58.スズリヨ 野獣1
生まれたままの姿で、背後から包み込むように抱き締すくめられる。それも、一時は好敵手と定めた相手によって。スズリヨにしてみれば、耐え難い屈辱だった。
口角が引き攣りそうになるのを辛うじて堪える。そうでもしなければ、戦士としての矜持を守れそうにない。
居た堪れなくなって、足元に目を落とすと、スズリヨとルルヴルグの裸足が並んでいるのが目に入った。
ーー女物の靴なんか履けた試しがない、大きな図体に相応しい大きな足なのに……ルルヴルグどのに比べたら、まるで普通の女の足みたいに見える
そうひとりごつ。直後、そんなばかな、と自嘲した。
ーールルヴルグどのは骸竜の戦士だ。普通の男じゃない。わたしみたいな大女が、ルルヴルグどのと自分を比べて、普通の、華奢な女になったつもりになるなんて、どうかしている。とんだお笑い種だ。そもそも、わたしは今更、普通の女になりたいなんて思わないし……ああ、もう、落ち着け。狼狽えるな。みっともない
自分自身を叱咤して、冷静になろうと努めるものの、その成果は芳しくない。気を取り直そうにも、肌と肌の触れ合いが、スズリヨの心を掻き乱す。
釣床に横たわるルルヴルグの姿を見上げた時、遠目には判然としなかったが、背中にあたる胸板の感触から察するに、上半身裸のようだ。
裸のスズリヨを抱く腕も胸も肌が剥き出しで、触れ合う素肌から、その肌理や鱗の凹凸を感じると、否が応でも同衾した記憶が揺り起こされる。
ーールルヴルグどのが一糸纏わぬ姿ではなく、下衣を履いていることが、せめてもの救いだな
家で寛ぐルルヴルグの服装は、戦装束と大差ない。
骸竜は素肌に直に革鎧を装備する。意匠を凝らされた革鎧は、申し訳程度に肩と胸部の一部を覆うだけで、屈強な蜥蜴人の戦士が鎧を装備する目的は肉体の防護ではなく、恵体の誇示にあると思われる。つまり、上半身裸も同然なのだ。ルルヴルグも例外ではない。
ーーそう言えば、ルルヴルグどのは骸竜の戦士の中でひとりだけ、変わった下衣を履いていたな
ルルヴルグが履いている下衣はズボンのように二股に分かれている。逞しい足を通しても充分に余裕があり、裾にゆくほど布があまる構造だ。
前布には襞を取り、後布は襞をとらず、左右に分かれている。前布、後布には、それぞれ最上部の辺の左右から一本ずつ、合計四本の紐が出ており、それを腰に巻き付けて下衣を固定している。戦場では脛、足首、足の甲を覆う革製の脚絆でおさえていたが、今は脚絆を着用していない。
ルルヴルグの下衣は、東洋の島国の民族衣装である「袴」に似ていた。子どもの頃に読んだ、東洋の国々について書かれた本に、袴の記述と挿絵があったので、スズリヨは袴について知っている。
姉の就学中、ジネスタス伯爵邸に厄介になっていたスズリヨは、伯爵夫人から手習いを教わる以外に勉強らしいことはせず、専ら鍛錬に精を出していた。それを知ったジュラリオ王子は「勉学に励め。学がなければ先々で苦労する」と言い、自身の蔵書をスズリヨにどっさり貸し与えた。件の本はその中の一冊だ。
因みに、後になって姉から聞いた話だが、ジュラリオ王子の乳母は東洋の島国出身で、ジュラリオ王子の東洋贔屓は乳母の影響であるらしい。
閑話休題。スズリヨは読書嫌いなので気が進まなかったが、ちゃんと読まないとジュラリオ王子に叱られるので、辞書と首っ引きで辛うじて目を通した。
ーー他の骸竜の戦士は皆、腰に一枚布を巻いて、上から革帯を締めていた。結目を背中側に持って来て、その切れ目から尾を出していたな
多くのゴルドランにとって、衣服は装飾品に過ぎないらしい。人間のように、肌を隠すことに重きを置くことはしないのだろう。同じ大型の蜥蜴人である屍族の戦士の戦装束は、骸竜の戦士のそれよりも肌を露出するものだった。
ーー常時、陰茎を体外に露出している人間と違って、蜥蜴人は陰茎を体内に収納しておけるらしい。だから、下半身を隠そうとしないのかもしれない。いや、それを言うなら、ルルヴルグどのだって……
そう考えた直後、顔から火が出る思いをした。実際、頰が発火したかのように熱を帯びている。
初夜の褥にて、ルルヴルグが下衣の腰紐を解いたとき、スズリヨは目を瞠った。男の股間にあって然るべき陰茎がそこにはなく、かわりに、女の陰裂のような裂目があったからだ。
混乱したスズリヨは、まず「ルルヴルグどのは女性だったのか」と驚愕した。しかし、その混乱は長くは続かなかった。その裂目から猛々しい屹立が飛び出したのである。混乱は錯乱と化し、それからのことは……覚えているけど、思い出したくない。
目を覆っても耳を塞いでも、恥辱に塗れた過去からは逃れられない。せめてその記憶を振り払いたくて、スズリヨはぶんぶんと頭を振った。
ルルヴルグは背後からスズリヨの様子を窺っている。スズリヨが突然、身悶えたので、驚いたようだ。スズリヨの顔をまじまじと見て「どうした?」と問い掛けてくる。
答えられる訳が無い。スズリヨは黙して語らず、じっとして、閉ざされた扉を見つめた。
ルルヴルグは暫くの間、スズリヨの頭を左手で撫でたり、髪を手櫛で梳いたり、頰を指先で突いたりしていた。
これが「ルルヴルグによって痛い目に遭わされる」前であったなら。悪戯をした幼子が、怒った母にちょっかいをかけて気を惹こうとするかのような仕種に、多少なりとも絆される余地があったかもしれない。
密着する胸板は硬い鱗板に覆われているけれど、その内側の肉は弾力に富み、柔らかい。力を抜かなければ、こうはならない。
スズリヨが頑なに振り返らずにいると、いよいよ焦れたのか。ルルヴルグはスズリヨの顎を掴み、顔を上向かせた。巣から落っこちた雛鳥を掬い上げるように、そっと、優しく。
略奪者らしからぬ手心がスズリヨにもたらしたのは、安堵ではなく屈辱だった。
ーールルヴルグどのにとって、手負いのわたしの抵抗など取るに足らない。取り押さえるまでもないんだ
ルルヴルグは憮然とするスズリヨの顔を覗き込み、笑う。
「ようやく、目が合った」
無邪気と称して差支えのないルルヴルグの笑顔を、スズリヨは真正面から見返した。
ルルヴルグの手を振り払おうと思えば振り払えるし、顔を背けようと思えば背けられる。それでも、スズリヨはそうしなかった。取り押さえられた被食者のように弱々しく足掻くなんて、絶対に嫌だった。
内心の動揺を悟られまいと、口角を上げる。強張る顔に、不敵な微笑を拵える。
「狸寝入りとは、食えない御仁だ」
「うん? 横になって目を瞑っていたからか? あれは、狸寝入りではなく、瞑想していたのだ。瞑目する目的が、睡眠とは限らぬ」
スズリヨはきょとんとするルルヴルグを見据え、せせら笑う。
「そんな猿芝居で、わたしを騙せるとでも? 侮られたものだな」
と吐き捨てた。
ルルヴルグならば瞑目していても、スズリヨの覚醒に気付くに違いない。ルルヴルグが「瞑想」を続けたのは、「ルルヴルグは眠っている」と認識したスズリヨの出方を窺う為だ。それ以外に何があると言うのか。
そうでもなければ、ルルヴルグはすぐに釣床から降りて来て、スズリヨにちょっかいを出した筈だ。今、こうしているように。
この言い方では「ルルヴルグどのはわたしに夢中だ」と言っているように聞こえるかもしれない。他人が聞けば「男女が自惚れるな」と呆れるかもしれない。しかし、それが事実なのだから、他に言いようがない。
スズリヨだって俄に信じ難いと思う。だが、この好事家は本気でスズリヨに欲情するのだ。ルルヴルグは初夜の褥にて「新妻」が失神するまでその肉体を貪ることで、腎張ぶりを証明してみせた。
鞣革のような肌が内包する熱さえ、未だに燻る情欲の暗喩に思えてならず、触れ合った肌は余すことなく粟立つ。
ルルヴルグはスズリヨの頰を撫で、その粒粒とした感触を確かめるように指先でなぞる。そして、不思議そうに小首を傾げた。
「スズリヨは、ルルヴルグが嘘をついていると思うのか?」
「当然だろう。貴殿は油断のならないくわせものだと、思い知らされたばかりだ」
「ふむ……なるほど」
スズリヨの頰に触れる左手が離れる。しかし、右腕は依然として、スズリヨの裸の胴に巻き付いたまま。出来ることなら振り解いてしまいたいが、軽挙妄動は慎むべきだ。ここでルルヴルグの怒りを買うのはまずい。今この時、スズリヨは手負いの身であり、しかのみならず、丸腰どころか丸裸なのだから。
ルルヴルグは彼自身の顎に左手を当て、眉間に小さな縦皺を寄せ、遠い目をしていた。暫くして、徐ろに口を開く。
「もしや、媚薬を使ったのがまずかった……とか?」
「……びやく?」
スズリヨは素っ頓狂な声を上げた。ルルヴルグの口から飛び出した「びやく」と発音する言葉が、性欲や性感を高める効果があるとされるあの「媚薬」を意味する言葉と同一であると、頭では理解しながら、心が認識を拒否している。
「……使ったって……何を?」
ーー聞き間違い、だよな?
聞き間違いであってくれと念じながら、恐る恐る問い掛ける。ルルヴルグは悪びれることなく即答した。
「媚薬だ。ルルヴルグは思いを遂げる際、スズリヨに媚薬を投与した。……と、ルルヴルグは言わなかっただろうか?」
ーー聞き間違いじゃなかった!
スズリヨは呆然自失に陥りながら、思考停止ししかける頭をどうにかこうにか働かせて、自問自答する。
ーーそんなこと、言われた? 言われたっけ? いや、言われてない。言われてないだろう。いや、わたしが忘れているだけ? いやいや、落ち着け、わたし。落ち着いて、一から十まで思い出せ。……だめだ、思い出せない。と言うか、思い出したら……正気でいられないかもしれない
スズリヨはごちゃごちゃと空回りする頭を抱え、呻吟した。ルルヴルグは、そんなスズリヨの様子を伺い、納得のゆく結論を得たようだ。うんうんと肯いている。
「言わなかったようだな。これは失敬。失念していた。その様子では、スズリヨは媚薬を使われたくなかったようだ」
ーーそれはそうだろう。何処の世界に、媚薬を使われて喜ぶ女がいる? ……いや、いるか。いるな。流行りの恋愛小説ではよくある展開だって、聞いたことがある。美男に激しく求められることに憧れる女は、確かに存在するんだろう。でも、わたしは喜べない。これっぽっちも喜べない
褥で晒した醜態の数々に「媚薬を盛られたから」と言い訳が立つことは、喜ばしいような、そうでもないような。
ーー否、そもそも媚薬に狂わされなければ、あのような醜態を晒さずに済んだのだから、やはり、喜ぶ理由は無い。皆無だ
「媚薬なんかクソ喰らえ」と喚き散らしたいのをぐっと堪え、辛うじて平静を装う。
ーー媚薬を一服盛られて、あってはならない醜態を晒した。そうさ、その通り。それがどうした?
スズリヨは開き直った。開き直らなければ、膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
スズリヨはおもむろに口を開く。
「その口ぶりでは、どうやら、まずいことになるとは思わなかったらしいな」
「如何にも。良かれと思って行ったことだった。初夜で痛い目に遭えば、交合はもうこりごりで、触られるのも厭になるだろう。生憎と、ルルヴルグは未通女を破瓜の苦痛より守る術を持ち合わせておらぬ。だから、媚薬に頼った」
ーー何が「如何にも」だ。身体的にはそうでなくても、精神的にはかなり痛い目に遭った。交合はもうこりごりだ。だけど……ルルヴルグどのは一応、わたしを思い遣ってくれたんだよな? わたしにかかる負担を少しでも軽減しようとして、媚薬に頼った。そう言うことだよな? 言いたいことは山程あるが、なにはともあれ、善意は善意だ。良かれと思って、と言われると……怒るに怒れないと言うか……怒りにくいと言うか……
スズリヨは気勢をそがれ、何と切り返したものかと答えあぐねる。そうしていると、ルルヴルグはさらりと言った。
「うまく効いて良かった。お主が愉しんでくれたのが、何よりもありがたいと、そう考えていたのだが、何がそんなに嫌だった?」
スズリヨは真っ先に耳を疑った。思わず知らず、聞き返す。
「誰が、どうしたって?」
「うん? お主も愉しんでくれただろう? 好い、堪らないと繰言していた」
スズリヨが次に疑ったのは、自身の耳ではなく、ルルヴルグの正気だった。
スズリヨに無断で媚薬を一服盛って、狂わせて、辱めておいて、ちっとも悪びれずあっけらかんとしていられるなんて。剰え、激流に押し流され沈められる木の葉のように、媚薬に翻弄され狂乱する様子を「愉しんでいた」と称するなんて。正気ではない。
燃えるように、頰がかっと熱くなる。スズリヨは眉をひそめ「ばかな!」と鋭く声を荒げた。ぎゅっと握りしめた拳がわなわなと震えた。
「ふざけるな! 誰がそんな……ふ、ふしだらな……!」
言葉は詰まり、声は上擦る。最中の記憶が曖昧なせいで、身に覚えがないのに、否定しきれないことが歯痒かった。
スズリヨは荒れ狂う怒りを込めてルルヴルグを睨みつけた。スズリヨを見つめ返すルルヴルグの目は、慈しみのような光を湛えている。
ルルヴルグは目を細め、スズリヨの頰を撫でた。
「照れている。スズリヨは可愛いな」
スズリヨはかっとなって、ルルヴルグの手を振り払った。スズリヨを抱くルルヴルグから逃れようとして藻掻くものの、ルルヴルグはびくともしない。
「落ち着け。ルルヴルグの支えがなければ転ぶぞ。スズリヨの回復の早さには目を瞠るものがあるが、まだまだ本調子とは言えぬ。回復が遅くなるのは、スズリヨの本意ではあるまい」
などと、訳知り顔で言うものだから、ますます腹が立つ。
スズリヨは遮二無二身を捩り、ルルヴルグに向かい合う。ルルヴルグの胸に手をついて、出来る限り距離を取り、正面からルルヴルグを睨め上げた。
睨みつける程度で、ルルヴルグが怯むとは思っていない。抵抗を封じられ、他に打つ手が無かったのである。
せめて、敵意を持って威嚇してやらねば、腹の虫が収まらない。
ところが、どうしたことか。悔し紛れの悪態は、ルルヴルグの琴線に触れたらしい。
ルルヴルグは夢に夢見るように、目を細める。頰はほんのりと紅潮し、無限の喜びが溢れ出すかのような、純粋な恍惚がその微笑に染み渡っていた。
「怒った顔も美しい。特に、その目が良い。雷鳴の前触れ、黒雲の合間に閃く稲光のようだ」
「……よくもまぁ、そんな歯の浮くような台詞を、いけしゃあしゃあと言えるものだ」
スズリヨは閉口しつつ、そう、ぼやかずにはいられない。
ルルヴルグは話し相手に忖度して言葉を飾り立てる男ではないと、スズリヨは認識している。
だから、スズリヨへの賛美は世辞ではなく、彼の本心なのだろう。
しかし、本心であるなら尚更、可愛いだの美しいだの、スズリヨとは無縁の形容詞をぽんぽん投げつけられるのは、居た堪れない。
「兎に角、あれは効果覿面だった。お陰で、素晴らしい時を過ごせた。薬師に足を向けて寝られぬ」
などとルルヴルグが世迷い言を吐かすのを紙一重で黙殺する。下手に言い返してもルルヴルグを喜ばせるだけだと、そろそろ学習しなければならない。
差し当たり、ルルヴルグがこの話題に飽きるまで、余所事を考えて気を逸らすことにする。
ーーそう言えば……ルルヴルグどのが入手した媚薬は、獣人の薬師によって調合されたものなのだろうか? それとも、人間の薬師によって調合されたもの?
イリアネスにおいて、高名な薬師や魔法士が調合する媚薬は恋を叶える妙薬、とどのつまり惚薬であるとされ、貴人達の間で重宝されていた。
去年の夏の頃。さる伯爵令嬢がその媚薬を持参して、ダグラスとの仲を取り持って欲しいと、スズリヨに頼み込んできた。
媚薬の危険性について、姉から噛んで含めるようにして言い聞かせられていたスズリヨは頭を抱えた。
令嬢の恋心に嘘偽りがないと信じたからこそ、スズリヨは彼女を思い止まらせなければならなかった。
「薬に頼って恋を叶えても虚しいだけ。早まってはいけない。薬なんかに頼らなくても、あなたは素敵な女性だ」
とかなんとか言って、正攻法で恋の成就を目指すよう、令嬢を説き伏せたと思う。
説得の甲斐あって、令嬢は軽挙妄動を思い止まってくれた。しかし、それからと言うもの、鍛錬中のスズリヨを物陰から凝視しては、目が合うと頬を赤らめて走り去るという奇行を繰り返すようになってしまい、スズリヨはたいそう困惑した。
それを見たダグラスが肩をそびやかして
「そうやって、男も女も骨抜きにしちまうんだから、罪な女だねぇ。我らが勝利の女神様は」
などと囃し立てるので、スズリヨは危うく「誰のせいだと思っている」と口走りそうになった。すんでのところで思いとどまったけれど。
令嬢の秘めたる恋心は、ダグラスにはまだ伝わっていないのだ。第三者が横槍を入れるべきではない。
だから、言い返すかわりに、ダグラスの頭を思い切り殴る真似をした。ダグラスは「おっかねぇ」と言って、腹を抱えて笑っていた。
思い出の中の笑顔は、鋭い牙となってスズリヨの胸の内を噛んだ。
ーーダグラスは、皆は無事だろうか? どうか、無事でいてくれ
風はスズリヨの独断専行の犠牲になってしまった。ダグラスや他の部下達までそうなってしまったら、悔やんでも悔やみきれない。どのように償えば良いのか、皆目見当がつかない。スズリヨの一命を賭しても償いきれない。
悔恨にのまれそうになるスズリヨを囲い込んでいた剛腕が、突如としてスズリヨの胴に回り、スズリヨを抱き締めた。
剥き出しの乳房をルルヴルグの胸板に押し付けられ、羞恥で顔が火照ったのはほんの一瞬のこと。次の瞬間、強い締め付けによって胸郭が強く圧迫され、息が詰まった。気付いた時には、足裏が床を離れていた。
スズリヨとルルヴルグの目線が水平に交わる。ルルヴルグの視線は鋭くスズリヨを射抜く。
そうして、ルルヴルグはスズリヨを抱えて歩き出す。一歩、また一歩。歩みを進める毎にスズリヨの身体は揺さぶられ、背骨や肋骨が悲鳴を上げて軋んだ。
スズリヨは苦痛に身悶え、必死に足掻いた。ルルヴルグの脇腹のあたりを引っ掻いたが、硬い鱗には爪が立たない。向脛あたりを蹴りつけようとしたが、麻痺した足は思うように動いてくれない。ルルヴルグは何の痛痒も感じていないようだ。
甲高い耳鳴りの向こうから、ルルヴルグの声がする。
「スズリヨは完璧な女だと思っていたが、必ずしもそうとは限らぬようだ。番の前で他の男の名をさも恋しそうに呼ぶなど、いささか無粋ではないか?」
酸欠に朦朧とする意識の端にしがみつき、ルルヴルグの言葉を辛うじて理解する。続く言葉はざらざらとした砂のようで、溜息と共に耳孔にふきこまれた。
「ダグラス、その名には覚えがあるぞ。イリアネスの戦士、スズリヨ隊の什長。戦場にて名乗りを上げ、ルルヴルグと一騎討ちして、敗れた勇士。お主が死の淵より救い出した男だ」
ダグラスの名を耳にして、スズリヨは瞠目した。
ーー……わたしは、知らず知らずのうちに……ダグラスの名を口にしていたのか
そして、それを聞き咎めたルルヴルグによって、文字通り、締め上げられているのだ。
スズリヨの耳許で、ルルヴルグはひとりごつ。
「なるほど。ダグラスは、ルルヴルグの恋敵なのだな」
その言葉の端々には悋気が滲み出していた。
スズリヨははっとして、目を見開いた。霞が晴れ、ルルヴルグの顔に焦点が合う。
ルルヴルグは微笑んでいる。しかし、細めた目の奥には火花が散り、今にも導火線に火を点けようとしているようだ。
その歪な微笑は、まな板の上の鯉にされたスズリヨの心胆を寒からしめるには十分だった。
どんなにイリアネス語を流暢に操ろうが、どんなに人間と見紛う容姿をしていようが、やはりルルヴルグは骸竜、野獣同然の獣人だ。野獣の雄は、目当ての雌と番う為なら、恋敵を殺めることも、雌を傷付けることも、厭わない。
そんな野獣の如き男を前にして、スズリヨはつい失言してしまったのだ。あまりのことに、開いた口が塞がらない。
ーー迂闊だ。迂闊にも程がある。不用意に部下の名を口にして、敵の注意をそちらに向けてしまうとは。何たる失態だ
ダグラスは力自慢の大男で、腕っぷしは強く、剣の腕も一流だ。それでも、ルルヴルグには遠く及ばない。
ダグラスが無事だと仮定して。もしも、ルルヴルグがダグラスに目を付けたとしたら、どうなるだろうか。ルルヴルグは蛇のように執念深く、ダグラスの命を付け狙うのではないだろうか。そうなれば、ダグラスは従軍する限り、遅かれ早かれ、ルルヴルグに命を獲られることになるだろう。
ーーあの気の良い男に、わたしのせいで、理不尽な苦難を背負わせるのは、嫌だ。何としても、誤解を解かなければ
スズリヨは藁にも縋る思いで、ルルヴルグの背中に腕を回し、肩を掴んだ。少しでもずり上がれば、呼吸が楽になる。そうすれば、話せるようになる。
一連の動作を抵抗と見做されれば、絞め落とされるかも知れなかった。ところが、そうしなかった。それどころか、スズリヨを拘束する腕の力を、ほんの少しではあるけれど、緩めた。
スズリヨは大きく息を吸い込んで、圧し潰されそうな胸を膨らませようとする。その試みは成功したとは言い難いけれど、何もしないよりはましだった。
スズリヨは目睫の距離でルルヴルグと見つめ合う。ざらざらとした砂色の視線が、スズリヨの神経を鑢をかけるようだ。それでも、目を逸らさない。目を逸らしたら、比喩ではなく、喉笛を食い千切られるかもしれない。
ぎりぎりと絞められる胸から絞り出した掠れ声に、気力を振り絞って、途切れ途切れの言葉を乗せる。
「媚薬と、聞いて、ただ、思い出した、だけだ。昔、ダグラスを慕う、女性が、ダグラスに媚薬を、使って、恋の成就を、図ったことが、あった、と。それだけ、だ。わたし達は、貴殿の言う、ように、互いを特別視しては、いない。愚にも、つかぬ、邪推を、してくれる、な」
息も絶え絶えになりながら、とにかくこれだけは言わねばらない。脅迫観念じみた使命感に駆られ、言い切った。
すると、スズリヨを抱き締める腕の束縛が緩み、拘束が解かれた。浮遊感、反転する視界。気が付くと、スズリヨは柔らかな寝具に仰臥していた。
重苦しい身体がふっと軽くなり、暗く狭くなっていた視界が明るく開ける。
締め付けられていた喉と胸を、空気が押し開く。空気は喉を駆け抜け、肺に雪崩込み、胸が膨らんだ。
突然で急激な解放に、身体が付いて行けない。スズリヨは咳き込んだ。ルルヴルグは寝台の縁に腰掛ける。常日頃、ルルヴルグの恵体を受け止めているであろう寝台は、スズリヨとルルヴルグの二人を乗せてもびくともしない。
ルルヴルグは開いた膝に肘をのせ、前傾姿勢をとった。首を捻り、スズリヨを見下ろす。
涙の膜を通して見るルルヴルグの微笑は、まるで石膏に彫刻したかのような、奇怪な静謐を保っていた。
「なんだ。ダグラスは、お主に想いを告げていないのか。気骨のある男だと見込んでいたが、とんだ惰弱者だな。所詮は敗者、死すべき者ということか」
ルルヴルグは含み笑う。それは紛れもない嘲笑だった。強者を敬い、弱者を蔑ろにする、いかにも骸竜らしい嘲笑である。
それを目の当たりにすると、思い出してしまう。心の奥底に鍵をかけて仕舞い込んでも、決して忘れられない。
骸竜の襲撃から妻子を守る為、父は決死の覚悟で骸竜に立ち向かった。父は敗北し、骸竜はたっぷり戸時間をかけて父を甚振った。弱い癖にと嘲り、笑いながら。
最悪の記憶から幻滅の汚濁が滲み出し、スズリヨの胸中を満たした。
ーールルヴルグどのは、高潔な戦士だと思っていた。人と骸竜の隔たりを超えて、敗者を褒め称えるなんてこと、高潔な戦士でなければ成し得ないと。……とんだ見込み違いだったな
勃然とした怒りに駆られ、スズリヨは上体を起こした。ルルヴルグの胸倉を掴まんばかりにーールルヴルグは上半身裸なので掴む胸倉は無かった。有ったとしても、寝台の上で彼に触れるのは憚られる為、そうしなかっただろうーー食って掛かった。
スズリヨはきりきりと歯を食いしばりながら、呼吸を調える。そして、言った。
「わたしが無粋ならば、貴殿は無礼だ。ダグラスは勇敢な戦士であり、信頼に足る人格者でもある。惰弱者ではないし、死すべき者でもない」
ルルヴルグはスズリヨをまじまじと見つめた。暫時を経て、ほうっとため息をもらす。
「それは、わざとやっているのか?」
ルルヴルグはスズリヨの顔に手を伸ばした。鋭く黒光りする骸竜の爪がスズリヨに眼前に迫る。
ーー母さんを縊殺した骸竜の爪も真黒で、ぴかぴか光っていた
骸竜の指が引き攣った頰に触れようとする。
スズリヨは戦慄し、ルルヴルグの手を振り払った。




