたりしたら吐いちゃいそうだ。大猿のニヤついた表情は消え失せ、白目をむいて静止している。少しの静寂のあと、操り糸が切れた人形みたいに全身から力が消えて、大猿はその場に崩れ落ちた。




