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うたうたい

作者: 鏡新

静かな都市だった。


音が失われてから、もう何年が経ったのか誰も正確には知らない。ニュースも広告も、駅のアナウンスも、すべてがテキストになり、歩道には“静かにしましょう”と刻まれたサインが立ち並ぶ。耳を澄ましても、聞こえてくるのは風の気配と、自分の心音だけだった。


ソラは、そんな都市の片隅で“記録係”として働いていた。役目は、都市に残された微かな音を収集し、データベースに登録すること。ほとんどは空振りだったけれど、まれに──とてもまれに──忘れられた音が都市の隙間から立ち上がることがあった。


その日、彼は古い路地裏の奥で、微かに“ぽろん”という音を聞いた。


驚いて録音機を取り出し、耳を澄ます。もう一度、“ぽろん”。それはギターのようでも、風鈴のようでもあった。


音の出どころを探して彼が入り込んだのは、誰も使っていないはずの廃屋だった。中は薄暗く、埃っぽかったが、その中央にぽつんと、ひとりの少女が座っていた。


髪は長く、淡い色のワンピースを着ていた。少女は不思議な形の楽器を手にしていて、ソラが驚いて立ちすくむのを気にする様子もなく、ただ静かに音を奏で続けていた。


「……君、ここで何してるの?」


ソラが声をかけると、少女は顔を上げた。彼女の目は、音を持たない都市では見たことがないような深さをたたえていた。


「聴いてるの。都市の声を」


「声なんて……もうどこにも残ってないよ」


「ううん、あるよ。深く、静かに眠ってるだけ。誰も気づかないだけで、音はまだ残ってる」


彼女はそう言うと、ソラの録音機に興味を示した。


「それ、貸してくれる?」


ソラは戸惑いながらも録音機を差し出す。少女は自分の楽器の音を、いくつか録音した。小さな旋律、短い断片、しかし確かにどこかから“呼ばれて”きたような音たち。


「わたし、ルナっていうの。君は?」


「ソラ……」


「ソラか。いい名前だね。空の音を聴けそう」


少女──ルナは、そう言って微笑んだ。


その笑顔を見たとき、ソラは都市の沈黙がほんの少しだけ、ほどけた気がした。


その夜、彼は録音機を何度も再生しながら眠った。ぽろん、ぽろんという音が、まるで彼の夢を編んでいくようだった。


次の日、ソラは朝早くに目を覚ました。


まるで、胸の中で新しい時計が動き始めたような感覚だった。ベッドから立ち上がると、昨日の録音をもう一度再生する。ルナの奏でたあの音は、夜の間に少しだけ色を変えていたように聴こえた。


ぽろろん──ぽろん。


音は変わらないはずなのに、心が変わると、世界の輪郭まで違って見える。


仕事を終えると、ソラは昨日と同じ坂道をたどった。廃屋の扉は静かに開いていた。中では、ルナが同じように楽器を弾いていた。今度は昨日より、少しだけ速いテンポの曲。


「来ると思った」


ルナはそう言って笑った。まるで、ソラの行動を予知していたかのように。


「その音楽、どうやって作ってるの?」


「耳で集めるの。歩いてるとね、誰かの残した音に出会えるんだよ。たとえば、落ち葉を踏む音とか、昔の電話の呼び出し音とか。そういうのを、少しずつ織りまぜて……」


「編むみたいに?」


「うん、音で布を編むような感じかな。耳の奥に残る小さな色を、音にしてあげるの」


ルナの言葉は不思議だった。でも、ソラにはその感覚が分かる気がした。自分が日々拾い集めていた“都市の記憶”と、ルナの“音の記憶”は、違う形で同じものを抱えていた。


「ここに、音がたくさんある場所があるんだ」


ルナは立ち上がると、手招きしてソラを導いた。二人は、静かな廃ビルの非常階段を降り、地下へと向かった。灯りのない長い通路。その奥に、小さな広場のような場所が開けていた。


そこには古いピアノがあった。傷だらけで、埃をかぶっているけれど、まだかろうじて音が出る。


「このピアノ、わたしのお気に入り。夜にだけ、こっそり鳴らしてるの」


ルナが椅子に座り、鍵盤を軽く叩いた。


ぽん、ぽん、ぽろろん。


音は弱々しく、でも不思議と温かかった。まるで、誰かの忘れられた夢の残響だった。


ソラはそっと、床に腰を下ろした。ルナの演奏に耳を傾けながら、自分の中の静寂が、別の形へ変わっていくのを感じていた。


「音ってさ、生きてるのかもしれないね」


ポツリと呟くと、ルナは笑って頷いた。


「うん。音は、記憶と一緒に眠ってる。でも時々、誰かが呼びかけてくれるのを待ってるの」


地下の空間に響く小さな旋律。その音のひとつひとつが、都市の中に沈んだ誰かの時間をそっと揺り起こしているようだった。


この夜を境に、ソラは毎日ルナの元を訪れるようになった。


それは秘密のようで、儀式のようで、そして何よりも生きていると感じられる時間だった。


彼の耳が、都市の“沈黙”の奥にある“声”を聴き取るようになっていったのは、それからまもなくのことだった。


空が赤みを帯びるころ、都市は一度だけ深く息を吐くように見えた。ルナとソラは、いつもの地下の広間で顔を合わせていた。広場の隅に置かれた古いピアノに、ルナがそっと腰をおろす。


けれど、今夜はいつもと違っていた。


「ねえ、ソラ。きょうは、あなたが音を出してみて」


彼女はそう言って、そっと鍵盤の上から手を離した。ソラは一瞬ためらった。けれど、ルナの視線は柔らかく、そして真剣だった。


「でも、ぼくには……」


「あるよ。あなたにも、あなたの中に眠ってる音がある」


ソラは深く息を吸い、椅子に座った。手のひらが震えていた。生まれて初めて鍵盤に触れるときの、あの漠然とした怖さが、なぜか懐かしくすらあった。


ポン──


白い鍵のひとつが沈み、そこから少しだけ濁った音があふれた。けれど、それは思っていたよりずっとやさしい音だった。


「……音って、自分の中から出てくるものだったんだね」


「うん。最初はぎこちなくてもいいの。音はね、正しさよりも、誠実さを知ってるから」


ルナの言葉に背中を押されるように、ソラはもう一音、また一音と鍵盤に指を落としていった。まるで、長く閉じていた引き出しをそっと開けるように。


そして、不意に、かつて聴いた誰かの笑い声がよみがえった。名前も顔も思い出せない誰か。けれど、ピアノの上でその記憶がかすかに震えていた。


都市は沈黙の中で、誰かの時間を飲み込み続けている。それでも、その深い底から、こうして一つ一つの音をすくいあげていけるのなら──


彼の演奏は、まだ不格好だった。だけどそこには確かな感情があった。音が震え、息づいていた。


演奏が終わると、ルナは何も言わずに小さく拍手した。その音が地下の空間にやわらかく跳ね返る。


「……あなたの音、少し泣いてたね。でも、ちゃんと届いてたよ」


「自分で出した音が、自分に届くなんて思わなかった」


ソラは静かに微笑んだ。それは、どこか安心したような、解けたような表情だった。


「明日、連れて行きたい場所があるんだ」


ルナがぽつりと呟いた。


「そこは、都市がまだ言葉を話していた頃の“音の遺跡”。だれにも見つけられない場所。けれど、あなたにはきっと聞こえるはず」


「音の遺跡……?」


「うん。眠ってる音が、ずっとそこに残されてるの。だから、明日、早く来て。朝日が昇るころにしか開かない扉があるから」


ルナはそう言って、鞄から小さな銀色の装置を取り出した。それは古い録音機のような形をしていた。小さなダイヤルがついていて、まるでオルゴールのように見える。


「これ、あげる。明日までに、自分の音をひとつだけ録ってきて。あなたの大事な音。なにかひとつでいいから」


ソラはその装置を受け取った。手のひらの中で、かすかに振動しているような気がした。


「わかった。……録ってみるよ」


その夜、帰り道の途中で、彼は足を止めた。人工の風が吹く高架下。自動清掃機が淡々と水を撒いていた。そのなかで、遠くから聞こえてくる自転車のベルの音。誰かが歌っているような風の音。


けれど、彼が録音機を動かしたのは、ふと振り返った瞬間だった。誰もいないはずの背後に、微かに響いた足音。それはもしかすると、自分のものではないかもしれなかった。


「……これが、ぼくの音かもしれない」


彼は録音機のスイッチを入れ、そっと胸元に押しあてた。機械は静かに回転を始め、柔らかな光を灯す。


都市は静かだった。けれど、静けさの奥で、確かに彼の“音”は生まれていた。


そして、彼は次の朝を、初めて待ち遠しいと感じながら眠りについた。


都市の空は相変わらず灰色だったけれど、ソラの心には静かな光が差していた。彼はいつものように朝の仕事を済ませると、午後には足早にルナの元へ向かった。


廃屋の扉を開けると、ルナはもういなかった。代わりに、小さな紙片が床に落ちていた。拾い上げると、そこにはこう書かれていた。


――今日は別の場所で音を見つけたの。来て。


地図のような線と、見覚えのあるランドマークがいくつか描かれている。それを頼りに、ソラは都市の奥深くへと歩いていった。


誰も通らない高架下、落書きで埋め尽くされたトンネル、工事中で封鎖された歩道橋。そのすべてが、ルナの描いた線とぴたりと重なっていた。そして、古い水辺にたどり着いた。


かつては公園の一部だったらしい小さな池。その隣に、ルナはいた。


彼女はいつものように楽器を抱え、池の縁に腰をかけていた。水面には風が波紋を描き、時おり鳥の羽ばたきのような音が響いた。思えば、それは都市で初めて聞く“自然の音”だった。


「音が、生き返ってる……?」


ソラが声をかけると、ルナは軽く頷いた。


「ねえ、ソラ。音って消えたんじゃないんだよ。私たちが“聞かなくなった”だけなんだ」


「どういう意味?」


「誰かがちゃんと聴こうとすれば、音は必ず戻ってくる。たとえそれがどんなに小さくても、忘れられていても。ねえ、これ、聞いてみて」


ルナは小さな装置を取り出した。録音機のようなものだが、スピーカーが付いていて、再生される音がただの記録ではなく“体温”を持っているように感じられた。


そこから流れてきたのは、昨日ルナと一緒に録音したピアノの旋律だった。


けれど、それは変わっていた。都市の騒音、風の音、人の足音、何気ない日常の残響がピアノの音に重ねられ、まるで都市が“返事”をしているようだった。


「わたし、ね。この音を誰かに届けたかったの。忘れられた都市の声を、誰かに……」


ルナの声は震えていた。


「だけど、ひとりじゃ無理だった。だから、ソラが来てくれて、すごく嬉しかった」


ソラは黙って頷いた。彼もまた、長く静かな日々の中で“誰かの音”を探し続けていたのだ。その“誰か”がルナだったと、今ははっきりわかる。


そのとき、不意に遠くで鐘のような音が鳴った。都市ではありえないはずの音。それは、どこか懐かしく、同時に何かの始まりを告げるようでもあった。


「この場所、誰かがずっと昔に“音楽”をやってたんだよ。祭りとか、結婚式とか……でもいつの間にか、忘れられた」


ルナはそう言って、ふっと微笑んだ。


「ソラはさ、これからも音を集める?」


「……うん。だけど、今は君と一緒に集めたい」


その言葉に、ルナはほんの少し驚いたような顔をした後、目を細めた。


「わたしね、音の地図を作ってるの。都市の中に眠ってる音の道しるべ。これが最後のひとつだったの」


彼女は古びたスケッチブックを広げた。そこにはたくさんの“音の記憶”が記されていた。線ではなく、色でもなく、微細な言葉と模様、そして音符のような記号たち。


「これを渡す。わたしの記憶を、君に」


「どうして……?」


「次は、君が誰かの“音”になる番だから」


そう言うと、ルナは立ち上がり、ソラの録音機をそっと抱きしめた。そして、夕暮れの池の向こうへ、風に溶けるように歩き出した。


ソラは呼び止めなかった。彼女が何を願って、何を探してきたのか、ようやく自分にも分かっていたから。


その夜、ソラは録音機に最後の音を残した。


ぽろん、ぽろん。


静かな旋律のなかに、都市の声が確かに宿っていた。


そして彼は、都市に新しい“うた”を捧げる人になった。


都市の朝は、かつてと同じように始まる。


濃い灰色の空。まだ明けきらない時間帯に、整然とした足音と車の走行音が、冷たい空気のなかで反響する。工場のサイレン、点滅する信号のリズム、スピーカーから流れる機械的なアナウンス。


それでも、耳を澄ませれば――ほんの少しだけ、違っていた。


ある交差点で、通勤途中の人がふと足を止める。風に混じって流れてくる音楽のようなもの。それは明確な旋律ではなく、都市の中の音が織りなす微細なハーモニーだった。鉄骨のきしむ音、ベンチの軋む音、遠くの自転車のベル――それらがなぜか、ひとつの“歌”に聞こえるのだった。


ソラは今、小さな場所で働いている。


市の文化施設の片隅。もともとは空きスペースだった部屋を使って、彼は「記憶の音」を集めるプロジェクトを始めた。正式な予算が出ているわけではない。けれど、誰かが「ここでなにかが起きている」と気づき、少しずつ人が集まりはじめていた。


彼の前に座った老婦人が言った。


「若い頃の蓄音機の音、覚えてるかって孫に聞かれてね。忘れたと思ってたけど……不思議と、いまこの部屋で聞いてたら、思い出したのよ。針が落ちるときのカシャって音」


別の若い子は、友人のスマートフォンから流れてきた昔のゲーム音楽の断片を耳にしたという。ソラはそれを録音し、周波数を調整してミックスし、残響をつけた。すると、まるで“その頃の空気”までもが再現されたような音になった。


人々が思い出した音は、記憶というより“肌に残る温度”だった。


ソラはあれからルナに会っていない。


連絡先も聞いていなかったし、約束を交わしたわけでもなかった。ただ、彼女が残した“音の地図”だけが、彼の手元にあった。


その地図の端には、小さな文字でこう書かれていた。


「都市は無声じゃない。私たちが、それを歌わせていなかっただけ」


ソラは時々、その地図を見ながら新しい“うた”を作った。楽器の音は使わない。すべて都市の中の音だけで構成する。ビルの間に挟まった風の音や、誰かの笑い声、トンネルの残響、鉄のきしみ。


それらを編集し、ひとつの静かな音楽として仕立てる。


彼の作るその“都市のうた”は、ネットを通じて少しずつ広まっていった。目立つヒットにはならなかったが、どこかの誰かが、それを眠る前に聞き、通勤の電車で再生し、ふと涙をこぼすことがある、という程度の波紋だった。


でも、それでよかった。


なぜならその一滴の波紋が、かつて自分がルナの音に感じた温度と、まったく同じものだったからだ。


ある日。


ソラは、古いテープが送られてきたという連絡を受けた。差出人は不明。宛名は「都市の声を聴く人へ」とだけ。


再生してみると、それはあの日のピアノの音だった。


ルナが地下で弾いた、あのぼろぼろのピアノ。その旋律に重なるように、かすかな足音と、誰かが歌っているような声が混じっていた。


それはノイズとも、歌とも言えない不思議な“うた”だった。


ソラはヘッドホンを外すと、しばらく静かに天井を見上げた。どこかでルナが、まだ音を集めている。都市のどこかで。あるいは、別の都市で。


彼は笑った。


音は、生きている。


音は、記憶を超えて、誰かの未来になる。


それからしばらくして、ソラのプロジェクトは正式な文化振興事業として採択された。「都市の記憶と音環境に関する研究」と題されたそれは、堅苦しいタイトルに反して、参加者の多くはただの市民であり、音の素人だった。


子供が拾った雨の音、老人が録った古時計の音、誰かが偶然耳にした笑い声。


それらが、都市の“日常”という譜面に書きこまれていった。


いつしか、人々の間でこんな言葉が交わされるようになった。


「今日、いい音に出会えた?」


それは、天気を尋ねるような、ありふれた問いになった。


都市は、ほんの少しだけ変わった。


でもその変化は、きっと都市にとって大きな“声変わり”だった。


そしてある日のこと。


ソラは、小さなライブスペースで、ある演奏を聴いた。


ステージには一人の女性。顔は陰になっていてよく見えなかったが、最初の音が鳴った瞬間、ソラはその正体を知った。


それは、ルナの音だった。


まぎれもなく、あの夜に聴いた音色。少しだけ変化していたけれど、根底には同じ“記憶のうた”が流れていた。


女性は最後に、短くこう言った。


「音は人の中で生きるもの。もし、誰かの中で生きているなら、それはもう消えた音じゃない」


拍手が鳴り響く中、ソラは目を閉じた。


遠くから、都市の声が聞こえる。


それは雑音のようでいて、どこか旋律を持っていた。


誰かの足音、ドアの開く音、電車のモーター音、風が高架をすり抜ける音。


そのすべてが、ひとつの“歌”になって、彼の胸の奥で静かに鳴っていた。


終わりのない、都市のうた。

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