53.ドルエルベニ 「ドルエルベニはもう、用済みか?」
「……まったく藪から棒に、どうした?」
と、ドルエルベニは言ったようだ。ドルエルベニはその嗄れ声を聞いて、耳障りだと、他人事のように思った。骨を伝う声は、自分自身のものでしか有り得ないのに。
たった今、己が何と言ったのか、それさえ定かで無い程、ドルエルベニは混乱していた。
ルルヴルグは大きく目を開き、絶句するドルエルベニをじっと見つめている。瞳孔をいっぱいに開き、暗闇にある何かを見つめるかのように。
「本来なら、もっと早く、こうするべきだった」
とルルヴルグは言った。ドルエルベニは意思疎通能力を失ったかのように押し黙る。
胸の奥で心臓が早鐘を打つ。口腔が、蛾を食べたかのようにかさかさしている。何か言おうとしたけれど、何も言えなかった。
ーー有り得ない。ルルヴルグとドルエルベニの決闘が行われるなんて、あってはならない。ドルエルベニは、ルルヴルグの庇護者なのだから
対等に付き合うふたりの意見が対立したとき、骸竜の戦士は決闘で勝敗を決める。決闘の敗者は、勝者に服従するか、或いは死ぬしかない。ふたりが上下関係にあっても、上位者が許せば決闘が行われる。
ルルヴルグの気性からして、上位者の特権を振りかざさして、ドルエルベニをおさえつけるとは考え難い。
つまり、ドルエルベニはその気になれば、ルルヴルグとの確執を、いつでも決闘で解決することが出来るのだ。
ドルエルベニはルルヴルグよりも強い。力に飽かせてルルヴルグを今の地位から引きずり落として従えるのも、殺すのも、ドルエルベニの胸三寸で決められる。
そうしなかったのは、ヴルグテッダと交わした約束を守る為だ。
だからこそ、ルルヴルグがどんなにドルエルベニに背いても、ドルエルベニは決して決闘に持ち込まなかった。
これはドルエルベニの事情であり、ルルヴルグの預かり知るところではない。
ただし、ルルヴルグは奴隷に身を落とすところを助けられた恩義を忘れていないのだろう。ドルエルベニを疎ましく思い、ドルエルベニを敬遠しても、決定的に拒絶することはしなかった。軍団長の権限を行使して、ドルエルベニを遠ざけようと思えば出来た筈なのに、そうしなかった。
それが、どうしたことか。ルルヴルグは今、ドルエルベニに決闘を申し込んでまで、ドルエルベニを遠ざけようとしている。
ドルエルベニは呆然と立ち尽くす。魂と肉体との間に乖離が生じている。ただ、胸に押し当てられたルルヴルグの拳、その体温と肌触りだけを感じている。
不意に、胸に押し当てられた拳が解かれる。華奢な手に、思わず目が吸い寄せられた。か細くしなやかな指が、ドルエルベニの胸にそっと触れる。たったそれだけで、心臓を鷲掴みにされたように感じた。
ドルエルベニとルルヴルグ、ふたりの目と目が合う。黄金の虹彩が渦を巻くように煌めいて、漆黒の瞳孔が大きく開く。ドルエルベニの意識は流砂にのみこまれるかのように、無我夢中でルルヴルグの一挙手一投足に集中する。
たおやかな仕種と潤んだ上目遣いには、婀娜な香を感じさせる含みがある。母親譲りの蠱惑が、ドルエルベニに牙を剥く。
薄紅色の口唇が開かれ、小さな白い歯が覗き、小さな桃色の舌が躍る。甘露を煮詰めたかのような声が囁く。
「ドルエルベニが勝利したなら、ルルヴルグをどうしようとドルエルベニの自由だ。煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
そう告げて、ルルヴルグはドルエルベニの胸をぐっと押した。ドルエルベニの心臓は、どくんどくんと飛び上がった。
ドルエルベニの脳裏には、今このとき、最も思い浮かべてはならない幻影が浮かんでいた。
ドルエルベニは歯を食いしばって、妄想を打ち消した。頭を大きく振り、尾も大きく振り、ドルエルベニの正気を欲望の深淵に引き摺り込もうとする、悍しい幻影の残滓を振り払う。ルルヴルグの視線を振り解き、天井を仰いだ。
ルルヴルグの姿を視界から締め出すと、心の揺らぎは徐々に収束してゆく。
張り詰めた緊張の糸が弛み、ドルエルベニは奇妙な虚脱状態に陥った。
ーー煮るなり焼くなり好きにしろとは、大きく出たものだな
ドルエルベニに勝てると、本気で思い上がっているとしたら救いようがないが、流石にそこまで能天気ではあるまい。
ーードルエルベニならば、ルルヴルグに無体を働くことはなかろうと、高を括っているのか
恐らく、そうなのだろう。ルルヴルグは、敗者となったところで失うのは、道ならぬ恋のみだと思っている。ドルエルベニがルルヴルグを殺すとは思うまい。
ましてや奴隷に落とされ、尊厳を剥ぎ取られ、主人の享楽に奉仕する為だけに生かされる肉塊に成り果てるとは、夢にも思わないだろう。
「……馬鹿も休み休み言え」
そう言い捨てて、ドルエルベニはため息をつく。
ーー度し難い甘ったれだな
そう、これは甘えだ。ルルヴルグはドルエルベニに甘えているのだ。ドルエルベニならばルルヴルグを害さないと確信しているから、勝ち目の無い決闘を申し込む、などと言えるのだ。決闘をちらつかせれば、ドルエルベニが引き下がると思っている。そうだ。そうに違いない。
ーーこんな甘ったれ、相手にするだけ無駄だ
ドルエルベニはルルヴルグを押し退けて、扉の前に移動する。ルルヴルグから顔を背けたまま、扉の取手を握った。さっさと出て行け、と無言で促す。
ところが、ルルヴルグは一歩も動かない。業を煮やしたドルエルベニは、肩越しに振り返り、ルルヴルグを睨みつけた。
ルルヴルグは何もかも見透かすような眼差しでドルエルベニを見つめ、こう言った。
「ルルヴルグは本気だ。ドルエルベニは、鉤爪を離れたくないのだろう? ルルヴルグがスズリヨと番うのが許せぬのだろう? ならば、決闘でルルヴルグを打ち負かし、この首をはねてしまえ。そうすれば、ドルエルベニは鉤爪の軍団長に昇格するし、ルルヴルグがスズリヨと結ばれることはもう二度とない。どうだ、ドルエルベニにとっては、渡りに船ではないか?」
ドルエルベニは大きく牙を打ち鳴らした。黙れと一喝したようなものだった。
ーー真に受けるな。はったりをきかせているだけだ。所詮は、口先だけの挑発。ルルヴルグは、本気ではない
ドルエルベニはすかさず、自分自身にそう言い聞かせる。そうして、自制心の手綱をしっかりと握り直した。今にも暴れ狂おうとする激情を辛うじて御していた。
ヴルグテッダ亡き後、ルルヴルグを守り育てたのは、ドルエルベニだ。
ヴルグテッダに師事する為に、ドルエルベニはルルヴルグと共に生きる決心をした。ヴルグテッダと交わした約束は、ドルエルベニの命ある限り、ドルエルベニを束縛する。それは覚悟の上だった。
そんなこと、ルルヴルグは知る由もない。それでもルルヴルグは、ドルエルベニはルルヴルグを守る者だと確信している筈だ。そうでなければならない。ドルエルベニは今までずっと、ルルヴルグを守ることを何よりも優先して生きてきたのだから。ドルエルベニの献身を、当のルルヴルグが理解していないなんて、そんなことがあってはならない。
ーールルヴルグがドルエルベニの邪魔をするから、殺す? ルルヴルグがドルエルベニに背くから、殺す? 馬鹿な! ルルヴルグがドルエルベニの邪魔をするのも、ドルエルベニに背くのも、今に始まったことではない。今更、これしきのことで、ドルエルベニが翻意するものか!
ドルエルベニはああ、と嘆息を洩らした。副長としての体裁を取り繕うことはとうに放棄していたが、暴力を振るうのは流石にまずい。振り上げられない拳を握りしめ、言い捨てる。
「……何が決闘だ。話しにならぬ。巫山戯るのも大概にしろ」
「ドルエルベニ」
ルルヴルグの呼び掛けに、ドルエルベニは応えなかった。ルルヴルグが梃子でも動かないと言うなら、家主であるドルエルベニが出て行くのも已む無しと考えていた。今はもう、一刻も早く、ルルヴルグと別れたかった。
しかし、ルルヴルグはその場から一歩も動かない。ドルエルベニは今一度、嘆息を洩らした。
ーーどうやら、ドルエルベニがこの場を立ち去るより他にないらしい
ドルエルベニが扉を開け放とうとした時。背後でルルヴルグが含み笑った。ドルエルベニはぴたりと静止する。
「ドルエルベニとルルヴルグの決闘など、やるだけ無駄だな。最初から勝負は決まっている」
ルルヴルグの唇なら皮が破れて血が滲んでしまいそうな、刺々しい言葉だった。見え透いた挑発である。わかっていても、胸のなかが砂でざらざらになったような、不快感に襲われた。
「安い挑発だな」
ドルエルベニは鼻で笑い、振り返った。ルルヴルグは不敵な笑みで出迎えると思われた。
しかし、ルルヴルグは真面目な顔をしていた。真っ直ぐにしゃんと立ち、ドルエルベニの目を真っ直ぐに見つめている。
「鱗の軍団長に就任するか、ルルヴルグと決闘するか。どちらかを選べ」
ルルヴルグは真剣だった。だからこそ、その言葉は真っ直ぐに、ドルエルベニの心臓を突き刺す。
ーーそうまでして、ドルエルベニを遠ざけたいのか。そんなに、ドルエルベニが疎ましいのか
ドルエルベニは呆然と立ち尽くす。目の前にある現実と、ルルヴルグとの思い出が、まるで噛み合わない。
ーー「ルルヴルグは、ドルエルベニのことを好きになったらしい」
ドルエルベニとルルヴルグが出会ったあの日。ヴルグテッダは、微笑みながらそう言った。
雛鳥が親鳥を慕うように、ルルヴルグはドルエルベニを慕っていた。疎まれていると知りもしないで、にこにこして、ドルエルベニに付き纏っていた。無邪気に無遠慮に、ドルエルベニに甘えていた。
ヴルグテッダの死後、ドルエルベニとルルヴルグは事実上の師弟となり、ルルヴルグはドルエルベニへ敬意を表するようになった。ふたりの関係性は変化したが、ルルヴルグは変わらず、ドルエルベニを慕っていた。
それが、いつ、どうして、こうなったのか。それがわからない。
あんなに、ドルエルベニを慕っていたのに。ヴルグテッダの死後、ドルエルベニがルルヴルグを育ててきたのに。ドルエルベニだけが、ルルヴルグの味方だったのに。本来であれば、得られたであろう名誉を諦めて、信頼を犠牲にして、ルルヴルグを守ってきたのに。
それなのに、ルルヴルグはいつからかドルエルベニを疎み、ドルエルベニを敬遠するようになった。
ーー強くなったから。軍団長に就任したから。意のままになるバジッゾヨがいるから。だから、ドルエルベニはもう、用済みか?
首に刃をあて、すっと引いたかのように。裂かれた皮膚から血が溢れ出したかのように。一気に血の気が引いた。温もりを失った心身は冷え切って、そして。
ーー赦さぬ
決闘の敗者を待ち受けるのは、悲惨な末路である。知らないとは言わせない。ルルヴルグはこれまでいくつもの決闘に臨み、勝ち抜いてきたのだから。
ドルエルベニは手を伸ばす。ルルヴルグをとらえようとした右手は、ルルヴルグが飛び退ったことで空を掴む。
ドルエルベニとルルヴルグは、間合いをとって対峙する。ルルヴルグから、狼狽、躊躇、恐怖は感じられない。決闘に臨む戦士の顔だ。
ドルエルベニの心身が凍える。指先は氷のように冷たくなって、感覚が無くなる。
怒りだけが、ドルエルベニのなかで燃え盛っていた。
ーー思い知らせてやる
ドルエルベニがルルヴルグに躍りかかろうとした、その瞬間。移動式住居の扉を叩く音と、鈴を転がすような声が聞こえてきた。
「ごめんくださいませ。副長ドルエルベニ、いらっしゃるのでしょう? 開けてくださるかしら?」
ーーマムナリューカ!?
マムナリューカの来訪に気付き、頭に上っていた血がすっと下がってゆく。我に返ったドルエルベニは、戦慄を覚えた。
ーードルエルベニは、何をしようとしていた?
わからない。わからないが、あの時、ドルエルベニは怒りに支配され、ヴルグテッダと交わした約束を忘れていた。




