落ち行く記憶(1)
体は、空中を漂っている―――
僕の手足は大の字に広がって、体は天を仰ぎ、泳ぐことをやめたクラゲのように、ただユラユラと宙に浮いていた。
これは夢か、それとも幻なのか。しかし、夢を見ているとき、その夢の中で「これは夢か」と勘繰った例なんてない。あまりにもはっきりとした現実感があるし、胡蝶の夢とは言えなさそうだ。そんなふうに疑いたくなるほど、今この身に起こっていることは現実離れしすぎている。
重力が無くなったみたいだ。……いや、ちょっと違う。浮いてると感じているけどそうでもない。ごく僅かだけど……ゆっくりと……下に落ちていってる。
静かに、静かに、染み込むように、大気の底の方へ、僕の体が沈んでいくのがわかる。
時が止まったかのように見える視界には、一面ガラス張りのビルの壁。整然と並ぶガラスの格子が、音もなくじわりじわりと空の方へ移っていくから、僕は自分が落ちているのだと理解できる。視線を壁の上に辿ると直ぐに屋上が見え、屋上は錆びかけた手すり柵に囲まれている。
柵の向こうには独り少女がいる。その綺麗な顔立ちにはとても似合わない必死の形相で、こちらに向けて手を延ばそうとしている。僕の左手も彼女の方にピンと延ばされていて、彼女のその手を取ろうとしているようにも思えるが、絶望的にその距離は遠く、むなしいほどにその距離は離れていくばかりだ。彼女は何かを叫んでいるように見えるけど、なぜかこの世界には音がなくて、その声すら僕に届くことはなかった。
僕は何をしている? 何をしていた? なぜ屋上の彼女に向けて手を伸ばしている? 彼女は誰だ? そして僕こそ一体誰なんだ?
思い出せない。わからない。どうしたらこんなことが起こるのか。一体何があった、何をした。経緯は全く覚えていない。
どうして僕は落ちているのだろう。今この直前のことすら思い出せない。ゆっくりと落ちている理由も見当がつかない。
こんな状況でも不思議と心は落ち着いている。それは頭が疑問だけで占められていて、感情に振り分ける余地がないからだろうか。ならばこの冷静な心のままに状況を観察して考えるしかない。
僕の体が描く放物線の軌跡は、どうやらこのビルの屋上から始まっている。どういった事情か、僕はビルの屋上から転落したようだ。僕の周りに大小の瓦礫が浮遊していることからみると、あの屋上で何らかの事故があって、その弾みで転落したのだろうか。あるいは、事故か事件から身を挺してあの美少女を庇った挙句、転落したのかもしれない。いずれにしても僕がどんな不幸に見舞われたかまでは想像できないし、僕自身が命懸けで誰かを守るような人間だったのか、女の子の前でかっこいいところを見せたかったのかとか、自分が誰でどんな人間だったのかも覚えていない。
状況証拠から過去に起きたことを推察する。そんな探偵の真似事は僕には向いていないみたいだ。だからこの後どうなるか、どうするべきかを考えよう。理由はいざ知らず、ゆっくりと落ちているのだから、このまま地上に降りていけば軟着陸できるだろう。さほど心配することもない。僕が落ち着いていられるのは、そんな安心感があるからなんだろう。強いて不安要素を考えると、今背中から落ちているから、着地するなら足からか、せめて正面から落ちたいな。宇宙飛行士が宇宙ステーションの中に浮かんで、腕を振り回して体の向き変えるのあったよなあ、あれどうやってたかなあ。そんなことを考えているうちに、屋上が少し遠ざかったことに気がついた。泣きそうな顔の屋上の君に「大丈夫だよ」と伝えておきたくて、届かない言葉の代わりににっこりと微笑んで見せた。
落ちるのがゆっくり過ぎて、地上に降り立つにはまだまだ時間がかかりそうだ。考えながら、自分の周りに浮遊している瓦礫を眺めていた。……あれ、何で瓦礫は落ちていかないんだ?
背景のビルの壁は僕の視界の上方向へじわじわ流れ去っていく。だからこそ僕は自分がゆっくり落ちているんだと自覚している。だけど瓦礫は同じように上へ流れるでもなく、下に落ちていくでもなく、僕との位置関係をほとんど変えないまま浮遊している。僕には瓦礫の位置はほとんど止まって見えていて、つまり瓦礫もゆっくり落ちているということになる。




