26 重なる手
アスファルトがじりじりと焼け、遠くの景色が陽炎に揺れる。
蝉の鳴き声が耳を刺し、動くたびに汗が肌に張り付く。
8月に入り
ショーケースはマンゴータルト、パッションフルーツのムースが新しく追加された。
ケーキ屋は閑散期に入り、仕込みの量も落ち着き、仕事が終わる時間は、16時頃——
マナは、この期間を利用してナッペの技術を身につけたかった。
ナッペとは、生クリームを均一に塗り仕上げる技術で難しい。
仕事が終わると、ブリキ製のスポンジ型にショートニングを塗り、ナッペの練習を始める。
しかし、何日も繰り返しても、思うように仕上がらない。
側面がまっすぐにならず、クリームが偏って台形になってしまう——。
───
包丁を研いでいた松永に、マナは相談する。
「松永さん、何故か側面がまっすぐにならなくて、台形になってしまうんです……。どこを直したらいいですかね……?」
「俺、教えるわ」
「もう一度、最初から頼む」
言葉は短くても、目は真剣だった。
マナはうなずき、再びパレットに指を添える。
そのとき——
真正面から、松永の視線が向けられた。
静かで、鋭い。
でも決して責めるでもなく、ただ、真っすぐに見ていた。
(……こんなふうに、正面から見られたの……初めてかも)
心臓が、ひとつ、跳ねた。
マナは、再び慎重にパレットを動かす。
だが、やはり側面が綺麗に仕上がらない
しゅん……と落ち込むマナ。
「あぁ……なるほど……」
真剣な顔から、急に視線をそらす
「しかしな……」
額に手を寄せて黙る
(どう……教えればいいんだ……パレットの持ち方から直させないと……人差し指を内側に8ミリ、中指を側面3ミリとか寄せろ……とかか? 無理だろ……)
(適当に教えると……変なクセついて、手を痛める原因になるしな……)
(上から手を添えるか?)
(いや……セクハラとか、パワハラとか思われても嫌だな……)
(……本人に聞くか、嫌なら言うだろ)
松永は、静かにマナの横へ立つ
「……言いにくいんだが」
「その……言葉で説明するのが難しくて」
そう話す松永の表情は戸惑っていた
「上から手を添えて、直接パレットの持ち方直していいか?」
「……嫌ならやめておく」
驚いた顔をするマナ
「はい……大丈夫です」
「……」
真剣な表情に戻る
「じゃ……失礼」
その言葉とともに、マナの手の上に松永の手が重なる。 包み込むような温もり——
(……松永さんの手大きい……すごくしっかりしてる…)
指は長く、関節はしなやか。
でも手のひらにはマメがあって、厚みがあり、 使い込まれた道具みたいに、ぶれない力があった。
「最初に持ち方直す」
低い声が、耳元で響く。
その瞬間、マナは息を詰める。
(すごく近い……)
松永の人差し指が、マナの指の上へそっと重なり、グッと外側から中心へ移動させる。
(力強い指先……)
「人差し指はパレットの中心」
「親指と中指は、側面添えるだけ」
松永の人差し指がマナの人差し指を上から優しくトントンとする
(──っ!)
「この人差し指がパレットをちゃんと支えきれていない……」
「だからぶれて下にクリームがたまる。パレットの先端まで、しっかりと意識して回転台、回して」
(パレットの先端まで意識……? こうかな?)
マナはグッと力を入れようとする。
「力抜いて」
「……パレットの先まで意識するけど、そんなに力入れなくていい」
「その力の入れ方だと、手首に負荷がかかって腱鞘炎になる」
(すぐバレる……)
頬がじんわりと熱を持つ
「もっと力抜いて、中指は添えるだけでいい」
(こうかな……?)
言われた通りにすると、指先にパレットの感覚がしっかりと伝わり、台形だった側面が驚くほど綺麗に整っていく——
「そう……いいよ」
松永の手が、そっと離れる
「今の感覚、忘れるなよ」
「……ありがとうございます」
ナッペが綺麗に仕上がった嬉しさと、照れくささが、同時に胸に広がる。
───
松永は柔らかい表情に戻っていた。
「お盆休み明け、ゆっくりでいいから生クリームで仕上げてみるか?」
「ありがとうございます」
マナは、いつもより念入りに床を掃除し、パレットなどの道具の手入れを終える。
着替えながら、ぼんやりと思う。
パレットの持ち方よりも——
松永の手が触れた感覚のほうが、ずっと忘れられなかった。
「じゃあ、お盆明けに。お疲れ様」
「お疲れ様です」
店の外へ出ると、夕暮れの空が、ほのかに茜色を帯びていた。
蝉の声が響く。
うっすらと汗ばむ首筋に、夕風が通り抜ける。
マナは、その風を吸い込みながら歩き出した。
でも、頭の中には、まださっきのぬくもりと松永の低い声が残っていた。
──
松永は軽トラの運転席に乗り込むと、窓を開けて、髪をかきあげるように手を通した。
(……さすがに、近すぎたな)
ふぅ……とひとつ、ため息。
(……小さな手だったな)
細くて、繊細で、でも真剣にナッペを覚えようと必死だった。
その温度が、まだ指先に残っている気がする。
(ただ、技術教えただけなのに……何を緊張ししていたんだ……)
(バツイチのくせに……俺はガキか……)
(……でも、少しでも感覚が掴めてくれてたら、それでいい)
そう自分に言い聞かせるように、エンジンをかける。
1週間のお盆休みが始まる——
次回へ続く




