甘い夢、苦い現実 これは一人の女性パティシエの物語
※いじめ、パワハラのシーンがあります
厨房には、ほんのり焦げたキャラメルの香りと、溶けかけのチョコレートの甘さが混ざっていた。
ミキサーのモーター音は止まり、いまはオーブンが低く唸っている。
「松永さんこれで良いですか?」
「あぁ……いいよ」
松永は生クリームを沸騰ギリギリに火を止め、刻んだチョコレートに注ぐ。
相変わらず仕込中は真剣で無口だ。
けど、休憩中
松永がふと口を開いた。
「……マナ、今日仕事終わったら飯行くか」
目線を少しそらしたその仕草に、どこか不慣れな照れが混ざる。
「もし嫌なら…」
いつもの調子なのに、どこか探るような口調。
「行きたいです」
その返事に、松永はほんのわずかに肩の力を抜いた。
休憩時間は優しくなる。
——私は、年上の、ちょっと不器用なシェフに、恋しています。
同じ厨房にいられるだけで、少しだけ特別な気持ちになる。
ここまで来るのに、時間はかかった。
でも——あきらめなくて、よかった。
これは、私と、不器用な年上のシェフとが、
少しずつ歩幅をそろえていく——そんな静かな成長の物語。
───
マナはかつて、幼い頃に訪れたケーキ屋の甘い香りと彩りに心を奪われ、
「いつかパティシエになりたい」と夢を抱いた。
その夢を叶えるように、製菓学校を卒業して、第一希望の東京の一流ホテル雅ホテルに就職が決まった。
最初は、ただうれしくて。
あの憧れていた厨房に、自分が立てる日が来たことが信じられなかった。
でも現実は、想像していたものとはまるで違っていた。
───
始発で出勤し、終電で帰る毎日。
朝6時から夜12時まで、キッチンに立ち続ける。
「遅い、手が止まってるぞ! お前みたいなやつ正社員の資格ねぇんだよ!」
「は? やり直し! 何回言えばわかる!何も考えず動くな!」
——それが、雅ホテル製菓部門のシェフ・吉村シェフの日常だった。
苛立つとゴミ箱を蹴り、作業台を叩き、
まるで「誰かを潰すことでしか保てない空気」が厨房中に張り詰めていた。
「俺らの時代は殴られてたんだぞ。
殴られないだけ、感謝しろよな」
「すみません……」
帰りの電車では、眠気に勝てず何度も意識が飛んだ。
家に着けば、おにぎりを詰め込み、シャワーを浴びて、歯も磨かずに眠る。
目を閉じたのは午前1時。
目を覚ますのは、午前5時。
夢を叶えたはずの毎日は、
気づけば「心をすり減らす仕事」になっていた。
(なんかケーキ作るの辛いかも……)
そんなふうに思った夜もあった。
次回へ続く