6 新しいスタート
翌朝、マナは目覚ましが鳴る前に目を開けた。
外はまだ薄暗く、部屋には冷たい朝の空気が漂っている。
そっと押し入れを開け、奥にしまい込んでいた紙袋を取り出す。
中には、畳んでしまわれていた白衣と黒ズボン、コックシューズ。
その一つひとつを、マナは丁寧に袋に詰めた。
鏡の前に立ち、化粧は眉だけ。
整髪剤は使わず、香りのないヘアクリームで軽くまとめる。
長い髪はくるくるとねじって、後ろで団子に。
爪も短く切り揃え、指先をそっと撫でて確認する。
(ちゃんと清潔に……ちゃんと動けるように)
それは、パティシエとして現場に立つ日の、かつての支度の手順と同じだった。
でも今は、自分の意思で選んだ今日だった。
玄関で靴を履くマナを、母・里美が見つめていた。
表情はうれしそうで、どこか不安そうでもある。
───
昨夜のマナは、まるで空気まで明るくするような声で言った。
「お母さーん、教えてもらったお店すっごく美味しかった! それでね、シェフの松永さんっていう人、すっごく優しくて……
“ここで働かないか?”って言ってくれて……これって運命だよね!」
夢を見つけた人のようなその目に、
里美は思わず「そうなの、よかったわね」と笑顔で返した。
だけど心の奥には、拭いきれない不安もあった。
マナが第一希望のホテルに受かったあの日。
里美は、本当に嬉しかった。自分のことのように誇らしかった。
でも——
その11カ月後、ボロボロになって帰ってきたマナの姿が、今も胸に残っている。
(また、あんなふうに傷つくんじゃないか……
松永さんって、ほんとうに大丈夫な人なの?)
心配の言葉が、喉元までこみあげたけれど
「明日からに備えて、今日はごはん食べて早く寝なさい」
「はーい!」
───
一晩たって、気持ちが落ち着けば、
「やっぱりもう少し考えたい」って言い出すかもしれない——
そう思っていたのに、
朝のマナは、ここ最近でいちばん生き生きとしていた。
支度をする手も、顔も、晴れやかだった。
(……ほんとうに、ケーキを作るのが好きなのね)
(なら……今は、応援してあげよう)
「マナ……いってらっしゃい」
「うん、行ってきまーす!」
玄関の扉がカタンと閉まる。
その音が、少しさみしくも、あたたかかった。
里美はしばらく動けず、
玄関の方をじっと見つめた。
「……頑張ってね、マナ」
その声は、自分に言い聞かせるように静かだった。
次回へ続く