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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

時軋みの桜

作者: Yoshia

第1章 転校生の謎


桜の花弁が硝子のように砕ける。ハンドルを握る母親の指が、不自然に震えているのに気づいたのは、正門が見えてきた瞬間だった。

「ここなら......きっとうまくいくわ」

母親が呟く声に、五月蠅いほどの期待が滲んでいた。転校理由を訊ねても曖昧にごまかす後ろ姿が、何故か他人のように見えた。四月の風が制服用のリボンを揺らし、首筋に冷たい触手が這う感覚に私は目を閉じた。

緑ヶ丘高校の玄関で、小野田先生の黒縁眼鏡が夕暮れ色に光った。四十代半ばの女性教師は、名簿に朱色の印を押しながら、奇妙な台詞を零した。

「楓さんは......本当に来てしまったんですね」

吹き抜ける風が資料を散らす。俯いて拾った卒業アルバムのページが、墨で塗り潰された塊になっているのに気づいた時、後頭部を金槌で殴られるような痛みが走った。視界が白濁し、耳元で無数のささやき声が渦巻く。

『早く気づいて』

「大丈夫ですか?」

小野田先生の手が肩に触れた瞬間、痛みは霧のように消えた。アルバムのページは普通のクラス写真に変わっており、墨塗りなど存在しなかった。先生の首元から漂う樟脳の香りが、妙に生々しく鼻腔を刺す。

「旧校舎には近づかないでくださいね。三年前の火災で......一人の子が行方不明になったんです」

その言葉は明らかに、昨日のことを指していた。荷物整理のため教室の窓を開けた時、煉瓦色の廃墟の窓際に、制服姿の少女が立っていた記憶。風になびく長髪が硝子ケースの中の標本のように不自然で、スマートフォンで撮影しようとしたら、画面に映ったのは真っ赤な手のひらだけだった。

クラスメイトたちの視線が皮膚に刺さる。自己紹介の最中、窓ガラスに映った自分の姿が、一瞬だけ制服ではなく白無垢の着物を着ているように見えた。気のせいだと自分に言い聞かせる。そんな筈がない。今は二十一世紀で、私は生きている。

給食の時間に違和感が爆発した。味噌汁の椀に浮かぶ油揚げを噛んでも、舌に何も感じない。隣の席の女生徒が唐突に立ち上がり、私の存在を透視するような目で呟いた。

「あのね、ここには最初から誰もいないはずなのに」

教室内が水槽の中のように静寂に包まれる。誰もその発言を咎めない。給食当番の少年が私のトレーを素通りし、空いた席に食事を置いていく。手の甲を親指の爪で強く押し、赤い痕が残るのを確認して息を吐いた。痛い。だからこれは夢じゃない。

放課後の保健室で、運命の歯車が狂い始めた。体調不良を訴えてベッドに横たわると、天井の蛍光灯が脈打つように明滅する。看護師の姿がないことに気づき、起き上がった瞬間、壁の鏡に映らない自分を見た。

正確には、0.5秒ほどの断層だ。姿勢を変える動作の途中で、鏡面が真っ黒な闇に変わった。その隙間に、鏡の中の世界で逆方向に動くもう一人の私が存在した。

「見えちゃったの?」

美術室の方から少女の笑い声が聞こえる。首の後ろで冷たい吐息が絡まり、振り向くと赤茶けた扉が微かに揺れていた。ドアノブに触れた瞬間、三年前の火災で焼け焦げたはずの木材が、奇妙な湿り気を帯びているのを感じた。

図書室の奥で見つけた新聞記事の見出しが視神経を焼き付く。「1988年 校舎建設反対運動 行方不明者発生」。発行日付の部分がインク滲みで読めない。背筋を這う悪寒に抗えず、ふと見上げた窓の外で、桜の木の下に立つ少女が手を振っている。昨日見た旧校舎の人影と同じ制服姿だ。

帰り道、正門の掲示板に貼られた「4月7日 防火訓練実施」の通知が、濡れた指で触れた途端、「4月7日 生贄儀式」と変化した。でもそれはきっと、夕暮れの陽炎の戯れだろう。そう自分に言い聞かけるのに、学生鞄の底で卒業アルバムが熱を帯びている気がしてならない。

自宅とされるアパートの部屋で、最も恐ろしい事実に気づいた。クローゼットに掛かった私服の全てに、値札が付いたままなのだ。冷蔵庫には消費期限切れの牛乳しかなく、家族写真のフォトフレームには、真っ白な紙が挟まれていた。

夜中の3時14分、携帯電話の画面が突然真っ赤に染まる。通知も電波表示も消えた液晶に、ゆっくりと白い文字が浮かび上がってきた。

『おかえりなさい 楓』

その瞬間、頭蓋骨の内側でガラスが割れる音がして、私はようやく悟った。この転校が間違いだったことを。けれどもう遅い。窓の外で、旧校舎を包む無数の手首が、新月の夜に蠢き始めていた。




第2章 美咲という共鳴


美術室の扉が軋む音は、腐った歯茎を抉るような不快さで鼓膜を震わせた。昨日から続く頭痛の波間で、無意識に足がこの場所へ導かれてしまった。旧校舎の少女の正体を知りたいというより、むしろ逃げ場が欲しかったのだ。

「あら、ようやく来たわね」

パレットナイフを手にした少女が、黄昏色に染まる窓辺で笑っていた。セピア色のリボンが揺れる、古めかしいデザインの制服。他の生徒たちより少し色褪せた存在感が、硝子絵の少女のようだった。

「私は美咲。この学校で一番長く美術部にいるの」

その言葉の不自然さに気づく間もなく、カンバスに描かれた暗い海の絵が視界を支配した。鉛色の波間を漂う無数の手首。昨夜窓の外で見た旧校舎の光景と酷似していることに戦慄が走る。

「楓さんも見えてるんでしょ? あの子たちが」

美咲の指先が私の胸元を指す。制服の第二ボタンが、いつの間にか錆びた銅色に変わっている。触れた指先から冷たい電流が脊髄を駆け上がり、記憶の断片が炸裂した。

ー(母親の泣き声 土の匂い 喉に詰まる灰 3時14分を指す腕時計)ー

「やめて!」

勢いで後ずさりした腰がイーゼルを倒す。転がり出た油彩チューブの製造年月が「1985年」と表示されているのを目撃した瞬間、天井のスピーカーから放送が流れた。

『本日は1988年4月7日。生贄儀式にご協力を』

放送を流した職員ですら気づかない様子で、廊下を歩く生徒たちは平常通りだった。美咲が私の震える手首を掴み、冷たい唇を耳元に寄せる。

「この学校の時間は多重螺旋になってるの。楓さんが繋いでるのよ」

美術室の奥に潜む地下階段は、公式の図面に存在しないはずの空間へ続いていた。壁にびっしり貼られた新聞記事の見出しが視界を襲う。

「1988年4月 校舎建設反対派の女子高生行方不明」

「2012年 旧校舎で白骨遺体発見 歯形分析で身元特定」

「2020年 火災事故で再び行方不明者」

最新の記事の日付部分がまたもや滲んでいた。懐中電灯の光が照らし出した机の上に、歯科検診の結果用紙が舞い落ちる。2023年の日付が印字された書類に、私の顔写真と共に「歯形照合率99.8%」と朱書きされている。

「これは......私の?」

美咲が黙って差し出した1988年の新聞写真。土中から発見された顎骨のレントゲン写真と、私の歯列が完全に一致している。

「違う! 私は今ここに生きてるの!」

叫び声が地下空間で不気味に反響する。ふと気づくと壁の影が全て旧校舎方向へ流れており、私の影だけが逆方向に引き伸ばされていた。美咲の瞳が突然ガラス玉のように硬化し、冷たい指が頬を撫でる。

「生きてるの? じゃあどうして給食が食べられないの?」

ズボンのポケットで携帯が震える。気づけば圏外表示のまま3時14分を指し、ホーム画面の待ち受けは旧校舎の白骨写真に変わっていた。喉奥から鉄錆の味が湧き上がり、床に貼り付いた新聞記事の文字列が蠢き始める。

『楓 楓 楓 楓』

「やめろ!」

必死で駆け上がった階段の先で、小野田先生と鉢合わせた。樟脳の香りが急に濃厚になり、先生の右手に握られた古文書が血痕のように染まっている。

「こんなところに......いらっしゃったんですか」

いつもの温和な笑顔が、頬肉の不自然な痙攣でグロテスクに歪んでいた。背後の美術室から美咲の笑い声が響く。

「先生、早く封印しなきゃダメよ。また火災が起きちゃうわ」

小野田先生の左手が私の肩に食い込む。痛みよりも先に、先生の指紋が消失している事実に寒気が走った。まるで蝋人形のような滑らかな皮膚感触。

「楓さん、お願いですから旧校舎には近づかないでください。三年前の火災で犠牲になったのは実は......」

校舎全体を揺るがす雷鳴が話を遮った。窓の外で桜の花弁が一斉に散り、代わりに紅葉が枝を彩り始める異常光景。美咲が私の袖を引っ張り、囁くように告げた。

「あの人は嘘つき。火災で死んだのは楓さんなんだから」

保健室のベッドで目覚めた時、壁の時計は3時14分を指したまま動いていない。看護師の記録用紙に「死亡確認済」のスタンプが押されていたのは、おそらく悪夢の続きだと自分に言い聞かせた。

しかし帰り道、正門前の桜の木の根元で、小さな石碑を発見した瞬間、全ての言い訳が崩壊した。風化した文字列が、私の視界の中で徐々に鮮明になりつつあった。

『楓 1988年4月7日 永眠』

その夜、自宅の浴室で衝撃的事実に直面する。湯船に浸かったはずの体が浮かび上がらず、むしろ水面が石膏のように硬化している。鏡に映る自分の首に、くすんだ縄痕が浮かんでいるのを発見した時、私は初めて泣き叫んだ。

窓の外で旧校舎が唸りを上げる。無数の手首が窓ガラスを叩き、美咲の声が頭蓋骨の内側から響く。

「ほら、早く気付いて。楓はもう」

次の瞬間、時計塔の鐘が鳴り響いた。しかし音色は葬儀の告別鐘そのもので、校庭の桜が一斉に枯れていく音が、白骨の指が砂を掻き鳴らすような不吉な響きだった。





第3章 記憶の裂け目


心電図の電子音が、白骨の指で頭蓋骨を内側から引っ掻くリズムで鳴り続ける。覚醒した瞬間から違和感があった。点滴の針が皮膚を貫いているのに、チューブの先の液袋が空のまま膨らんでいる。看護師の名札が「1988年度 新人研修中」と表示され、壁の救急マニュアルの日付が全て四月七日で統一されている。

「お目覚めですか?」

白衣の男の胸元で、懐中時計の鎖が不自然に揺れていない。秒針が3時14分で完全に停止したまま、医師の瞳孔が猫のように縦に裂けていることに気づいてしまった。

「死亡確認は済んでいますので、ご安心を」

診察台の端に置かれたカルテには、鮮明な朱色の「死亡確認済」スタンプ。発見日付欄に滲んだインクで「1988年4月7日」と記されているのが、徐々に浮かび上がってくる。喉から絞り出すように抗議する。

「私は......今ここに......」

「そうですね。だからこそ問題が」

医師の手袋が外れた瞬間、その掌に無数の歯型が刻まれているのを見た。私の歯列と完全に一致する凹凸が、生々しい血痕を帯びて光る。携帯電話の圏外画面が突然明滅し、着信履歴に「母親(死亡)」と表示される。

病院を脱走した足は自然に自宅へ向かう。だが最寄り駅の案内図に町名が存在せず、通り過ぎる人々の影が全て旧校舎方向へ流れている。アパートの部屋のドアノブに触れた時、金属部分が人の皮膚のような温もりを保っていることに戦慄が走った。

クローゼットを開けると、昨日まであった私服が全て白無垢の衣装に変わっている。引き出しの底から見つかった養護施設の通知書には「保護者不在のため特別措置」と記載され、印鑑の日付が1988年4月6日になっている。

「嘘だ......」

冷蔵庫の牛乳パックを握り潰す。腐敗した液体が床に広がるが、悪臭ではなく線香の香りが立ち込める。鏡に映った自分が首を傾げるタイミングで、0.5秒遅れて実物が同じ動作を繰り返す。

突然、テレビ画面が砂嵐になり、懐かしい校歌の旋律が流れ出す。白黒映像の中の校舎新築工事現場で、腕章をつけた少女が叫んでいる。モニターに映る顔が私と瓜二つだと気づいた瞬間、テレビ裏面から本物の手首がにゅっと伸びてきた。

「助けて!」

叫びながら飛び出した先のコンビニで、新たな絶望が待ち受けていた。陳列棚の雑誌が全て1988年春号で、週刊誌の見出しに「反対派女子高生失踪 生贄説浮上」の文字。レジのアルバイト生徒が私を見るなり、恐怖で硬直した表情で呟く。

「あんた......この世の者じゃないだろ?」

夜空を駆け抜ける際、自分の影が三つに分裂しているのを目撃した。それぞれが異なる方向へ蠢き、一つだけが旧校舎の窓へ手を伸ばしている。体育館裏の物置から聞こえる掘削音に引き寄せられると、小野田先生が土中に古文書を埋める現場に出くわす。

「先生......?」

樟脳の香りが突然鋭利な臭気に変わる。先生の首が180度回転し、背面から美咲の声が響いた。

「彼女はもう何十年も前からここにいるのよ。楓さんを監視する番人なんだから」

土中から引き抜いた和紙に、私の肖像画が鮮明に描かれている。江戸時代の作と記されたその絵の顔が、現代の写真と寸分違わない。先生の右手が突然粘土のように溶解し、中から1988年の新聞記事がにゅるりと現れる。

『女子高生楓(16)失踪 校舎建設地で血痕』

携帯電話が突然鳴り出し、画面に「自宅」からの着信表示。だが応答すると、地下深くで風が唸るような音声だけが流れてくる。

『おいで......同じ穴の落とし子......』

旧校舎の地下室で発見したのは、現代の制服をまとった白骨死体だった。黒焦げの学生鞄から出てきた歯ブラシが、私が今朝使ったものと同一メーカーの1980年代廃盤品。壁に刻まれた無数の「助けて」の文字が、私の筆跡で年毎に古びていった。

「これが......私?」

美咲が闇から現れ、白骨の指輪をはめた手で私の顎を掴む。冷たい吐息に混じって、墓地の土の香りがした。

「あなたは何度も同じ人生を送ってるの。目覚めるたびに記憶を消されて」

時計塔の鐘が鳴り、突然周囲の景色がセピア色に変わる。駆け寄る集団の叫び声が耳を劈く。

「生贄はこの子でいい!」「校舎の守り神になるんだよ!」

1988年の制服姿の自分が、無理やり祭壇へ引きずられていく幻視。現実と過去の境界が溶解し、クラスメイト全員が当時の村人面影で嗤っている。

保健室の鏡に飛び込んだ瞬間、映ったのは白骨と生身が混在する不定形な姿だった。天井から血の雨が降り注ぎ、美咲の囁きが脳髄に染み込む。

「気付いてよ。あなたが最初の犠牲者なんだから」

校庭の桜の木が突然爆発音を立て、無数の歯が花弁のように降ってきた。その全てが私の歯型と一致していることに気づいた時、ついに記憶の封印が解かれる音が頭蓋骨の中で鳴った。





第4章 生贄の輪郭


地下室の壁面が呼吸を始めたのは、旧校舎の扉を蹴破った直後だった。煉瓦の隙間から滲む黒い粘液が、私の影を喰うように追いかけてくる。懐中電灯の光が掠れた瞬間、無数の歯型が壁面に浮かび上がり、歯軋りと共に回転し始めた。

「来るのが遅すぎたわね」

美咲の声が暗闇の彼方で響く。足元に転がった石油ランプが不自然に発火し、その火影で見えたのは地下祭壇の全景だった。天井から吊るされた無数の市松人形が、全て私の顔をしていた。

「ほら、あなたの居場所」

美咲の指差す先にあったのは、古びた檻の中の現代的な学生鞄。開けると中から1988年の新聞記事と、最新型のスマートフォンが混在して出てきた。画面に映るSNSのタイムラインが全て「4月7日」で固定され、友達リストのプロフィール写真が全員白骨に変わっている。

『救って 救って 救って』

突然壁全体が震え出し、無数の掌型が内側から突き出した。引き剥がされた漆喰の下から現れた古文書に、私の生年月日が朱で記されている。虫食いだらけの文章が突然視界に飛び込み、脳裏で翻訳される。

「此方の者ならざるを現世の檻に封ず 其の魂を以て時空の楔と為す」

ドラム缶ほどの鏡が祭壇中央に据えられていた。縁に刻まれた「小野田家代々」の文字が、担任教師の指輪と同じ紋様を浮かび上がらせる。鏡面に触れた途端、背後の階段を駆け下りる足音が雷鳴のように響いた。

「ここまで来させたのは失敗でしたね」

小野田先生の右手が松明を持ち、左手に獣骨でできた鍵を握っている。通常の2倍ほどに伸びた首が不自然に傾き、耳から黒い根が地面に這い出している。

「楓さんは1988年4月7日、校舎建設反対派の娘として生贄に選ばれました。しかしその怨念が時空を歪ませ、現代に蘇ったのです」

先生が突き出した古文書の写しには、私を囲む村人たちの絵が。その中にクラスメイト全員の顔が描かれていることに気づいて吐き気が襲う。

「この檻であなたの時間を永遠にループさせることが、我が家の使命です」

逃げようとした足が地面に吸い込まれる。石油ランプの炎が青白く変色し、影たちが檻の形に集約されていく。美咲が鏡の裏側から手を伸ばし、冷たい指が私の瞼を強引に開かせる。

「見なさい。真実を」

鏡面に映ったのは炎上する校舎だった。1988年の私が縄で縛られ、村人たちに囲まれて泣き叫んでいる。その横で現代の消防車が不自然に混在し、クラスメイトたちがスマホで動画を撮影している。

「お願い......助けて......!」

叫び声が過去と現在で共鳴し、鏡が割れる音と共に時代が混濁する。突如現れた保護者面談の記録用紙が空中を舞い、「保護者不在」のスタンプが血痕に変わる。スマートフォンのGPSが「1988年4月7日」を表示し、バーコードリーダーが古文書の文字を「生体認証完了」と読み上げる。

小野田先生の松明が檻を照らす。鉄格子が突然人の肋骨に変わり、隙間から伸びた血管が私の四肢を縛り付ける。美咲の嘲笑い声が頭蓋骨の内側で反響する。

「あなたが死んだ瞬間、この学校は時空の棺になったの。何度でも蘇っては記憶を消され、同じ苦しみを味わうのよ」

天井から降ってきた卒業アルバムが開き、墨塗りページから無数の手が出現する。それらは全て私の手だった。過去の私の手が現在の私の喉を締め上げ、未来の私の手が眼球を抉ろうとする。

「やめて......!」

必死に掴んだ鏡の破片に、小野田先生の真の姿が映る。腐敗した神主装束の下から、無数の歯が渦巻く肉塊がのたうち回っていた。美咲が私の耳元で囁く。

「先生は生き人形よ。あなたの死体の歯で作られた傀儡なの」

私の叫びと共に時計塔の鐘が鳴り、校舎全体が地響きを立てて傾き始める。廊下の窓から差し込む夕日が、突然真っ赤な満月に変わる。クラスメイトたちが祭壇を取り囲み、全員が1988年の村人服に変わっている。

「さあ、時代を超えた生贄様の完成です」

小野田先生の腕が鞭のように伸び、私の首輪を祭壇へ引きずる。ガラスケースの中に鎮座するのは、現代の制服を着た白骨死体。その左手首には、私が昨日まで付けていたスマートウォッチが巻かれている。

「これが......私の本当の......?」

崩れ落ちる意識の中で、美咲の言葉だけが鮮明に響く。

「あなたは最初で最後の犠牲者。でも同時に、全ての時代の楔なの」

突然の爆発音と共に、地下祭壇が真っ赤な液体に満たされていく。それは血でも水でもなく、無数の年月が濃縮された時間そのものだった。1988年の私と2023年の私が液体中で混ざり合い、クラスメイトたちの笑い声が過去と未来から同時に押し寄せる。

「おめでとう、楓さん。これであなたも永遠の一部ね」

最後に視界に映ったのは、逆さまになった時計塔の文字盤だった。長針と短針が3時14分を指したまま、今度こそ完全に時が止まるのを感じた。





最終章 私は最初の死


鏡の破片が咽喉に刺さっている。でも痛くない。逆に、今まで感じていた重苦しい感覚が、初めて透明になっていく。白骨の指先から滴り落ちる時間の液体が、床に触れるたびに時代の断片を再生する。

1988年の松明の火。2023年のLED照明。2012年の火災の煙。それらが螺旋を描きながら私の体を貫通していく。天井から吊るされた無数の私が、一斉に嘲笑い始めた。

「ほら、ご覧?」

美咲の声が、私の声でもある。彼女の姿が鏡面に映るたび、硝子の奥で白骨と少女が融合する。小野田先生の肉体が崩れ、地面に散らばった歯が無数の蟻となって時計塔へ向かう。

突如、校舎全体がヴァイオリン弦のような高音を発して震え出した。窓ガラスが過去と未来を同時に映し出す。一方で縄で縛られる1988年の私。他方でスマホを握る2023年の私。その中間点で、無限に引き伸ばされる現在の私。

「選んで」

美咲=私が差し出すのは、生贄の短刀と卒業アルバム。触れた瞬間、記憶の最後の扉が爆破された。

ー(母と呼ばれた女の正体 養護施設の職員 私を生贄に売った代償 1988年4月7日午後3時14分 土中で呼吸する恐怖 歯を剥いた村人たち 神主である小野田の祈禱 時計塔の鐘が鳴る 骨が砕ける音 それでも動く指 校舎が建つ光景 私の死体の上で 桜が咲く 2000年の転校生 2012年の火災 2023年の私 全て私 全て私 全て私)ー

「ああ......!」

校庭の桜が爆ぜ、無数の歯型の花弁が舞う。地面から現れた手の主は、過去の私だった。50人の私が50通りの時代で死に、その死体が校舎の建材になる。クラスメイトたちの顔が村人に重なり、全員が私の歯でできていることに気づく。

「おめでとう、楓」

小野田先生の声が、ついに正体を現した。腐敗神主の肉体から、私の乳歯が雨のように降り注ぐ。美咲の手が私の胸を貫き、鏡の心臓を取り出す。

「これが最初で最後の鍵」

鏡面に映ったのは、校舎の地下に埋まった無数の私の死骸。それぞれが異なる時代の制服を着て、同じ白骨の笑顔を浮かべている。

「さあ、完成よ」

美咲=私が掲げた鏡が、時空の穴を開く。1988年4月7日午後3時14分。現代。未来。あらゆる時代の校舎が一度に出現し、私を中心に収縮を始めた。

崩壊する教室の黒板に、初めてまともな文字が浮かぶ。

『楓 死因:生贄 死亡時刻:1988年4月7日15:14 現在の状態:時空固定観測者』

窓の外で桜の木が逆さまに成長し、根元から現代の女子生徒たちが旧校舎を撮影している。彼女たちの会話が、歪んだ時間を伝わって聞こえる。

「最近、廃墟に転校生の幽霊が出るらしいよ」「えー、ほんと?」「うん、桜の季節にだけ現れるって」

その瞬間、全てが繋がった。私は笑い出した。歯がガタガタと鳴り、眼球が時計の針のように回転する。美咲=私が祭壇に溶け込み、ついに真実を呟く。

「あなたは最初の犠牲者。でもね、これからもずっと転校生でいられるわ」

大地が嚥下する音と共に、全ての時代の校舎が私の体内に吸い込まれる。最後に視界に映ったのは、逆さ桜の下で白骨の手を振る自分自身だった。

そして――

次の瞬間、私は桜吹雪の中、緑ヶ丘高校の正門前に立っていた。リボンの結び目が首筋に触れ、母と呼ばれる女が不安げに微笑む。

「ここなら......きっとうまくいくわ」

風が舞った。旧校舎の窓に、誰かが立っている。それはもちろん、次の私だった。


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