6.スズリヨ 仕組まれた再会
目睫に迫る瞳の中、砂塵嵐が吹き荒れる。瞳にうつるスズリヨをのみこもうとするかのように、垂直の亀裂が開いた。
ーー骸竜!
スズリヨは咄嗟に覆い被さる巨躯を押し退けようとして、自身に異変が起きたことに気付いた。思うように身体を動かせない。血も肉も骨も、全身が鉛に変わってしまったかのように重い。渾身の力を込めて腕を上げようとしても、指先がぴくりと動くだけ。
混乱するスズリヨの左頬を大きな手が撫でていた。よく鞣された革のように硬い皮膚に覆われた手だ。左頬を撫で、顎を滑り、頸部を撫で下ろす。スズリヨは首を竦めて、首から上は動かせることに気付いた。
物は試しと、呟いてみる。
「擽ったい」
声は掠れているけれど、言葉を発することが出来る。スズリヨに覆い被さり、スズリヨの顔を撫でる男が呵呵と笑った。
「目覚めるなり第一声が『擽ったい』とは。豪気なのか、呑気なのか。いずれにせよ、面白い」
男は流暢なイリアネス語でそう言い、上体を起こす。
口当たりのいい酒のように、蠱惑的な声調には聞き覚えがある。それは彼を除いては誰の唇からも聞く事の出来ないような声だ。
ーールルヴルグどの。そうだ、わたしはルルヴルグどのに敗れたんだ
ルルヴルグはスズリヨの頬を手の甲で撫で、髪を手櫛で梳る。愛馬を撫でるような手付きだ。背筋の上に何か冷いものが流れた気持ちになりながら、スズリヨはこうなった経緯を思い出した。
***
人喰らう森の畔の戦いにて、スズリヨはルルヴルグに勝利した。しかし、スズリヨはルルヴルグに止めを刺すより、姉の救援を優先した。誇り高き骸竜の戦士は、敗者を捨て置くという暴挙に出たスズリヨを憎悪するだろうと、スズリヨは考えていた。次に会う時、ルルヴルグは憤怒の剣を振り翳し、スズリヨの首をはねようとするだろうとも。
一年後。虚の谷の戦いにて、スズリヨ率いる百人隊はゴルドラン連合軍と交戦した。スズリヨは無意識のうちに大剣をふるうルルヴルグの勇姿を探していたが、鉤爪を率いるのはルルヴルグの右腕とおぼしき骸竜の戦士であり、何処を探してもルルヴルグを見つけることは出来なかった。
ーーもしや、あの時の傷がもとで亡くなったか。もしくは、自ら死を選んだか
スズリヨは骸竜の文化に明るくない。けれど、骸竜の戦士なら『敗者として生き恥を晒すより潔く死を選ぶべし』と考え命を粗末にしても不思議ではないと思った。
ーーいずれにせよ、誇り高き戦士にふさわしい死に様とは言えまい
スズリヨにとって、姉はこの世界のすべてよりも大切なひとだ。時を遡り何度繰り返しても、スズリヨは姉を救うためルルヴルグを捨て置く。そして、罪悪感は小さな棘のようにスズリヨの心に突き刺さるのだ。
ーー気の毒なことをした、かな
骸竜は両親と祖国の仇である。スズリヨは力に飽かせて大切なひとたちの命を奪った骸竜を心の底から憎んでいた。
ーーしかし、今となっては……こうして戦場に立ち、数多の命を奪う己も骸竜と大差ない。抗う術の無い者を嬲り殺しにするのも、死力を尽くして挑む戦士を蔑ろにするのも、同様に罪深いのだろう
ここは戦場である。そういう感傷にひたっている暇はない。スズリヨは先陣を切って敵陣に斬り込み、槍を車輪のように振り回し敵兵を蹴散らした。
鉤爪を率いる骸竜の戦士が咆哮する。それは撤退を命じる獣吼だった。背に怒号を浴びながら、一目散に駆けて行く鉤爪の戦士達。勇猛果敢で鳴らす鉤爪の撤退に、イリアネス軍のみならずゴルドラン連合軍も騒然となった。
スズリヨは色めき立つ什長達を、深追いするなと制する。骸竜が謀を巡らすとは考えにくいが、唐突な撤退はあまりにも不自然だった。
骸竜の撤退を切っ掛けに、ゴルドラン連合軍は算を乱して潰走した。釈然としないまま、散り散りになる残党を目で追うスズリヨの頭上を真白な鷹が旋回する。
ーーあれはドラミーネどのの使い魔
魔法士ドラミーネは姉の恩師であり、姉はドラミーネが手塩にかけて教育した愛弟子である。
スズリヨは、世界で一番美しいのは姉だと確信しており、二番目に美しいのはドラミーネだろうと思っている。
ドラミーネは珍しい菫の花の色を髪と瞳に宿す、芳しい花のような、妖艶極まりない美女だ。
伝聞するところでは、性格は明るく悪戯っ子で、生真面目な姉をからかって遊ぶのを何よりの楽しみにしているとか。
仲睦まじい師弟だと誰かが言うたび、ドラミーネは姉を抱き寄せて
『そうなの。あたしたちはね、似た者師弟なの。だからとっても仲良しなの。ねぇアンリヨ』
と言い、戸惑う姉に頬擦りをすると言う。
スズリヨはどちらかと言うと人見知りをする方だ。ドラミーネと会うときはいつも姉を間に挟んでいた。
スズリヨはドラミーネと、もっと仲良くなりたいと思っていた。でもまだ、スズリヨとドラミーネは顔見知り程度の関係だ。私報のやり取りをするような仲ではない。
ーー何故だろう。胸騒ぎがする
スズリヨが右腕を差し出すと、真白な鷹は舞い降りて、スズリヨの上腕にとまる。鷹の嘴をかりて、ドラミーネは言った。
『アンリヨが骸竜に追われているわ。案内するから、ついて来て』
真白な鷹は舞い上がり、翼を羽ばたかせて飛んで行く。
ーー姉さんが危ない!
スズリヨは矢も盾もたまらず、馬を駆り真白な鷹を追った。ダグラスに呼び止められたが、構っていられなかった。
真白な鷹に導かれ、渓谷を遡って行く。斧を入れたためしのない渓谷林にかかる滝を鳥影が横切り、木陰から黒々とした人影が現れる。スズリヨは手綱を引いて馬を止めた。
ーールルヴルグどの、生きていたか。しかし、何故ここに?
ルルヴルグは大剣を肩に担ぎ、馬上のスズリヨを凝視する。太陽を見上げるかのように、眩しそうに目を細めた。
『ようやく会えたな、スズリヨ。この時を待ちわびたぞ』
スズリヨは辺りを見回す。姉の姿は見当たらない。そのかわり、鉤爪の戦士達がぞろぞろとやって来た。
スズリヨは鋭く舌打ちをする。
ーールルヴルグどのが、姉さんを囮にしてわたしを誘き寄せたとでも言うのか?
スズリヨはルルヴルグの微笑をひたと見据える。何か、どろどろとした情念のようなものを見出す。
人喰らう森の畔にて、スズリヨが彼の太股を貫き勝敗が決すると、ルルヴルグは潔く首を差し出した。
『見事なり。この首はお主のものだ。受け取れ』
あの時、ルルヴルグの顔には一点の曇りもない笑みがあった。そこに怨念の影を落としたのは、間違いなく、スズリヨの行いである。スズリヨの胸はさしこむように痛む。
ーーあのルルヴルグどのが斯様な策を巡らすとは……随分と恨まれたものだな
スズリヨは深呼吸をして、心に突き刺さる罪悪感の矢を引き抜いた。
ーー他人のことなんか知ったことか。そんなことより姉さんだ
自分自身にそう言い聞かせると、スズリヨは切り詰めた言葉でルルヴルグに問いかけた。
『姉さんは何処だ?』
『ルルヴルグは知らぬ。ルルヴルグも鉤爪の戦士達も、お主の姉には指一本触れておらぬ』
ルルヴルグは事も無げにそう言った。空中を旋回していた真白な鷹が舞い降りて、ルルヴルグの左肩にとまる。ルルヴルグは真白な鷹を流し見て、肩を竦めた。
『我等二人の運命は、ただの成り行きによってここで邂逅したわけではない』
真白の鷹がけたたましく嘴を鳴らす。鈴を振るような声でドラミーネが哄笑する。
『可愛いお嬢ちゃん。あたしに騙されるなんて、夢にも思わなかったのね? あたしのこと、味方だと思ってたのね? ふふふ、可愛いわねぇ、お嬢ちゃん。あたし、あんたのそういう、可愛いところが大嫌い。その可愛い顔を見るだけで虫酸が走るのよ』