92 トラウマ R15
いよいよ大会まで、あと二週間。
小休憩のコーヒーを飲みながら松永は思い出したように話す。
「確か今日の夜、大会の審査員発表されるよな……」
「洋菓子技術協会の大会だからな……まぁまぁ有名なシェフが担当するんだろ」
「……有名なシェフ」
「そうですね……どんな方が審査員か気になります」
マナは嫌な予感がしたが、いつもと変わらず仕込みを続けた。
──
仕事終わり。19時。
「審査員発表……」
マナが全日本洋菓子技術協会の掲示板を見つめ、小さく名前を読み上げた。
「テルミ・タキガワ……滝川シェフ……
ホテル横須賀……安藤シェフ……」
そして。
「雅ホテル……吉村シェフ」
ピタッ、とマナの呼吸が止まった。
手が、細かく震え始める。
───
かつてマナが就職していた雅ホテル。
吉川シェフの怒鳴り声が鮮明に思い出される。
『こっち来い!!』
胸元をつかまれ、ずるずるとゴミ捨て場へ引きずられた。
ゴミ袋の匂い。雨。泥。
冷たさより、怒鳴り声の方が怖かった。
『この役立たずが!!』
───
「マナ!?」
松永の声が届いた瞬間、マナの膝が崩れたように座り込んだ。
「こわい……です……
こわ……い……」
胸を押さえて荒い呼吸を繰り返し、今にも倒れそうだ。
「マナ!」
松永は迷う間もなく、マナを強く抱き寄せた。
「大丈夫だ……大丈夫だから」
「まつ……ながさん……」
「ゆっくり息しろ。ほら……俺がいる」
マナは震えながら、過去をこぼすように言った。
「怒鳴られて……胸ぐら掴まれて……
ゴミ捨て場に引きずられて……
その時の怖さ思い出すと……身体が……震えて……」
松永の腕に力が入る。
(……クソ野郎が)
(まだ……そんな奴がこの業界に……)
初めて出会った時、笑えてなかったマナ。
腕にあった火傷の跡。
全部が線で繋がる。
(こんな細い身体で……よく耐えたな……)
「そのシェフは、もうマナの世界にはいない。
今は俺がいる。
……大丈夫だ」
その言葉を合図にしたように、マナの涙が堰を切った。
「松永さん……っ」
───
しばらくして、松永は温かいコーヒーを手渡した。
「少し、落ち着いたか?」
「……はい。でも……すみません。
雅ホテルのこと、乗り越えたつもりだったのに……」
マナは自分の肘をぎゅっと握る。
「怒鳴られたり、胸ぐら掴まれた時の怖さ、思い出すと……
どうしても、体が震えちゃって……」
「……」
松永は静かに言った。
「俺の時代も、ひどいのはあった。
蹴られたり、道具投げられたり……」
視線をマナに向ける。
「だから俺は、自分がされて嫌だったことは、絶対にしない。
でも……俺より上の世代の中には、
『自分がされたから』って理由で同じことを繰り返すシェフもいる」
苦い表情で続けた。
「その結果、十年続けれるパティシエが百人中一人になった。
……もちろん、パワハラだけが原因じゃないが」
マナは弱く微笑んだ。
「でも……ケーキ作りは、好きです」
「そっか。
……それだけで、十分だ」
松永は少しだけ声を柔らかくした。
「怖さは抑えなくていい。
怖いって言っていい。俺に」
「松永さんは、本当に優しいですよね……」
マナは胸の奥に芽生えた感情を、そっと押し込むように言う。
「……ただの従業員なのに、迷惑かけてすみません」
松永の眉がわずかに動いた。
「ただの従業員のわけないだろ」
「えっ……?」
松永は、マナをまっすぐに見た。
胸の奥から、どうしてもこぼれてしまう言葉があった。
「……マナだからだよ」
マナの目がわずかに揺れる。
松永はすぐに拳を握り、逸らした。
(ダメだ……今は。
マナは大会がある。
俺の気持ちなんて混ぜちゃいけない)
「いや……なんでもない」
立ち上がり、コーヒーのカップを片付ける。
「もう一杯淹れてくる」
背中を向けたまま松永は自分に言い聞かせた。
(もし付き合えれば、俺が支えられるのか?
でも……断られたら大会に影響が出る……)
(……大会が終わったら)
(その時こそ、全部伝える)
続く
R15 ※パワハラシーンがあります




