57.スズリヨ ルルヴルグの愛馬
噴煙に巻かれた硫黄の結晶のように黄色く光る目、その瞳孔が開く。それはぎょろりと目を剥いて、次の瞬間、巨大な嘴を扉の隙間に突っ込んだ。
木靴のような形をしていて、よく拭き込まれた槍の柄のように艶々と黒光りがする、大きくて分厚い嘴だ。これには見覚えがある。これに噛み裂かれ、噛み砕かれる人々の凄惨な死に様は、彼等の末期の恐怖と怨恨と共に、スズリヨの目に焼き付いて離れない。
ーー骸竜の馬!
スズリヨは咄嗟に扉を押し返し、嘴の侵入を防ごうとする。しかし、麻痺した足では踏ん張りがきかず、力負けして、跳ね飛ばされる。このまま倒れるしかない。後傾しながら、せめて受け身をとろうとした。
ところが、スズリヨが倒れることはなかった。何者かが音もなく香もなく忍び寄り、仰向けに倒れかけるスズリヨを抱きとめたのだ。
ーーなに!?
スズリヨは目を瞠った。
巨船を繋留する舫い綱のように、力強い右腕がスズリヨに巻き付いている。
大の男に比肩する大柄なスズリヨをすっぽりと抱え込む巨躯。筋骨隆々で骨太のがっしりとした体つきをしていて、胸は広く、とても力が強い。
背を預ける胸板は硬く冷たく、石柱に凭れているような錯覚を起こしてしまう。
素肌と素肌が触れ合っている。人肌には有り得ない、ひんやりとして滑らかな鱗甲の感触に、スズリヨは総毛立つ。
誰がスズリヨを抱きとめたのか。誰何するまでもなく明らかだった。
ーールルヴルグどの!
ルルヴルグを振り仰ぐより先に、骸竜の馬が扉を抉じ開ける。黒黒とした敵意に満ちた目がスズリヨを真正面から捉えた。
骸竜の馬は長い首を伸ばし、顔を突き出す。スズリヨの目と鼻の先に嘴を突き付け、咆哮する。血に塗れ、獣臭と血臭が混じる、おどろおどろしい口腔がスズリヨの視界を埋め尽くす。
歯牙の内、前上顎骨に生えている四本は大きく、その後方の上顎骨に生えている物は小さい。下顎の歯もそれに対応している。舌と上顎にギザギザの突起が喉奥に向かってびっしりと生えており、櫛比する歯牙の間には、所々、肉片や布片が挟まっていた。
スズリヨの頭を丸齧りにしてやると言わんばかりに大きく開かれた嘴。ルルヴルグは左手でその上嘴の嘴尖をむんずと掴んだ。
「こら、ショルヒ。スズリヨを脅かすな。驚いて、転んだり何かにぶつかったりしたら、怪我が悪化してしまうだろう」
ルルヴルグの言葉を聞いて、スズリヨは目を丸くする。
ルルヴルグはスズリヨの負傷の回復を望んでいる。それは、明白な事実だ。敢えて言葉にしなくても、スズリヨが彼の手当てを受けていた事実は変わらない。
しかし、腑に落ちない。
ーールルヴルグどのが、戦利品としてわたしを欲したということは、理解し難いが、理解した。だったら、何故、怪我の治療をするんだ? わたしが、潔く負けを認めて、花嫁なり奴隷なりに甘んじるとでも? 潔く首を差し出したルルヴルグどのに背を向けた、このわたしが? 有り得ない。好機が到来すれば、わたしはルルヴルグの許から逃げ出す。あわよくば、その首級を手土産にして、姉さんの許へ帰る。それがわからない間抜けではなかろうに。わたしがルルヴルグどのだったら、わたしの足なんか、いっそ切り落としてしまうだろう
悶々とするスズリヨの悩みをよそに、ルルヴルグとショルヒはひたすら見つめ合う。とりわけショルヒは、スズリヨなど眼中にないようだ。
ショルヒはぱちぱちと瞬きをして、ぐるると唸った。その様子は、いかにも心外そうだ。主人であるルルヴルグに窘められ、不服に思う心が確かにあるのだろう。
ショルヒが言葉を話せたとしたら
「主人の獲物の逃走を阻止したのだから、己は褒められて然るべきであり、文句を言われる筋合いはない」
とルルヴルグに抗議したかもしれない。
しかし、実際は、仮にショルヒがルルヴルグの言葉を解していたとしても、ショルヒは言葉を話せない。怨めしそうにスズリヨを睨み、獰猛に牙を鳴らして、不満を露わにする。それが、ショルヒに出来る、精一杯の主張なのだろう。
スズリヨでさえショルヒの不服を察したのだから、主人であるルルヴルグにそれが出来ない筈がない。ルルヴルグはショルヒの上嘴を軽く揺すり、ショルヒの注意を引くと、ぐいと引き寄せた。されるがままに引き寄せられたショルヒの嘴を左肩に担ぐ。きょとんとするショルヒの左目に、ルルヴルグの横顔が映る。目許にも口許にも笑みはない。ルルヴルグはショルヒを流し目に見て、言う。
「よく聞け、ショルヒ。スズリヨを脅かすな。傷つけるな。お、ど、か、す、な。き、ず、つ、け、る、な。いいな?」
しごく淡々とした口調と態度には、有無を言わせぬ貫禄があった。
そして、ルルヴルグはあっさりとショルヒを解放した。ショルヒは目をぱちくりさせた。ルルヴルグの左肩に嘴をのせたまま、ルルヴルグを見つめる。ルルヴルグは何も言わず、ショルヒと目も合わせない。
ショルヒはくんくんと仔犬のような甘えた声を上げながら、ルルヴルグの頰に嘴を擦り寄せたが、ルルヴルグは微動だにしない。嘴で頰を突かれ、舐められても知らん顔だ。
そんな膠着は暫く続く。何とかしてルルヴルグの気を惹こうと腐心していたショルヒも、ルルヴルグが見向きもしないので、ついに根負けしたようだ。徐に後退すると、嘴を合わせ、頭を垂れる。見知らぬ街の雑踏で親とはぐれた迷子のように、おろおろと狼狽えていて、心細そうに見える。
思い掛けない、骸竜の馬の豊かな感情表現を目の当たりにして、スズリヨは驚き入る。
骸竜の馬とは、とにかく凶暴な、血に飢えた猛獣であると、スズリヨは認識していた。しかし、ルルヴルグの歓心を買おうとするも失敗し、悄然として項垂れるショルヒは、まるで愛すべき忠良な犬のようだ。
胸の内で膨らむ、奇妙な憐憫の情に戸惑うスズリヨの頭上で、ルルヴルグが失笑する。
「ショルヒ」
ルルヴルグの呼び声に応じて、ショルヒはぱっと顔を上げる。ショルヒの顔を見て、ルルヴルグは笑う。
「そんな、しょぼくれた顔をしないでくれ。ルルヴルグは怒っていない。わかってくれれば、それで良い」
スズリヨはショルヒの顔を凝視し、首を捻る。
ーーこれは、しょぼくれた顔、なのか……? わたしを威嚇していた顔と、何が違うんだ? 嘴を開けているか閉じているか、それくらいじゃないか?
ショルヒがしょぼくれているのは一目瞭然なので、その解釈に異論はないのだけれど。
しょぼくれたショルヒの目を覗き込み、ルルヴルグはショルヒを手招く。
「ショルヒ、おいで」
ルルヴルグが言い終えない内に、ショルヒは一歩踏み込んで、ルルヴルグの左手に額を押し付けた。鍛え抜かれたルルヴルグの体幹であっても、仰け反り一歩後退せざるを得ない衝撃を与える、凄い勢いだった。
ルルヴルグはすぐに体勢を立て直し、ショルヒの羽冠をわしゃわしゃと撫で回す。
「おう、よし。よしよし。ちゃんと見張っていてくれたんだよな。ありがとう」
ルルヴルグが労いの言葉をかけると、うっとりと目を閉じてルルヴルグの愛撫を堪能していたショルヒが顔を上げた。
ーーなんだか、目が据わっているような?
スズリヨがそう訝しんだ、次の瞬間。ショルヒが、がばりと大口を開けた。ルルヴルグの笑顔は、ショルヒの口腔にすっぽりと納められる。
スズリヨはぎょっとした。
飼い犬に手を噛まれると言う諺があるが、よもや、ルルヴルグが愛馬に頭から喰われる瞬間を目の当たりにするとは。
ーーこのまま、ショルヒが顎を閉じれば、ルルヴルグどのの頭は噛み砕かれてしまう!
スズリヨが咄嗟に、ショルヒの嘴を抉じ開けてようとする寸前。くぐもった声が聴こえてきて、スズリヨはルルヴルグの救出を思い留まった。
これが、悲鳴や苦鳴の類であれば、スズリヨは後先考えず、ルルヴルグを救おうと奮闘しただろう。しかし、ルルヴルグは呑気に笑っていた。「拗ねるな、拗ねるな」と言って、ショルヒの上嘴を撫でている。
ーー甘噛み、なのか? 甘噛み、なんだろうな? ショルヒが敵意をもって噛み付いているなら、ルルヴルグどのがいくら能天気……否、剛胆でも……とても笑ってはいられない筈だ
スズリヨがそうして自分に言い聞かせていると、ルルヴルグが「あっ、痛い、痛い。ショルヒ、痛い」と言出だしたので、スズリヨは俄に焦り出す。
ーー大丈夫じゃないのか? やはり、助けが必要か!?
しかし、痛みを訴えるルルヴルグの声調はのんびりと間延びしており、緊迫感がない。だから、スズリヨはなかなか踏ん切りがつかない。
スズリヨがまごまごしているうちに、ショルヒの気が済んだらしい。ルルヴルグの頭頂部と顎下をあぐあぐと噛んでいた嘴をぱかりと開き、ルルヴルグを解放した。
ルルヴルグはショルヒの涎まみれになりながら笑っている。「べたべたになった」と言って呵々と笑い、左手の甲で顔に纏わりつく愛馬の涎を拭う。牙によって額が傷付いたらしく、小さな裂傷から血が溢れている。額を伝い落ちる一筋の血もショルヒの涎と一緒くたにして、無造作に拭った。
ーー無事だったか。無傷ではないが……まぁ、この程度の掠り傷、あってないようなものか。あの嘴に挟まれたら、ショルヒにそのつもりがなくても、皮膚が傷付くだろうし
ルルヴルグはショルヒの首に手を回し、引き寄せると、その羽毛に顔面と左掌を擦りつけた。涎を拭っているのだろうけれど、ショルヒはルルヴルグが甘えている思ったのだろう。くるくると喉を鳴らしながら、その長い首でルルヴルグの肩を抱く。ルルヴルグの耳殻を舐め、束髪をさりさりと噛む。そうして、スズリヨに目を向けた。
思いがけず目が合い、スズリヨはたじろぐ。そんなスズリヨを打ち見て、ショルヒはルルヴルグの頰をべろりと舐めた。ルルヴルグはショルヒの嘴をぽんぽんと叩いて、苦笑する。
「ショルヒ、もう勘弁してくれ。そんなに舐められたら、飴のようにとけてしまいそうだ」
ーー飴だって? ルルヴルグどのは、飴を嗜好するのか?
そもそも、ルルヴルグが飴を認識していること自体が驚きだ。蜥蜴人は肉食であり、砂糖を煮詰めて固めて食す文化はないだろうと思われるのだが。
ーールルヴルグどのが、人間の血を継いでいるから? 両親のいずれかが人間であれば、ルルヴルグどのが果物や野菜を食べることや甘味も嗜好することを教わる機会があっても不思議ではないか。戦利品、略奪品の中には砂糖菓子の類もあるだろうし、他の骸竜族は目もくれないそれらにルルヴルグどのが手を伸ばすこともあるだろう
そんな他愛もない疑問にすっかり気を取られ、ルルヴルグが「後はルルヴルグに任せて、ゆるりとお休み」と言ってショルヒを送り出す段になって、はっとした。
ショルヒはくんくんと鼻を鳴らし、ルルヴルグの首筋に頭を擦り付けて、甘えている。なかなかルルヴルグを放そうとしない。そんなショルヒをルルヴルグは根気強く説き伏せる。ショルヒは渋々ルルヴルグを解放し、後ろ髪を引かれる思いで扉の向こうへ首を引っ込める。ルルヴルグはショルヒを笑顔で見送ると、利き手ではない左手で軽々と扉を閉めた。
ーーわたしが自力で開けようとしても、扉はびくともしなかったのに
力の差は歴然としている。スズリヨに己の敗北と窮境を突き付けた。
閉ざされた部屋はしんと静まり返る。重苦しい沈黙より、ルルヴルグによる拘束をより重々しく、苦々しく感じた。
スズリヨを抱く腕が、スズリヨをさらに抱き寄せる。剛い腕に胸を締め付けられ、踵が浮いた。息を詰めたスズリヨの耳許で、ルルヴルグが含み笑う。
「もう歩けるとは、流石だな」




