99 マナを信じる事
マナと電話する数時間前。
松永はベッドに横になったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
「……俺は、何やってるんだ……クソ……」
小さく吐き捨てるように呟く。
脳裏に浮かぶのは、昨夜の出来事だった。
――仕事が終わり、
いつも通り、小林ファームへ牛乳の仕入れに向かい、
暗くなりかけた山道を車で走っていたとき。
そのとき──
視界の端を、茶色い影が横切った。
(鹿──!?)
「──っ!」
反射的にハンドルを切る。
タイヤが砂利を踏み、甲高い音を立てて滑った。
車体がふわりと浮くように横へ流れ、
次の瞬間、激しい衝撃が走る。
――ガンッ!
ガードレールにぶつかり、
エアバッグが爆発するように開いた。
視界が白く弾ける。
どれほど時間が経ったのか。
ぼんやりと意識が戻ったとき、
松永は、自分の左手を見て息を呑んだ。
あり得ない方向に、曲がっている。
「……っ……」
声にならない声が漏れる。
「ぐ……は……」
痛みと吐き気が、一気に押し寄せた。
「……スマホ……」
必死に視線を動かす。
月明かりを頼りに探すと、少し離れた場所に、砕けたスマホが転がっていた。
――完全に壊れている。
よろめきながら車を降り、周囲を確かめた瞬間、背筋が凍る。
わずか一メートル先は、暗闇に落ち込む崖だった。
「……危なかった……」
もし、もう少しズレていたら――
そう考えただけで、喉が鳴った。
その後、たまたま通りかかった車が止まり、
救急車を呼んでくれた。
サイレンの音を聞いたところで、張りつめていた緊張が切れたのか……
松永の意識は、再び闇に沈んだ。
――目を覚ましたのは、朝方だった。
白い天井。
病室だと理解するまでに、少し時間がかかった。
しばらくして、看護師に声をかけられた。
「ご家族の方や、ご連絡できる方はいらっしゃいますか?」
一瞬マナの顔が浮かんだが……。
(マナの性格を考えると……連絡が行けば病院に来てしまうかもしれない……)
松永は冷静に答えた。
「……いません」
だが、数秒後、ぽつりと付け加える。
「……身元引受人の店のオーナーなら……」
携帯番号と名前を告げる。
時計を確認する。
朝の七時半。
(マナ……店に着いたか……本当にすまない……)
松永は、ぎゅっと目を閉じる。
(……大会は明日……。不安と緊張の中で、余裕なんてないはずだ……)
そんなときに、
自分の事故なんて――
邪魔していいはずがない。
看護師から近田さんへ連絡が行き、看護師が携帯電話を耳元まで持って話す事が出来た。
「松永君!? 大丈夫か?」
「……大丈夫です」
「お店……すみません」
「大丈夫!今からお店には電話するからね」
「今から病室向かおうか?」
「いえ……大丈夫です」
「……それより瀬川さんが明日東京に大会へ行くので……」
「俺の代わりに会場にいてくれませんか?」
「わかった!妻が明日会場に向うようにするから……松永君は自分の身体を第一にするんだよ」
「ありがとうございます」
看護師はホッとした表情で携帯電話の通話ボタンを切った。
「ありがとうございます」
軽く会釈し、看護師は病室から出ていった。
(近田さん御夫婦にも迷惑をかけてしまった……)
松永は顔を覆った。
──
夕方。
ずっとマナの顔が離れなかった。
本当にこのまま、連絡無しで良いのか……。
明日マナは一人で東京で戦いに行くのに……。
気づけば松永は、院内を歩き回り、公衆電話を探していた。
――情けないほどに。
(今俺に出来る事は……)
幸いな事に、松葉杖の使い方は教わりトイレは自分で行けるまでは動けていた。
松永杖を脇に抱え、右手で公衆電話の番号を打つにも時間がかかった。
(クソ……こんなに不自由とは……)
マナと話している間も、励まそうと強気で振る舞う事が出来た。
(今の俺にはマナが大会に前向きに行けるように励ますことしかできない……)
受話器を置いたあとも、
しばらく松永は、その場から動けなかった。
「……マナ……」
小さく、名前を呼ぶ。
『大丈夫だ』
さっきは、そう言えた。
けれど――
視線を落とすと、 ギプスに固定された左手と、包帯の巻かれた足が目に入る。
病室に向う為、歩き出す松永。
ずきり、と鈍い痛みが走った。
(……俺……本当に……)
また、現場に戻れるのか。
ケーキを作れるのか。
不安が、胸に押し寄せる。
「……情けねぇな……」
自嘲気味に笑い、息を吐く。
それでも。
――マナは明日東京で一人で戦う。
俺のいない場所で。
「……負けてられねぇよな……」
松永は、そっと拳を握った。
『必ず、戻って――また、隣に立つ』
誰に聞かせるでもなく、 心の中で、静かに誓う。
「……だから……行ってこい、マナ」
夜の病室で、 松永は、ひとり、前を向いた。
続く




