45.ドルエルベニ 「生かして帰してはならぬ」
少女は怒号した。首にさげた金環を握り、目を瞑り顔を背ける。金環を鎖から引き千切ろうとしていた。
少女の右手が金環を引き千切るのに先んじて、ルルヴルグの右手が少女の右手を抑えた。
痩せこけた少女の頬がさっと青褪める。ルルヴルグは金環を握り締める少女の手をするりと撫でて、少女の顔を覗き込んだ。
「お主の様子から察するところ、その金環には魔法がかけられているようだ。その金環が先の目眩ましの正体か。さては、その魔法でルルヴルグの虚をついて」
ルルヴルグの目が夜を駆ける獣のそれのように光る。少女は狼狽え、金縛りにあったかのように竦み上がった。ルルヴルグの右手が、自身の胸の上でかたく拳を握る少女の左手をに重なる。愛馬の嘴を擽るようにして、少女の拳に触れる。少女の拳を開くと、少女の掌にすっぽりおさまる大きさの、尖った石が現れた。ルルヴルグは唇の端を吊り上げる。
「一矢報いるつもりだったな」
ルルヴルグの指摘は図星をついたのだろう。万策尽き果てた少女は、最早これまでと覚悟を決めたのか。或いは、単に破れかぶれになったのか。石を握り、それを振りかぶった。石の尖りをルルヴルグの左目に突き立てようとしたのである。
少女の渾身の一撃は、ルルヴルグがちょっと顎を上げたことで、狙いが外れた。石の尖りはルルヴルグの左頬を突く。艶々とした鱗は石を弾き、少女は石を取り落とした。石は地面に転がり落ち、少女は最後の希望を失った。
茫然自失に陥った少女を、ルルヴルグはおもむろに地面に降ろす。そして、少女の前に跪いた。死を目前にして震え上がる少女の顔を覗き込み、ルルヴルグは破顔一笑する。
「大したものだ」
そう言って、少女の頭を撫でる。屈託無い称賛は、少女の度肝を抜いたようだ。その様子はまるで、獅子が仔鹿に擦り寄り、喉を鳴らすかのようだった。
ルルヴルグは呆気にとられる少女の頭を撫でながら、少女を褒めそやす。
「お主は勇敢に戦った。行動においては機知に富み、勝機を逸するも戦いを放棄しなかった。誰にでも出来ることではない。大したものだ」
ルルヴルグは心の底から少女を褒め称えている。心にもない世辞で相手を丸め込もうとしたりしない。幼い頃からそうだった。
ルルヴルグは、この貧相な持たざる者がたいそう気に入ったらしい。喜色満面たる笑顔を見れば、ドルエルベニには一目でわかる。少女の蛮勇が、ルルヴルグの琴線に触れたのだろう。
ドルエルベニは天を仰いだ。また、ルルヴルグの悪い癖が出た。
ルルヴルグは持たざる者の些細な美点を拾い上げては、それを気骨がある者と見込むのである。
至尊の森の畔の戦いにて、ルルヴルグに一騎打ちを申し込んだ持たざる者。あの者は一騎打ちの最中、最後まで得物を手放さなかった。たったそれだけのことで、ルルヴルグはあの者の健闘を称え、その魂は終の戦場に招かれるとまで言った。持たざる者は、終の戦場に招かれる戦士たり得ないのに。
ルルヴルグは風を愛でるように、少女の頭を撫でている。風はそれを見ると、ドルエルベニの奴隷を放り出し、嘴を打ち鳴らし地団駄を踏んだ。風の嫉妬に気付いているのかいないのか。ルルヴルグは風には目もくれず、少女に問い掛ける。
「お主はスズリヨの女弟か? そうでなくとも、スズリヨの知己であるのだろう。ルルヴルグの知らぬ、スズリヨの話を聞きたい。話してくれるか?」
少女は目を丸くした。それから、唇を横に引き結び、眉間に力を入れる。ルルヴルグの申し入れを吟味しているらしい。ややあって、少女は小声で訊ねた。
「話したら、あたしと弟を見逃してくれる?」
ルルヴルグは真顔になり、即答した。
「ならぬ。骸竜族と人族は敵対しており、お主達は骸竜の隠れ里に足を踏み入れた。不憫ではあるが、もはやここから生かして帰すわけには参らぬ」
ーーさもありなん。骸竜の敵を生かして帰してはならぬと、掟により定められている。……持たざる者を不憫と言うのは、褒められたものではないが
ルルヴルグのきっぱりとした返答に、ドルエルベニは密かに胸を撫で下ろす。
ルルヴルグが骸竜に対して背信を犯すとは思わない。それでも、何をするにも危なかっしくてひやひやしてしまうのは、幼少期からの習い性であろう。
ルルヴルグは押し黙り、項垂れる少女を見据える。そして、交換条件を提示した。
「話してくれるなら、せめて一思いに、お主とお主の弟の命を断つと約束しよう」
ーールルヴルグがドルエルベニの奴隷を殺す?
奴隷の生殺与奪の権を握るのは主人である。ルルヴルグは、少女が己の申し入れを受け入れるなら、ドルエルベニから奴隷を取り上げると言っている。
ルルヴルグは持たざる者の顔をよく見分ける。風の脚元に転がる奴隷の主人がドルエルベニであると、承知しているだろう。
奴隷を取り上げられること。それ自体は、ドルエルベニにとって、どうということはない。金品に執着しない性質だ。
そもそも、それはドルエルベニの受くべき当然の報いと言える。ノゾンゾの不始末に巻き込まれたとは言え、ドルエルベニは奴隷に逃げられ、剰え、軍団長の手を煩わせたのだから。ドルエルベニは畏まり奴隷を差し出すべきだ。
それでも、ルルヴルグはそうしないだろうと、ドルエルベニは思い込んでいたのだ。
ルルヴルグが軍団長の権力を以て、奴隷の所有権の放棄を強制する。そのことが、ドルエルベニの意表を突いた。
少女はまじまじとルルヴルグの顔を見つめる。それから、あどけない、なんだか気抜けの顔つきになって、ひとりごつ。
「そっか……そうだよね。やっぱり、そうなるよね」
ルルヴルグは少女が何を言っているのかわからないらしく、目をぱちくりさせている。少女は熱に浮かされるように、続けた。
「わかってた。手足を無くしたあの子を抱えてゴルドランの隠れ里から逃げるなんて無理だって。そんなこと、できっこないって。わかってたんだ。スズリヨ隊長なら、あんた達をやっつけて、あたし達を助けてくれるかもしれないって……期待して……あたしはバカだ。スズリヨ隊長はあんたに負けた。捕虜にされたんだから、そうなんでしょ? もう、どうしようもない。これが最期になるなら……だったら、あたし、最期は」
少女は昂然と顔を上げた。そして、あろうことか、少女はルルヴルグの頬を平手打ちにした。少女は怒号する。
「一思いに死なせてやるって? それで情けをかけてるつもり? ふざけるな、畜生! あたしの弟を見ろ! あの子は生き地獄を味わってる! もう散々だ! 穢らしい偽善者め、地獄に落ちろ!」




