第十二話:せめてもの餞を
「───私ね、ずっと、ちょっとだけ、トロちゃんが羨ましいって、思ってた。」
コロちゃんがソファーの上で三角座りをする。
「うらやましい、って、どこが?」
今までの流れと、切り口が違うな。
わたしは首を傾げつつ、右目に当てていた保冷剤を左目に移した。
「トロちゃんは自分のこと、特に自分の体のこと、不都合で嫌いだって、よく言うけど。
でもそれは、私に言わせれば、喉から手が出るほど欲しいものだったから。」
「………。」
「だから、痴漢されたり、付き纏われたりが、酷いことで、嫌なことだっていうのは分かるけど。
性的な目で見られるって意味では、むしろ誇るべきっていうか、人から羨ましがられるものなんだから、もっと堂々としていいのにって。」
コロちゃんの声がみるみる萎んでいき、コロちゃんの肩がみるみる狭くなっていく。
「こっそり、ずっと、思ってた。」
膝を抱えたコロちゃんはとうとう、わたしと目も合わせなくなった。
「自分も女になって、やっと分かった。
性的に見られたり、揶揄されたりするのって、悪意があるかどうかじゃなく、全部すごく嫌だ。」
「………。」
「まるで、それ以外に何もないって言われてるみたいで、そう思い込まされるみたいで。
ホモみたいとか、女男って嘲笑われてた頃よりずっと、精神的に、くるものがある。」
まるでバリアを張るように、コロちゃんは抱えた膝に顔を埋めた。
わたしは保冷剤を手放し、隙間からでもコロちゃんの顔を覗き込もうとした。
目の腫れが引いていないせいだろうか。
視界がぼやけて、なんだか、コロちゃんが蜃気楼みたいだ。
「だから、ごめんね。
大変だねって口だけ言って、羨ましいとか、実は思ってて。」
コロちゃんだって、強くないんだ。
強い人なんて、この世のどこにもいないんだ。
ただ、方法を知っているか。
知らなければ立ち回れずに泣くハメになり、知っていれば泣いても自力で立ち直れる。
ただ、強く見えるか弱く見えるかだけ。
生まれながらの強者も弱者も、どこにもいないんだ。
「愚かで、ごめんね。」
わたしにとっての方法は、コロちゃんの存在そのものだった。
どんなに辛いことがあっても、コロちゃんに会えば帳消しにできた。
聞いてくれて、触ってくれて、怒って笑って泣いてくれて。
なんてことないご飯を一緒に食べてくれて、朝は来るって一緒に眠ってくれる。
だから、わたしは耐えられた。
世の中捨てたもんじゃないって、コロちゃんが教えてくれたから。
「コロちゃん。」
「………。」
「ごめん。抱っこするね。」
「え?」
コロちゃんが反応する前に、わたしはコロちゃんを横から抱きしめた。
わたしの短い腕では、とても抱えきれないけれど。
それでも包み込むように、全身と全霊を使って抱きしめた。
「コロちゃんは愚かじゃないよ。」
「トロちゃん?」
「言いかた変えると、わたしも愚かだよ。
大体みんな、人間は愚かだよ。」
コロちゃんの頭に顎をのせる。
シャンプーと、汗と、皮脂の混じった匂い。
男性だった頃とそんなに変わらない、コロちゃんの匂い。
「コロちゃんの抱えてる辛いが、どれだけ辛いかは、わたしには分からないけど。
どういう意味の辛いなのかは、わたしにも分かるよ。
心臓のあたり、引き裂かれるみたいで、痛いのが分かるよ。」
「………。」
「その痛いのを、わたしはずっと、コロちゃんに癒してもらってた。
コロちゃんがいてくれたおかげで、痛いのも辛いのも過去になったし、経験にできた。」
「そうなの?」
「そうなの。」
わたしの回した腕に、コロちゃんの手がそっと触れる。
懐かしい。
匂いも、温もりも。
得も言われぬこの空気に、わたしはどれほど救われてきたか。
「だからわたしも、コロちゃんにとってのそれになりたい。
コロちゃんのそれには及ばなくても、ちょっとでもコロちゃんを癒せる何かになりたい。」
先のないわたしでは、コロちゃんの方法にはなってあげられない。
でも、"捨てたもんじゃない"の端くれになら、今からでもきっとなれる。
怖い人がいれば優しい人もいて、悲しいことがあれば楽しいこともあるってこと。
コロちゃんが、わたしに教えてくれた。
今度はわたしが、コロちゃんに返したい。
「言って、なんでも。
コロちゃんのために、わたしに出来ることなら、わたしはなんでもするよ。
最後くらい、なんでもさせてよ。」
たとえ、二度と会えないとしても。
あなたとの思い出が、今のわたしを支えてくれるように。
わたしの足掻きが、あなたのこれからへの、餞になりますように。
「本当に、なんでもいいの?」
「いいよ。痛いこと以外なら、だけど。」
「そんなことしないよ。」
「ならいいよ。
ある?わたしにしてほしいこと。」
「……本当に、なんでもいいんだよね?」
「どうぞ。」
「じゃあ───」
コロちゃんが顔を上げる。
鼻と鼻がくっつきそうな至近距離で、わたしに臆面もなく言う。
「一緒にお風呂入ってくれる?」
わたしの喉から、死にかけの蚊みたいな音が鳴った。




