4 人生の師匠松永との出会い
桜が咲いていた。
風にのって、花びらがゆっくりと舞っている。
(こんなに外って綺麗だったんだ……)
ホテルを辞めてからというもの、
空の色も、道端の草花さえも、ちゃんと見る余裕がなかった。
少しだけ、肩の力が抜けたような気がした。
向かったのは、小さなケーキ屋さん。
名前は——「パティスリーマツナガ」
マナの自宅から車でおよそ20分。
隣町の住宅地から少し離れた、静かな場所にある。
イートイン席は3つだけ。
噂によると、シェフひとりでケーキを手がけているらしい。
店に着くと、まず目を引いたのは広めの駐輪スペースと、
丁寧に整えられた植栽。
ラベンダー、ミント、ローズマリー……
香り豊かなハーブに混じって、オリーブやりんごの木もゆれている。
建物は、白い塗り壁と暖色の洋瓦が印象的な洋風の造り。
そして——ドアに手をかける前から、
焼きたての焼き菓子の砂糖の甘い香りが、風にのってふんわりと鼻をくすぐった。
(この香り、ひさしぶり……)
ケーキ屋さんの匂い。
マナの心が、すこしほどけていくようだった。
───
店の扉を引くと、
カラカラ……と真鍮の鈴がやさしく鳴った。
「いらっしゃいませ」
厨房の奥から、ひとりの男性が現れた。
白衣姿がよく似合う、静かな雰囲気をまとっている。
きりっとした目鼻立ちに、すっと通った鼻筋。
でも、目元は驚くほどやわらかくて――
そのまなざしに、思わず息をのんだ。
見つめられたわけでもないのに、胸の奥がきゅっと鳴った。
ただそこに立っているだけなのに、凛としていて、
まるで映画のワンシーンを切り取ったみたいだった。
(……この人が、シェフ?)
声をかけることも忘れてしまって、
気づけばただ、彼を見つめていた。
心臓の音が少しずつ速くなる。
それが何を意味しているのか、自分でもまだわからなかった。
ショーケースには、苺のショートケーキがひとつだけ。
夕方だったから、もう焼き菓子もほとんど売れてしまったようだった。
「お持ち帰りですか?」
「え……えっと、店内で食べます。苺のショートケーキください」
「かしこまりました。ドリンクはご利用になりますか?」
「ホットコーヒーでお願いします」
「お好きな席へどうぞ」
案内された店内は、飾りすぎず、隅々まで手入れが行き届いていた。
外から見えていたハーブや木々と同じように、小さなガラス窓から見えた厨房は中まで静かにきれいだった。
数分後、
白衣のシェフが、ケーキとコーヒーを運んできた。
白い陶器の皿には、ベリーのソースが螺旋状に描かれていて、
その中心に、きれいな苺のショートケーキがのっていた。
「ゆっくりお過ごしください」
それだけ言って、シェフはまた静かに厨房へ戻っていった。
ケーキは、驚くほどシンプルだった。
上にはクリームの絞り、苺ひとつ、チャービルが少し。
中もスポンジと苺とクリームが2層だけ。
(ホテルの頃なら、チョコ細工のひとつもないと“足りない”って言われたかもしれないな……)
でも、そう思って見ていたくせに、
ひとくち食べた瞬間——息が止まった。
……なにこれ、どうして、こんなに——。
口の中でほどけていくスポンジは、きめ細かくて、でもしっかりしてる。
生クリームは軽くてコクがあって、苺の酸味がふんわりと混ざって。
どこか、懐かしくて、なぜだか胸の奥がやわらかくなる味。
「あ……れ……?」
ぽろ、と涙がこぼれていた。
ホテルで怒鳴られていた日々、
怒鳴られなかった日にも怯えていた自分。
実家に戻っても役に立たなきゃって空回りして、
“もうケーキなんて嫌いになるかも”って、
そんなふうに思ったこともあったのに。
今、このケーキを食べて、
はじめて——
心から「ほっとする」という感覚を思い出した。
ゆっくり、ゆっくりひとくちずつ。
涙が止まらなくて、そのまま口に運び続けた。
——と、
「どうした?君、大丈夫か?」
厨房からあの男性が慌てて顔を出した。
思わず涙をこすりながらマナは、
必死に笑顔を作ったつもりだった。
次回へ続く




