55.スズリヨ 失態
スズリヨは目を開いた。仄暗い。そして、白い。濃霧で視界が利かない。そんな感じだった。
ーーここは……?
と、おぼろげな意識が呟く。
眠っているのとも、覚醒しているのとも違う。その狭間、ちょうど中間の微睡みに、意識が揺蕩っている。
ーーわからない。何も、わからない。だけど……なんだか、心地良い
意識は、安寧に身を委ねたがり、昏睡のぬかるみの底に潜り込もうとする。夢と現の間から、抜け出せない。抜け出したくない。
ーーこのまま、ずっと、こうしていたい
そんな怠惰な願望が、覚束ない意識を絡め取って放さない。
大きな欠伸をひとつして、自身を包む温もりに擦り寄る。
ーー柔らかくて、暖かくて、安心する
うっとりと目を閉じる。その安らぎは、心覚えのあるものだった。
「眠れないの」
眠れない夜、スズリヨは枕を抱えて、姉の枕元に立つ。姉は、スズリヨの甘ったれた口のききように苦笑しながら「おいで」と言ってくれる。泣く子をあやして、寝かしつける母親のように、スズリヨを寝床に招き入れてくれる。
姉の温もりで温まった寝床に入ると、姉に抱きしめられたかのように感じられる。
姉に添い寝をして貰い、ぬくぬくと眠る一時は、スズリヨにとっては、至福のひと時であった。
ーー姉さん
目を閉じたまま、手探りで姉を探す。しかし、伸ばした手指は毛布の毛並みを掻き分けるだけだった。熱源を探し求めるうちに、指先が何か、弾力のある、柔らかいものに触れた。
人肌ではない。撫でてみると、表面は滑らかでつるりとしている。ぽかぽかと温かく、そして、どくん、どくん、と脈動している。
スズリヨはぎょっとして目を開いた。
ーーなんだ、これ!?
わっと喚いて半ば跳ね起きる。その勢いのまま、毛布を捲ると、何かが寝台から転がり落ちた。
スズリヨは寝台から身を乗り出し、転がり落ちた何かを目で追う。板張りの床を転がるのは、大きな卵のような、何かだった。
ーーなんだ、これ?
何かの正体を突き止めるべく、仄暗い灯りの下で目を凝らす。
形は楕円体。大きさは鶏卵の三十倍はあろうか。色調は夏の陽射しにかざした琥珀を思わせる。中心から淡く発光している。
さらに目を凝らす。琥珀色の外殻の裏面に、赤黒い微細な網目模様が透けて見える。内側は液体に満たされており、その中で、細長い黒影が蠢いた。
「なんだ、これ!?」
思わず知らず、スズリヨは素っ頓狂な声を出す。
ーーなんだ、これ!? 卵? 何? 何の卵?
あんな得体の知れないものが、自分の懐に潜り込み添い寝をしていたと思うと、ぞっと水を浴びたような戦慄を感じた。
ーーまさか、これだけじゃない……まだ、他にも何か妙な物が潜り込んでいる、ってことはないだろうな!?
寝台の上を検めるべく、毛布を床に蹴り落とす。露わになったのは、一糸纏わぬスズリヨの裸体のみで、他には何もない。
そのことに安堵するよりも、意図せず全裸になってしまったことに動揺する。寝台から飛び降りて、床に落ちた毛布を拾い上げる。
そして、はっとした。
ーー動ける。でも、膝から下の感覚が無い
自身の異変を自覚した途端、スズリヨは後ろによろけて、そのまま寝台の上にへたり込む。
ーーまだ、麻酔が効いているようだ。感覚が無いのは心許ないが、動けるには動けるか?
物は試し、と再び立ち上がろうとした時、下腹部が疼痛を訴えた。
咄嗟に、下腹部に手を添える。そこから痺れを伴う倦怠感がじんわり染みるようにひろがり、スズリヨは凍りつく。
ーーそうだ。わたしは、ルルヴルグどのに敗北し、捕虜となり、そして……ルルヴルグどのに……
ルルヴルグ曰く「初夜」の顛末を思い出し、スズリヨは赤面した。毛布を引っ被って、寝台に倒れ込む。
ルルヴルグがスズリヨを「ルルヴルグの花嫁」呼ばわりし、「祝言」と称して覆い被さって来た時、スズリヨは処女喪失を覚悟した。
スズリヨは処女だった。しかし、大多数の処女のように、無知でも無邪気でもなかった。伊達に少女の頃から男所帯に揉まれて過ごしていない。男女の性交渉とは、女の中に男が押し入ることであると知っていた。破瓜は苦痛を伴うということも。
苦痛ならば耐えられる。屈辱は堪えるだろうが、姉を想えば耐えられよう。
そう、容易く高を括っていたのである。
ところが、いざ蓋を開けてみると、些細な苦痛はあっという間に過ぎ去って、その後は延々と、身に覚えのない感覚に振り回された。それは大変な屈辱だった。
とどのつまり、見通しが甘かった。処女喪失の正しい予測と心構えが出来ていなかったのだ。
女の快感は心に付随すると信じていた。身体を抉じ開けられても苦痛と嫌悪に悶えるだけ。心を開かなければ女体が花開くことはないと。
それなのに、どうしたことか。敵将に組み敷かれ、身体を開かれ、スズリヨは狂わされた。
心身を炙る熱。秘部を苛む、甘ったるい掻痒感。火照る肌を弄ばれ、潤む花蕊を貫かれ、失神と覚醒を繰り返した。込み上げる法悦を堪えようにも堪えきれず、挙句のはて、呂律も回らない無様を晒すまで、追い詰められた。
妄執じみた執念深さに嬲られ、身に宿る快楽という感覚を残らず暴き立てられた。矜持を薙ぎ倒され、意識も理性も支えきれなくなり、そして、狂わされた。
色狂いの誹りを免れない有様である。思い出すだけで、悶絶どころか悶死しそうだ。
ーー嫌だ。あんな無様を晒して……! 姉さんにあわせる顔がない。わたしは、どうして、あんな……もう、嫌だ……!
スズリヨは心の中で泣き言を漏らし、頭を抱えた。情けなくて、恥ずかしくて、涙が出そうだ。
目頭が熱くなる。涙が玉を結んで流れ落ちる寸前、スズリヨは頭を振った。
ーーわたしのバカ! 泣くな! しっかりしろ!
スズリヨは両手で目元をごしごしと張った。
祖国の報仇雪恨に身命を賭す姉と共に生きると誓って以来、女の幸福など望むべくもないとして生きてきた。
姉は乙女の誇りを犠牲にして、スズリヨを守ってくれていた。姉の為に、姉と共に生きる。それがスズリヨの望みだ。その望みが叶うなら、行く先に手ぐすね引いて待ち受ける、危険も苦難も堕地獄も、何も恐れないと誓った。
ーー女として、最悪の汚辱を被った。それが何だ。そんなことで、屈するものか。わたしは五体満足で生きている。まだ戦える。戦えるからには、姉さんのもとに帰る。何としても!
スズリヨは目を閉じ、深呼吸をして神経を鎮めてから、両手で両頬を思い切り張った。そうして自分に喝を入れる。頬を染める色が、含羞の色から、奮起の高揚の色に移ろう。
スズリヨは、よし、とひとりごつ。まずは現状を把握しようと毛布の下から顔を出した時、頭上から忍び笑いの声が降ってきた。
この声を、忘れられる筈がない。この声が、耳孔に水飴を垂らすかのように、甘く粘る睦言を囁き、スズリヨを翻弄したのだ。
寝そべったまま、首を捩って振り仰ぐ。声の主は、穹窿形の天井を支える二本の柱に掛け渡した釣床に横たわっていた。




