表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
野獣の花嫁  作者: 銀ねも
54/58

54.ドルエルベニ「お前が悪いんだ」

グロテスクな描写を含みます。

 ドルエルベニは声もあげずに棒立ちになる。垂頭喪気となったドルエルベニの横を、ルルヴルグがすっと通り過ぎた。ドルエルベニはルルヴルグの後ろ姿を目で追う。それが習い性となっている。


 ルルヴルグは扉の前で立ち止まった。扉を開き、家主の許しを得ず、勝手にマムナリューカを出迎える。


 マムナリューカは、予期せずしてルルヴルグと顔を合わせることになったのだろう。爛漫たる笑顔に、静かな波紋が広がる。それは瞬く間に収まったが、その後の笑顔は、心做しか強張っているようだった。


 ルルヴルグはマムナリューカに対して、丁寧に膝折礼をする。骸竜の戦士は頭顱を晒し、相手に敬意を示すのである。小さなルルヴルグは膝を折らずとも、無遠慮にマムナリューカの顔を仰ぎ見ない限り、頭顱を晒すことになるのだけれど。


 ルルヴルグは慎ましやかに目を伏せて、口を開く。


我々は(ビャッ・)良い黄昏を(メメ・オンロン・)迎えた(ペユイエ)、ドゥムス・マムナリューカ」

「ええ、どうも」


 礼を尽くしたルルヴルグに対して、返礼するマムナリューカはそっけない。無愛想と言って良い。しかし、実のところ、彼女の応対は極めて良心的と言える。大多数の女達はルルヴルグを持たざる者と見做し、まともに挨拶を交わそうとしない。


 ルルヴルグには、女達から白眼視されている自覚があるだろう。女達の嫌厭はあからさまだから、どんなに無頓着であろうと、無自覚ではいられまい。それでも、ルルヴルグが女達の冷たい仕向けに腹を立てることはないようだ。


 ヴルグテッダは愛息に、女小人にはひたすら寛容であれと教えたのだろう。ヴルグテッダ自身がそうだった。


 だから、ルルヴルグは「ドゥムス・マムナリューカの寛大な気持に感謝することはあっても、気分を害することは全くない」と考えるのだ。


 ルルヴルグはさらに頭を下げると、床に片膝をついた。ルルヴルグがにこやかに微笑みかける先には、マムナリューカの足にしがみつく幼い小女がいる。ニヴィリューオウの一人娘、シャンヴィーだ。


 シャンヴィーはルルヴルグをきっと睨み、頭を上下に、小刻みに振っている。今にも、口を大きく開けて、声門から鋭い破裂音を出して、ルルヴルグを威嚇しそうだった。


 シャンヴィーはドルエルベニのような強面の巨漢を前にしても物怖じしない、肝が据わった小女だ。人見知りをする性質ではない。


 シャンヴィーはルルヴルグに敵意を向けているのである。


 理由は、考えるまでもない。父であるニヴィリューオウが、ルルヴルグを敵視するからだろう。幼子は親の真似事をしたがるものだ。


 シャンヴィーが警戒心を露わにする理由を、知ってか知らずか。ルルヴルグは微笑ましい気でシャンヴィーを見ているようだ。小人達に手作りの玩具を配るだけあって、小人が好きなのだ。


「ドゥムス・シャンヴィーも」


 ルルヴルグはそう言い、頭を垂れる。略式とは言え、丁重な挨拶である。小人相手にここまでする大人はさだめし珍しいだろう。


 それなのに、シャンヴィーは気に入らなかったらしい。シャンヴィーは口を大きく開けて、甲走った声を上げた。


「『ドゥムス・シャンヴィーも』だって! ついでにご挨拶だなんて、失礼しちゃう。シャンヴィーは小母様のおまけじゃないのに!」


 ルルヴルグはびっくりして、目をぱちくりさせる。眉を落とし、シャンヴィーの顔を覗き込む。


「これは失敬。そんなつもりは無かったのだが」


 ルルヴルグはすんなり己の非を認めて謝罪したものの、シャンヴィーの怒りは収まらない。口を大きく開けて、怒鳴り散らす。


「言い訳するの!? 軍団長なのに!? シャンヴィーの父様は、絶対に言い訳なんかしないわ!」


 シャンヴィーの、噛みつかんばかりの剣幕に、ルルヴルグは驚き、軽く仰け反ったまま目を丸くする。シャンヴィーはぷりぷりしていて、ルルヴルグには手が付けられない様子だ。


 ルルヴルグは幼子の無作法に、いちいち目くじらを立てる、狭量な男ではない。そうであっても、シャンヴィーの悪態は目に余る。


 ーーシャンヴィーを叱らねば


 牙軍団長ニヴィリューオウの愛娘を叱責するのは気が重いが、それを言うなら尚更、鉤爪軍団長ルルヴルグに対する無礼を許してはなるまい。


 ドルエルベニは唸るような調子で咳払いをする。さぁ、叱るぞ。と意気込んだ矢先に、マムナリューカの尾がしなり、シャンヴィーの左腕をぴしゃりと打った。


 シャンヴィーは飛び上がり


「痛い! 小母様、どうしてシャンヴィーを打つの!?」


 と喚く。マムナリューカはシャンヴィーを見下ろし、ゆるゆると頭を振った。


「シャンヴィーの無作法を窘める為に打ったのよ」

「無作法!? 無作法なのは、軍団長ルルヴルグでしょ!?」

「それ以上はおよしなさい。見苦しい」

「でも、小母様! シャンヴィーは悪くないよ! 父様だって、きっと、シャンヴィーの言う通りだって言うもん!」

「もう、お黙り」 


 マムナリューカはぴしゃりと言った。叔母の怒気を肌で感じたであろうシャンヴィーは、うっと息を詰める。大きな目はみるみる内に潤んだ。


「こんな時に父様がいてくれたら、シャンヴィーの味方をしてくれるのに」と、シャンヴィーは考えているのかもしれない。


 ニヴィリューオウがこの場に居合わせたとしたら。シャンヴィーは父に泣きつくだろうし、ニヴィリューオウは愛娘の肩を持つだろう。ニヴィリューオウがシャンヴィーを叱るところを、ドルエルベニは見たことがない。


 二、三年前のことだろうか。ドルエルベニの移動式住居にて、遊びに夢中になったシャンヴィーが粗相をしたことがあった。マムナリューカがシャンヴィーを叱ると、シャンヴィーは火がついたように泣きだした。


 すると、何処からともなくニヴィリューオウが現れた。「邪魔するぞ」と言い置いて、ドルエルベニの移動式住居に上がり込み、シャンヴィーを抱き上げる。父の首ったまにかじりついて号泣するシャンヴィーをあやしながら、挨拶もそこそこに去っていった。ドルエルベニは呆気にとられながら、ニヴィリューオウとシャンヴィーを見送った。


 マムナリューカは兄と姪の非礼を詫び、そして、憤懣やる方ないと言って嘆息した。


「兄様ったら、いつもあの調子なのよ。『よしよし、シャンヴィーは良い子だ。愛しい子。シャンヴィーは何も悪くない。父様はいつだってシャンヴィーの味方だぞ』なんて言っちゃって。呆れてしまうでしょう? 兄様がシャンヴィーを甘やかすから、マムナリューカは厳しくするしかないのに」


 ーーニヴィリューオウは、昔からそうだった。幼いマムナリューカをあやしながら、似たようなことを言っていた


 そう思っても口には出さない。口に出せば、話をはぐらかすつもりはなくても、そう捉えられかねない。そう考えて、ドルエルベニは当たり障りのない応答を選んだ。


「ドゥムス・マムナリューカはしっかり者だ。叔母としても妹としても。軍団長ニヴィリューオウは、ドゥムス・マムナリューカを頼りにしているのだろう」


 甘えているのだろう、と言うのが本音だが、そうは言わない。ここは本音と建前を使い分けるべきだ。ドルエルベニは朴念仁だが、その程度は弁えている。


 すると、マムナリューカははにかんで微笑んだ。その笑顔はただ可憐で美しかった。性質も容貌も皆良いのだから、高嶺の花になるべくしてなったのだと、ドルエルベニは思った。


 そうして、ドルエルベニが過去を思い出している間も、シャンヴィーは無言の抵抗を続けていたようだ。


 涙ぐんでいるシャンヴィーを尻目にかけながら、マムナリューカはルルヴルグに向き直り、頭を下げた。


「姪の無作法をお詫びします、軍団長ルルヴルグ」

「えっ? いや、別に、そんな」


 ルルヴルグは自分を見下ろす凛とした顔と、見上げる恨めしそうな顔を交互に見る。ちょっとおろおろしながら、しどろもどろになりそうになるのを、辛うじて堪えた。そして、たぶん、座をとりなすつもりで、こう言った。


「ご高配にあずかり、重々痛み入る。しかし、今のは、ルルヴルグの配慮が足りなかったのだ。ドゥムス・シャンヴィーを、あまり叱らないであげて欲しい」

「団長ルルヴルグの寛容な御心に感謝します。シャンヴィー、軍団長ルルヴルグにお礼を申し上げなさい」

「そんな! いや! 絶対にいや!」


 ルルヴルグに対する謝礼を促され、シャンヴィーの自尊心が悲鳴を上げたのだろう。シャンヴィーはぶんぶんと頭を振って、叔母の言い付けを拒絶する。しかし、必死の抵抗も虚しく、シャンヴィーは叔母に頭を抑えられた。


 シャンヴィーはルルヴルグを憎々しげに睨む。まるで、親のかたきを目の前に置きながら、おめおめと見ているしかない窮境に追い込まれたかのようだった。


 見かねたルルヴルグが「そこまでして頂かずとも」と言うのに押っ被せて、シャンヴィーは「どうも!」と怒鳴った。


 マムナリューカは牙を打ち鳴らすシャンヴィーの頭を撫でる。何処からどう見ても反省の色が見えないのだが、これで勘弁してやるようだ。シャンヴィーはマムナリューカの手を振り払って、彼女に背を向ける。短い尻尾でだんだんと床を打つ。時折、尻尾の先がマムナリューカのふくらはぎを掠めているのは、わざとだろう。


 マムナリューカは不貞腐れる姪を捨て置いて、ドルエルベニに目を向けた。ドルエルベニはルルヴルグに倣って膝折礼をする。普段は会釈で済ませるが、この場でそうすれば、直属の軍団長の面目を潰すことになる。


 マムナリューカもそれを承知しているのだろう。返礼として会釈した。


「お邪魔しました。明日、また出直します」


 そう言って、踵を返そうとするマムナリューカを、ルルヴルグが呼び止める。


「それには及ばぬ。ルルヴルグはちょうど辞去するところだ」


 ルルヴルグはそう言い、さっと端に避けた。マムナリューカとシャンヴィーを中に通して、自分は出て行くつもりだ。


 小さな後ろ姿だ。しかし、弱々しくはない。ルルヴルグは骸竜の戦士だ。ドルエルベニがここまで育てた。  


 そうであっても、去り行く後ろ姿は、捕食者の本能を刺激する。


 たとえば、ルルヴルグを追い詰めて、踊りかかって、組み伏せたとして。それで、何になるだろう。そんなことをしても、ルルヴルグはドルエルベニの思い通りにならない。命を惜しみ阿るような軟弱者に育てた覚えはない。


「軍団長ルルヴルグ」


 ドルエルベニはルルヴルグを呼び止める。そして、問い掛けた。


「バジッゾヨが、ドルエルベニの後釜に坐るのか?」


 ルルヴルグは振り返り、小鳥のように首を傾げた。


「そうなる見込みもあるだろうが……ドルエルベニ?」


 ーー見込みもあるだろう、だと?


 ルルヴルグは明言しない。何故、明言しないのか。鉤爪の任命権は軍団長にある。邪魔者を追い出して、気に入りを侍らせる。それがルルヴルグの望みだろうに。


 ーー白々しい


 ドルエルベニはルルヴルグの顔を凝視する。平静を装う白皙に困惑が透けて見える。それは、何に対する困惑なのか。ドルエルベニの為、そんな詭弁を真に受けるとでも思ったのか。


 ドルエルベニは口を大きく開けた。牙を打ち鳴らしそうになるのを、辛うじて堪える。マムナリューカの前で、怒りに我を忘れ、醜態をさらす訳にはいかない。


 ドルエルベニはルルヴルグから目を逸らし、その後ろにいる、マムナリューカに目を向けた。マムナリューカは息を呑み、シャンヴィーを背に庇った。


 ーー怯えているのか? 


 マムナリューカは、ドルエルベニが殺気立つのを感じ取ったらしい。ドルエルベニの乱心を懸念しているのだろう。


 それは杞憂だ。ドルエルベニは冷静である。煮え返るように動転していた胸の中は、今は凍てついたかのように不動だ。ドルエルベニは己の言動を律している。そうでなければ、今頃、ルルヴルグは八つ裂きになっている。


 ドルエルベニは一歩前に出る。ルルヴルグはきょとんとした顔でドルエルベニを見上げた。一足一刀の間合いだ。ドルエルベニがルルヴルグを殺そうと思えば、殺せる。それなのに、ルルヴルグは身構える素振りを一切しない。 


 マムナリューカが感じられる殺気を、戦士であるルルヴルグが感じられないはずがないのに。


 ーードルエルベニはルルヴルグを裏切らない。ルルヴルグはそう信じている。だから、無防備でいられる


 ドルエルベニはルルヴルグを守る為なら、水火も辞さず、これまでやってきた。ルルヴルグの命と、ドルエルベニの矜持を天秤にかければ、ドルエルベニは前者を選ぶ。ルルヴルグの命は、ドルエルベニにとって何よりも重い。


 この想いは、きっと、ルルヴルグに伝わっている。だからこそ、ルルヴルグはドルエルベニを信じているのだ。ドルエルベニは決闘を選ばず、ルルヴルグの望みを叶えると確信している。


 ドルエルベニは目を伏せた。幼い頃と変わらないルルヴルグの眼差しが、ドルエルベニの胸に突き刺さるから、ルルヴルグの目を直視したくなかった。


 暫時を経て、ドルエルベニは口を開く。


「いくらかの猶予を頂けるか? 深刻な問題だ。慎重に決断したい」

「首領は、次の戦までに結論を出せと仰せられた。不十分であれば、ルルヴルグから首領に掛け合おう」

「否、十分だ」


 ドルエルベニは一歩退る。これ以上、何も言えないし、言いたくもなかった。


 ルルヴルグはドルエルベニをじっと見つめて、首肯いた。


「そうか。では、ルルヴルグはこれで失礼する」


 そのまま辞去すると思いきや、ルルヴルグの裸足の爪先は、まだ、ドルエルベニの視界の内にある。なかなか動かない。


 ーー何をぐずぐずしている。さっさと出て行け


「ドルエルベニ」


 ルルヴルグの呼び掛けに、応えるのも億劫だ。幾許の沈黙を挟み、ルルヴルグは言った。


「またな」


 ルルヴルグの爪先が、ドルエルベニの視界を外れる。


 ルルヴルグは扉を静かに閉じて、ドルエルベニの移動式住居を辞した。


 いつも通りの、別れの挨拶だった。


 また会える時を楽しみにしている。そんな想いを込める言葉を、ルルヴルグはどんな表情で吐き出したのだろう。


 ーー白々しい……白々しい!


 腸が煮えくり返る。今すぐ、ルルヴルグを追い掛けて、踊りかかって、組み伏して。責苛んで、辱めて、そして、思い知らせてやりたい。


 しかし、それは出来ない。そんなことをしては、すべての努力が水泡に帰してしまう。


 ーー軍団長ヴルグテッダの信頼を裏切ってはなならぬ


 ルルヴルグを守る。この誓いを胸に生きてきた。これからも、決して消えない誓いだ。ルルヴルグが骸竜の戦士として生きる限り、ドルエルベニはルルヴルグを守る。守らなければならない。


 ーールルヴルグがドルエルベニを疎み、拒み、踏み躙ろうと、ドルエルベニはルルヴルグと共に生きるしかない


「……副長ドルエルベニ? 大丈夫?」


 ドルエルベニははっと我に返った。マムナリューカがドルエルベニの顔を覗き込んでいる。花の顔には、気遣わしげな翳りがあった。


 ドルエルベニは顔を上げた。融通の利かない強面に、出来る限り、柔和な微笑みをつくりあげる。


「すまぬ、うつけてしまった。今更になって、行軍中の寝不足が祟っているようだ。戦士達はどいつもこいつも、鼾やら歯軋りやらがうるさくてかなわん」


 我ながら、らしくないと思いつつ、肩をすくめておどけてみせる。


 先刻のマムナリューカは怯えていた。彼女を脅かしたのはドルエルベニだ。ドルエルベニはそれを申し訳なく思っていた。


 それだけではない。マムナリューカはドルエルベニの恩人だ。マムナリューカの訪問が無ければ、ドルエルベニは激情にのまれ、師と交わした約束を反故にしていたかもしれない。そうなれば、ドルエルベニは全てを失っていた。


 マムナリューカが儀礼的に微笑んだのは束の間のこと。すぐに真顔になって、ドルエルベニに問い掛けた。


「あの人族ひとが貴方を苦しめるの?」


 マムナリューカの言う「あの人族ひと」とは、ルルヴルグのことだ。鉤爪軍団長を人族呼ばわりする非礼を聞き咎めるか否か。ドルエルベニは迷った挙句、聞き流すことにした。


 マムナリューカは様子のおかしいドルエルベニを気に掛けてくれている。ルルヴルグに向ける刺々しさの裏には、ドルエルベニを想う真心がある。


 そうと知りながら、マムナリューカを責め立てることは、ドルエルベニの良心に反することだった。


 ドルエルベニはマムナリューカの非礼を非難することなく、無言で首を横に振った。マムナリューカは曖昧に微笑む。それ以上、追及しようとはしなかった。


 ドルエルベニはマムナリューカの賢明に感謝し、話題を変えた。


「ところで、何用か?」


 マムナリューカああ、と曖昧な声を漏らす。そっぽを向くシャンヴィーの頭を撫でて、ドルエルベニに向き直る。


「今朝、お邪魔した時、シャンヴィーが副長ドルエルベニのお宅に忘れ物をしてしまったらしくて。これくらいの大きさの、雛馬を象った石彫なのだけれど、ご存知ないかしら?」


 マムナリューカは両手で掌におさまる大きさを示す。ドルエルベニははたと横手を打った。


「ああ、それならば、預かっているぞ」


 ドルエルベニは食卓の上に置いておいた、石彫の雛馬を手にとる。それをマムナリューカに手渡すと、マムナリューカはドルエルベニと目を合わせ、にこりと笑った。


「ありがとう」


 マムナリューカは腰を屈めてシャンヴィーと向かい合い、石彫の雛馬を差し出した。


「シャンヴィー、副長ドルエルベニがお取り置きくださったのですって。良かったわね、これでまた、お馬さんと一緒に眠れるわよ」    


 ところが、シャンヴィーは石彫の雛馬を凝視するばかりで、なかなか受け取ろうとしない。マムナリューカは不思議そうに首を傾げる。


「シャンヴィー? ほら、お馬さんよ、貴女の大好きなお馬さん。副長ドルエルベニにお礼をお伝えして」


 シャンヴィーはこっくりと肯き、ドルエルベニを見上げ、ぺこりと頭を下げた。


「ありがとう、副長ドルエルベニ。でも、これ、シャンヴィーの玩具じゃないから。友達の玩具だから。ちょっと借りて、遊んでみただけだから」


 シャンヴィーは石彫の雛馬を指差し、早口でまくしたてると、ぷいと横を向く。ドルエルベニとマムナリューカは、困惑して見つめ合った。マムナリューカは跪き、シャンヴィーの顔を覗き込む。


「何を言うの? お友達に無理を言って、譲って貰ったのでしょう。可愛い可愛いと頬擦りして、片時も手放そうとしなかった、お気に入りの玩具でしょう。それなのに、どうしてそんなことを言うの?」


 マムナリューカがそう尋ねると、シャンヴィーは尻尾で床を打ち、金切り声を上げた。


「やめて! 違うもん! お気に入りじゃないもん! こんなの、いらないもん!」


 シャンヴィーは、マムナリューカに飛び付き、彼女の手から石彫の雛馬を払い落とそうとする。マムナリューカはさっと立ち上がり、石彫の雛馬をシャンヴィーから遠ざけた。


「もう、おかしな娘ね」


 マムナリューカは癇癪を起こすシャンヴィーを片手でいなしながら、ドルエルベニに向き直る。


「お騒がせして、ごめんなさい。そろそろ、お暇するわ」


 恐縮しきって辞儀をするマムナリューカを、ドルエルベニは「気に病む必要はない」と言って宥めた。小人とは、大人にはわからない理屈で不機嫌になるものだ。ドルエルベニにも覚えがある。


 マムナリューカは暴れるシャンヴィーを小脇に抱え、ドルエルベニの移動式住居を辞去した。


 ドルエルベニは、移動式住居を背にして、ふたりを見送った。


 マムナリューカとシャンヴィーの姿は、すぐに建物に遮られて見えなくなった。ふたりの言い合いも遠ざかり、終には風にさらわれて聞こえなくなる。後には力のない静寂ばかりが残っている。


 太陽は中空を滑り下りて、沈んでいった。橙色の光が雲母のような雲に吸い込まれ、黒々とした山の影をしみのように地面に這わせていた。


 振り返ると、移動式住居の屋根の向こうから月が顔を覗かせている。


 ーー今日はもう、寝る


 ドルエルベニはそう決めて、移動式住居へ引き取ろうとした。その時である。


「副長ドルエルベニ、お待ちください!」


 呼び止める声に応じて振り返り、ドルエルベニは目を眇める。大きな麻袋を担いだノゾンゾが、息せききって駆け寄って来る所だった。


 ノゾンゾはドルエルベニの手前で、つんのめりそうになりながら立ち止まる。ドルエルベニは瞑目し、大息をついた。


 ノゾンゾの奴隷はルルヴルグに処分され、風の餌になった。その経緯をノゾンゾに説明してやるべきだろう。


 ーー嫌々ながら、奴隷の件を請け合った以上、責任を果たさねばな


「軍団長ルルヴルグはノゾンゾの奴隷を処分されたが、それ以上のお咎めはないと仰った。御寛恕に感謝することだ」


 ドルエルベニは掻い摘んで経緯を説明した。


 ーーこれでよし。ノゾンゾが根掘り葉掘り訊ねてくる前に、動式住居に戻ろう


 ドルエルベニはノゾンゾに背を向けた。移動式住居の扉を潜ろうとするドルエルベニを、ノゾンゾは泡を食って呼び止める。


「副長ドルエルベニ、お待ちください! ついさっき、軍団長ルルヴルグとお会いしたのです。軍団長ルルヴルグは『ドルエルベニがノゾンゾの容赦を嘆願する故、此度の件は不問とする。ドルエルベニの擁護が無ければ厳しい沙汰もあり得たと、肝に銘じることだ』と仰いました。ノゾンゾは、副長ドルエルベニに見限られたとばかり……まさか、ノゾンゾの容赦を嘆願してくださるとは思いもよらず……ノゾンゾは、ノゾンゾは!」

「……はあ?」


 ドルエルベニは振り向きざまに素っ頓狂な声を上げた。ノゾンゾの容赦を嘆願した覚えは無い。おざなりにとりなしただけだ。感謝される謂れがない。


 ノゾンゾは感極まり、声を詰まらせている。辟易するが、黙っていては誤解を解けない。ドルエルベニは渋々、口を開く。


「いや、ドルエルベニは嘆願などしていないが」

「はい! 副長ドルエルベニは、ノゾンゾの命の恩人です!」

「いや、だから」

「はいっ! このご恩は、一生、忘れません!」

「いや……もう良い」


 ドルエルベニはノゾンゾの愚鈍に閉口し、早々に匙を投げた。


 ーーノゾンゾのことなど、どうでも良い。そんなことより、ルルヴルグだ。ルルヴルグの魂胆が知れぬ


 ルルヴルグは元々、ドルエルベニを過大評価する節がある。それにしても、此度の件、必要以上にドルエルベニを持ち上げているような気がする。


 ーーせめてもの、罪滅ぼし?


 仮にそうだとしたら、とんでもない偽善だ。大切だと嘯きながら放棄するなど。


 ーー虫唾が走る


 悔しさにも似た歯噛みする思いで、ドルエルベニは身体中の震えに耐える。そんなことは露知らず、ノゾンゾは前のめりになって話を続ける。


「ノゾンゾの為に、副長ドルエルベニは奴隷を失われたと伺いました。それで、あの……」


 ノゾンゾの所為ではあるが、ノゾンゾの為ではない。そう指摘しても、ノゾンゾは聞く耳を持たないだろうから、黙っている。無駄なことはしたくない。


 ドルエルベニの沈黙を肯定と解釈したのか、そもそも気にしていないのか。ノゾンゾは肩に担いでいた麻袋を地面におろした。麻袋の中身は蠢いている。


 舌を突き出すまでもなく、匂いでわかる。麻袋の中身は持たざる者だ。


 ノゾンゾは袋の口を縛る紐を解き、麻袋の中身を引き摺り出す。


 麻袋の中身は、案の定、持たざる者だった。痩せさらばえた少年だ。

 器量の良し悪しは、よくわからない。持たざる者の容姿など、どれもこれも似たり寄ったりだ。


 ドルエルベニの目を奪ったのは、その色彩だった。


 黒い髪、白い肌。そして、白い肌を蝕む、黒い病斑。


 ノゾンゾは奴隷を捧げ持ち、ドルエルベニの眼の前に差し出す。


「友に頼み込んで、譲り受けた奴隷です。よろしければ、今宵のお慰みに、お召しになりませんか? 副長ドルエルベニは、髪色は暗く、肌色は明るい、少年奴隷をお好みと伺いました。肌を患っておりますが、持たざる者の病は、我々には伝染うつりませんし、具合は良いそうです。あらかじめ四肢を落とし、目と喉を潰してありますから、お手間はとらせません」


 ドルエルベニはノゾンゾの話しを半ば聞き流していた。眼の前にある色彩、その既視感に囚われていた。


 ーーこれは、一体どうしたことか。斜陽に目が眩んだのか、月華に眩惑されたのか。わからぬ。わからぬが、似ている


 ドルエルベニは差し出された奴隷を受け取った。奴隷はドルエルベニの腕の中でびくびくと震えている。


 いかにも弱々しいこれは、本来であれば、あれとは似ても似つかない。一目で似ていると思った色彩だって、目を凝らせば別物だ。これの白肌は黄ばんでいる。これの黒髪は色褪せている。あれとはまるで違う。


 それなのに、白肌に散らばる病斑が、ドルエルベニを惑わせる。この汚らしい病斑が、あの美しい黒鱗と似ている筈がないのに。


 ーーこれが、一等、似ている


 ドルエルベニはそのまま移動式住居に引き取った。奴隷を移動式住居に持ち込んだのは初めてだった。奴隷遊びはそれ用の天幕で行うものだ。しかし、ドルエルベニはそうしなかった。


 これ以上、待ちきれなかった。


 灯りは点けない。暗がりでなければ、きっと夢は覚めてしまう。


 ドルエルベニは奴隷を床に転がした。その肉体を貪るべく、その肌に触れる。触れた瞬間、すっと熱が冷める。


 ーーこれは、違う。これは目の粗い生成りだ。あれの肌とは違う。あれは、処女雪のように白く、昂ぶれば薄紅色に上気する程に、薄い。もっと滑らかで、こんな、ごわごわした手触りではない


 異様な興奮が波のように引いてゆくのを感じる。ドルエルベニは手で顔を擦った。


 ーーそもそも、あれに似ていたら、何だと言うのだ。八つ当たりをしたいのか?


 ドルエルベニは頭を振った。


 ーー八つ当たりをするにしても、奴隷にあれを重ねるなど、どうかしている


 思い留まるべきだ。それが賢明だ。ドルエルベニは奴隷から手を引いた。その手は無意識の内に、腰の胴乱に伸びる。


 胴乱の中には、真珠の首飾りが入っている。ルルヴルグが小隊長に昇格して初めての戦の後、ルルヴルグからドルエルベニに贈られた真珠の首飾りだ。


 ーー別に、好き好んで、肌身はなさず持ち歩いているわけではない。ただ、金に換えたところで使い途がないし、嵩張る物でもないから、なんとなく、手許に置いているだけだ。言い訳などではない。後ろめたいことなど、何も無いのだから


 ドルエルベニは真珠の首飾りを手にとる。真珠の手触りが、あの肌の感触を呼び覚ます。


 ーーあれの肌は、肌理が細かくて、指の腹に吸いついてくるようだ。滑らかな手触りは、優れた真珠の玉のよう  


 真珠を手の内で転がしながら、爪を立てればたちまち裂けて血を流す、薄氷のように脆い皮膚を、その持ち主を想う。


 ーー細い首、襟足で震える後れ毛。真珠の円やかな光沢によく馴染む、柔肌の色艶。魂に取り憑く、あの眼差し


 記憶の濁流が、現実を押し流す。肉体の貧弱も、色彩の淀みも、似ても似つかない脆弱も。何もかもを、塗り替える。


 ドルエルベニは咆哮し、目の前の肉叢にむしゃぶりついた。


 ーーだめだ、こんなこと


 ドルエルベニの理性が警鐘を鳴らす。しかし、ドルエルベニの本能は貪婪な飢えと渇きによる支配を甘受した。


 ーードルエルベニは、あれを守ると誓ったのだ


 守るべき存在を、そうと認識しながら、蹂躙する。

 肌を噛み裂き、肉を穿つ。湿った摩擦音がはっきりと聞こえた。


 これは、あれではない。本物ではない。偽物だ。それでも、あれの中にいる妄想に耽る。それだけで、興奮のあまり眩暈がした。


 ーーあれがドルエルベニを裏切ろうと、ドルエルベニはあれを守らなければ


 ドルエルベニは常に己を律していた。あれが母譲りの魔性をちらつかせても、目を逸らして劣情を封じていた。


 ーーどんなに憎らしくても、恨めしくても、あれは、あの方の大切な、忘れ形見なのだから


 ドルエルベニは、あれを守らなければならなかった。

 あれの肉を貪り、骨までしゃぶってやりたい衝動に駆られても。あれの魂の尊厳を粉砕してやりたい衝動に駆られても。ドルエルベニは欲望に蓋をして、必死に抑え込んできた。


 あれが今でも、太陽を追って回る花のように、ひたむきにドルエルベニを慕っていたならば。ドルエルベニは、たとえ妄想であっても、あれを傷付けたり、穢したりしなかっただろうに。


 ーーお前が、悪いんだ


 ドルエルベニはあれの項に噛み付き、いっそう強かに腰を打ち付けた。肉が裂けて、潰れる感触。ドルエルベニの腕の中で、あれが仰け反る。声にならない絶叫を全く意に介さず、ドルエルベニはさらに突き上げていった。


 ーーお前は、これくらいで悲鳴を上げたりしないだろう 


 自由を扼されていても、噛みつくことはできる。相手の指一本、爪一枚噛み切って、一矢報いることはできる。恐怖に全身が麻痺して、一指の抵抗もできないなんて、あれには有り得ないことだ。抵抗を悉く封じられ、肉を刳られようと、あれは歯を食いしばって激痛に耐えるだろう。


 妄想が去来する。快感は真っ赤な炎となって背骨を駆け巡り、頭の芯を火達磨にした。


 ーー思い知れ、思い知れ! お前の身に起きていることは、理不尽でも何でもない! お前が悪いんだ。お前が……お前が!


 ドルエルベニは目の前にある肉を我武者羅に噛み締める。いつの間にか、全身が血と汗にまみれて、ぬるぬるしていた。


 奴隷は貫かれたまま、生死の境を彷徨っている。半開きの口から、絶え間なく血が溢れていた。


 ドルエルベニが記憶しているのはそこまでだった。残りは皆、どろりとした意識の底に沈んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ