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野獣の花嫁  作者: 銀ねも
52/58

52.ドルエルベニ 「ドルエルベニの何がわかる」

 

 甚だしい虚しさと徒労感が、ドルエルベニの心身に伸し掛かった。ドルエルベニは力無く着席する。


 ーー長々と議論したが……こうなるともう、水掛け論だ


 このまま続けても、ルルヴルグは世迷言を口走るばかりだろう。とどのつまり、この議論は無駄な骨折りだ。


「もう良い。もうたくさんだ」


 ドルエルベニはそう言い放つ。そして、項垂れた。


 ーー今は、何を言っても無駄だ。だから今はもう、ルルヴルグの顔も見たくない


 ルルヴルグがドルエルベニを見つめている。物言いたげな視線を、ドルエルベニは無視した。意地でも目を合わせてやるものかと思った。


 暫時を経て、ルルヴルグはぽつりと呟いた。


「寿いでくれないのか」


 痴れ言を抜かすな、と噛み付く気力もない。そんなことより、これからどうするか。それを考えなければならない。


 ーー気が進まぬが……ルルヴルグの乱心ぶりを首領に上申するより他にないか


 首領を頼るのは真に不本意だ。想像するだけで自尊心が悲鳴を上げる。それでも、自尊心を蔑ろにするだけの価値はある。

 首領ならば、軍団長ルルヴルグの暴挙を確実に止められるのだから。


 六人の軍団長からなる枢機院は、骸竜族の意思決定を司る首領を補翼し奉る諮詢機関である。さらに、軍団長は各々が統帥する軍団に対して裁量権を有する。最高権力者である首領でさえ、軍団長の意見には傾聴するのだ。


 血の精霊夢使いを捕虜にする策戦を立てたのは、ルルヴルグである。策戦を実行したのは、ルルヴルグ率いる鉤爪である。


 だからこそ、首領はルルヴルグの要望に応え、血の精霊夢使いの処遇をルルヴルグに一任した。


 ……と言うのは建前であろうと、ドルエルベニは睨んでいる。これが他の軍団長であれば、首領が軍団長の裁量権を尊重したのだろうと、素直にそう思える。しかし、それがルルヴルグであれば話は別だ。


 そもそも、首領はかねてよりルルヴルグに対して、放任主義と言うか、我関せずの方針を立てている。


 ソヨグチ軍団長ニヴィリューオウを筆頭に、軍団長の多くは……或いは、軍団長は皆……ルルヴルグが鉤爪の軍団長を務めることを快く思っていない。


 ルルヴルグに肩入れしていると見做されると、軍団長達の不信を買いかねない。だから、首領は出来る限り、ルルヴルグに関わらないようにしている。


 それでも、ルルヴルグの乱心ぶりを知れば、首領も考えを改めるかもしれない。ルルヴルグが血迷って、好き勝手なことをして、その結果、骸竜族が不利益を被れば、非難の矛先は転じて首領に向けられるだろうことは想像に難くない。ルルヴルグの軍団長昇格を承認し、その権限を与えたのは、他ならぬ首領なのだから。


 万が一、首領がルルヴルグの万事を心得た上で、ルルヴルグが血の精霊使いと番うことを許したのであれば、八方塞がりだ。ドルエルベニは万策尽きたと思い途方に暮れてしまうだろう。


 ーー今は、この懸念が杞憂であることを願うばかりだ


 ルルヴルグの溜め息がかすかに聞こえる。思わず知らず、ドルエルベニは顔を上げる。ルルヴルグは右手で目許を覆い、俯いていた。


「……わかった。この話はこれで終いだ」


 ルルヴルグはそう低語すると顔を上げた。明らかになったのは、なんでもないような表情だった。感情を覆い隠す仮面のような表情は、ドルエルベニを拒絶しているようだった。


 ドルエルベニは密かに失笑した。


 ーー首を出すと打たれると思って、首を縮めて甲羅の中に立て籠る亀のようだ


 ドルエルベニとルルヴルグは黙って見つめ合う。分かり合うことを拒んだふたりには、当然、気まずい沈黙が落ち込んできた。ルルヴルグの言う通り、話し合いを続けたところで、ただただ不毛だ。今のふたりはもうこれ以上、どうしようもない。


 ーー今宵は、これにて解散だ。そうだ、それが良い


 話の穂を継ぎかえて、談笑する気分にはなれない。ルルヴルグもそうだろう。


 席を立とうとするドルエルベニを、ルルヴルグが制止する。


「待ってくれ。もうしばらく、付き合ってくれぬか? せっかく、こうして時間を割いて貰ったのだ。この件とは別件で、折入って話がある」


 ドルエルベニは目を眇めて、ルルヴルグを見下ろした。今此処で切り出す話は、きっと、ろくな話ではない。


 それでも、ルルヴルグの要望を撥ね付けて、出直して来いとは言えない。鉤爪の副長であるのならば、鉤爪の軍団長を首領の次に尊重しなければならない。


 ドルエルベニは着席した。ひとつ溜め息をつき、渋々、水を向ける。


「……伺おう」

「恩に着る」


 ルルヴルグは居住まいを正す。ドルエルベニの目を真っ直ぐに見据える。小さく咳払いをして、話し始める。


(ウルヴ)の軍団長イムワルドが、高齢を理由に辞任を申し出た。首領はイムワルドの申し出を許諾なさった。誰しも、寄る年波には勝てぬ。老年までよく務めあげてくれたと、長年の労をねぎらっていらしたぞ。それはそれとして、問題は、イムワルドの後任をどうするか、ということだ。鱗の副長ヌンド厶ンが昇格するのが順当な人選だが、ヌンドムンは昇格を辞退した。無理もない。ヌンドムンは矍鑠とした老戦士だが、何しろ高齢だ。イムワルドとそう変わらぬ。近々、目が悪くなったり足元が覚束なくなったりして、辞任することになるだろう。骸竜軍鱗ウルヴには、新たな軍団長が必要だ。イムワルドは後任の軍団長にドルエルベニを推薦した」


 ドルエルベニは口をあんぐりとさせた。


 ーー神妙な顔をして、いきなり、何を言い出すかと思えば……突拍子もないことを言い出した


「まさか」


 ドルエルベニは、そこで一寸、言葉を切った。それが嗄れていて、己の口から発せられた声とは思えなかったからだ。試しに咳払いをしてみたが、結果は同じようなものだった。ドルエルベニはあきらめて、それ以上、咳払いをするのはやめた。


「ドルエルベニは鉤爪アンセムスの副長だぞ。ウルヴの戦士達を差し置いて、鉤爪アンセムスの戦士がウルヴの軍団長に昇格するなど、荒唐無稽な話だ。そんな出鱈目が罷り通るものか。鱗の戦士達が黙っていないだろう」


 ドルエルベニの正論に、ルルヴルグは真っ向から反論する。


「ドルエルベニならば、皆、受け容れるさ。事実、イムワルドの要望は、首領と枢機院、満場一致で認められたのだから」

「なんだと!?」


 考えるより先に、聞き返していた。はっきり聞こえてはいたのだが、自分の耳が信じられなかったのである。つい、声が大きくなっていたらしい。うさぎがびっくしりして長く尖った耳を立てるように、ルルヴルグは長く尖った耳をぴくりと動かした。


 ドルエルベニは反射的に口を噤む。ドルエルベニはどうにか気を取り直して、ルルヴルグの奇天烈な発言の真相をはっきりと問い質そうした。そうして、もたもたしている内に、ルルヴルグは口を開く。


「イムワルドの推薦……ひいては、ドルエルベニの鱗軍団長昇格は、満場一致で承認された」

「なんだ、それは」


 ドルエルベニは呆然として呟いた。真っ白になった頭の中に、常軌を逸する事実がじわじわと滲んでゆく。  


 そして、ドルエルベニは我を忘れて激昂した。


「なんだ、それは! 滅茶苦茶だ! 軍団長イムワルドは、何を血迷ったのか! あの老耄おいぼれ、まさか、耄碌したのであるまいな!?」

「ドルエルベニ」


 ルルヴルグの呼び掛ける声を聞いて、ドルエルベニは口を噤む。極めて冷静なルルヴルグの呼び声と、取り乱した己の喚き声の対比によって、ドルエルベニは我に返る。


 ルルヴルグは何かを我慢するように唇を横に引き結び、眉間に力を入れている。おもむろに頭を振り、言った。


「……その暴言は、お主らしくない」


 ルルヴルグが苦言を呈するのも、尤もなことだと思う。イムワルドの要望は常識外れではあるが、イムワルドは要望を叶える為に然るべき手続きを踏んだ。いくら腹が立つからと言って、ドルエルベニがイムワルドをここまで悪しざまに言うのは、筋違いだろう。


 わかっていても、怒りを抑えられなかった。ドルエルベニは自ら望んで、鉤爪の副長の地位に就いたのだ。ルルヴルグが鉤爪の軍団長である限り、ドルエルベニは今の地位に留まるつもりだった。


 そうすれば、ルルヴルグがどんなに嫌がっても、ドルエルベニはルルヴルグの傍にいられる。傍にいれば、ルルヴルグを守ることが出来る。ヴルグテッダと交わした約束を守ることが出来る。ドルエルベニにとって何よりも優先するべきは、恩師と交わした約束である。誰にも邪魔はさせない。


 ーードルエルベニらしい? ドルエルベニらしいとは何だ? ドルエルベニを避け続けるルルヴルグに、ドルエルベニの何がわかると言うのだ?


 ルルヴルグはドルエルベニを見つめている


 ドルエルベニは瞬きもせずにドルエルベニの顔を見つめている。ドルエルベニが目の色を変えたことに気付いているだろうが、まったく気後れはない様子だった。


 ルルヴルグは真剣な面持ちでドルエルベニと向き合い、言った。


「ドルエルベニは真の勇士だ。非の打ち所がない、高潔の士だ。軍団長に相応しい器だ。今の骸竜軍において、誰よりも。いつまでも副長に甘んずる戦士ではない」 


 ルルヴルグの表情を見れば、声調を聞けば、ひとたび定まった意志が揺るがないことは明白だった。


 ドルエルベニは瞑目した。


 いつまでも副長の地位に甘んずるべきではない。ドルエルベニならば、さらに上を目指せる。と、皆が異口同音に断言する。首領、母、ニヴィリューオウ、親族、その他大勢の戦士達。皆がドルエルベニの軍団長昇格を期待している。


 ドルエルベニはこれまでずっと、皆の期待に背いてきた。それで、皆に見放されてもやむを得ないと思っていた。


 ルルヴルグもまた彼等と同じく、ドルエルベニの昇格を望んでいると言う。他の皆と同じ様に、ドルエルベニの才能を惜しんでいるかのように振る舞う。しかし、ドルエルベニはわかっている。それは詭弁であり、欺瞞であると。


 ーーああだこうだと御託を並べているが、結局、ルルヴルグはドルエルベニを遠ざけたいだけなのだ


 ドルエルベニは目を開く。ルルヴルグの顔を、穴のあくほど見つめる。心からドルエルベニの為を思っている、と言わんばかりの顔だ。 


 ーー白々しい


 心の中で毒づきながら、胸中にとぐろをまくどす黒い激情を、今度はおくびにも出さない。ドルエルベニは口を開く。


「イムワルドの推薦は、満場一致で承認されたと言ったな?」


 ドルエルベニの問いかけに、ルルヴルグは首肯で応じる。


「そうだ。ルルヴルグには少しも異存がない」


 わかりきっていたことだ。わかりきっていたことなのに、実際に確信を得ると、心臓が凍りつく。巡る血の流れによって体の芯から隅々まで冷え切ってゆく。


 そうか、そうだろうな。とドルエルベニはひとりごつ。声帯を震わせる声もまた凍てついている。それを自覚しながら、ドルエルベニはルルヴルグに告げる。


「まことに以て恐れ多いことだが、謹んで辞退するとお伝え頂きたい」

「ドルエルベニ」


 呼び掛ける声に咎める響きがあった。しかし、ドルエルベニはルルヴルグの話に聞く耳を持たなかった。


「ドルエルベニは鉤爪の副長だ。鉤爪を離れるつもりはない」


 ドルエルベニは断言した。首領と枢機院は、ドルエルベニの鱗軍団長昇格を承認した。その議決は、就任する権利を認めたのであって、強制するものではない。

 だから、ドルエルベニには拒否権がある。そもそも、戦士の昇格は自らの意思で挑み、勝ち取るものだ。他者より与えられるものではない。


 昇格を辞退すれば、首領と枢機院からの心証が悪くなるだろうが、それは一向に構わない。そんなことを気にする性質だったなら、ヴルグテッダに師事することはなかった。


 どれだけ同胞に嫌厭されようと、ドルエルベニが骸竜の戦士である限り、戦場から追われることはない。ならば、それで良い。


 ルルヴルグは俯き、沈黙している。首領と枢機院が承認した軍団長昇格を辞退する、ドルエルベニの頑なさに驚き呆れているのだろう。そして、あてが外れてがっかりしているのだろう。


 ーードルエルベニが鱗軍団長昇格を辞退しては、ルルヴルグの立つ瀬がないのやもしれぬ。それがどうした。ドルエルベニの知ったことか


 ドルエルベニは腕組みをして、反り返る。軍団長を追い立てる訳にはいかないので、だんまりを決め込み、ルルヴルグが辞去するのを待つことにした。


 暫くして、ルルヴルグは徐ろに席を立つ。卓を回り込んでドルエルベニの傍らにやって来た。 


 ーーようやく帰る気になったか


 ルヴルグを見送ろうと、ドルエルベニはやおら席を立つ。ルルヴルグに向き直ると、ルルヴルグはドルエルベニの胸、心臓あたりに拳を突きつけた。


「ならば、ルルヴルグはドルエルベニに決闘を申し込む。表に出よ、ドルエルベニ。決闘の勝者が鉤爪の軍団長だ。これなら不都合はあるまい」

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