43.ドルエルベニ 「浅はかだな」
扉を押し開き、ルルヴルグは逆光の中に姿を現す。そのちぐはぐで妙な出で立ちに、ドルエルベニは首を捻る。
ルルヴルグは裸足で、ズボンを穿き、寒候期の普段着である長衣ではなくーーそもそも、ルルヴルグは雪が降り積もる迄、長衣を着ようとしないのだがーー玉虫色の魚鱗甲を身に纏っている。長靴も靴下も履いていないことが気に懸かるが、何より、絢爛な輝きを誇る魚鱗甲を見て、ドルエルベニは我が目を疑った。
それは紛う方なき竜の落とし子の逆鱗甲であった。鎧は鎧でも、戦場で着用する革鎧ではない。逆鱗甲のような華美な鎧は戦にそぐわない。逆鱗甲は骸竜の戦士が求愛の際に身に纏う、最上級の礼装である。
ーーいつの間に逆鱗甲を拵えていたのだ? そもやそも、求愛する相手がいるのか? 心の中で密かに思い定めている女が? あのルルヴルグに?
ドルエルベニには、ルルヴルグの恋の相手について、心当たりがない。ルルヴルグは齢二十三にして誉れある鉤爪の軍団長を務める優れた戦士でありながら、これまで艶聞のひとつもなかった。懇意にする女のひとりもいない。ルルヴルグには女が寄り付かないのだ。
多くの女達はルルヴルグを侮蔑し、無用の持たざる者と見做している。女達のまとめ役であるドルエルベニの母が率先してルルヴルグを冷遇しているから、女達は皆、それに倣っているのかもしれない。
女達に嫌厭されるからと言って、ルルヴルグが恋をしないとは言い切れない。それはそうだ。しかし、ドルエルベニの知る限り、ルルヴルグはそのような素振りを見せたことはなかった。
ーーそれがどうした。ドルエルベニの知見など、然程あてにならぬ。今のルルヴルグについて、ドルエルベニが何を知っていると言うのか
ドルエルベニは屹然とため息をつく。
ーーこれについても、バジッゾヨに訊ねてみるか
バジッゾヨを頼るのは気が進まないが、他にあてがないのだから仕方無い。
ドルエルベニは思考を打ち切った。あてもなく空を飛ぶ小鳥に、止まり木は見つけられまい。
ルルヴルグの表情は、黒い影に塗り潰されて判然としない。ただ、きらきら光る真丸の金瞳がこちらをまんじりと見つめていることは確かだった。
ルルヴルグがこちらへやって来る。大火のような夕焼けを背負うルルヴルグの黒髪は、茜色の夕靄の下りた澄んだ水底で流れにそってそよいでいる、繁茂する碧い水草のように靡いている。
ルルヴルグが近付くと、その顔がはっきりと見えてきた。ドルエルベニが想像していたような、険のある表情ではない。眉間の力を抜き、唇を静かに合わせた、穏やかな表情である。ドルエルベニと目が合うとすぐに目を細めると、ぺろりと舌を出した。次いで伸び上がり、抱きつくようにして、ドルエルベニの両肘に両手で触れる。
「我々は良い黄昏を迎えた、ドルエルベニ。ゆっくり休めたか?」
薄暮の挨拶であった。これは親族、或いは、昵懇の間柄で交わす挨拶であり、こうして相手の目を見つめながら匂いを嗅ぎ、相手を抱擁するようにして両肘に触れる所作は敬愛を示す。
目下の者は先にこの挨拶をして、目上の者は同じ挨拶で答える。それが骸竜の礼儀である。
鉤爪の軍団長であるルルヴルグと、その副長であるドルエルベニの間柄であれば、ドルエルベニが先に挨拶をしなければ道理に叶わない。
ルルヴルグが軍団長に昇格して以来、ドルエルベニは幾度となく、軍団長が副長に対してへりくだった態度をとっては、他の配下への示しがつかないことを理由にこれを諌めた。
ところが、ルルヴルグはドルエルベニの憂慮を笑い飛ばす。「小人の頃からこうしているから、今やこれが習い性となってしまった。まぁまぁ、おいおい改めよう」などと嘯くが、それは建前に過ぎない。ドルエルベニにはわかる。何せ長い付き合いだ。
ーー今となっては、親しく挨拶を交わす間柄でもあるまいに
ドルエルベニは屈み込み、ルルヴルグをそっと抱き寄せ、ルルヴルグの目を見つめながら舌を出す。ルルヴルグの匂いを嗅ぎ、ドルエルベニはすぐに舌を引っ込めて口を閉ざした。
ーー持たざる者女の臭いがする
持たざる者女特有の、落ちる寸前の爛熟期の果実のような、甘ったるい臭い。それが、ルルヴルグの肌に染み付いている。それもその筈、ルルヴルグは付きっきりで血の精霊夢使いを介抱していたのだから。
ーーそれにしても、酷い臭いだ。帰還中、ルルヴルグは一日中……乗馬、食事、水浴び、睡眠、その他、何をしていても、常に血の精霊夢使いを抱えていた。それでも、こんなに臭わなかった
ドルエルベニは挨拶の口上を述べる前に、さっと身を引いた。ルルヴルグはドルエルベニを見上げ、小鳥のように小首を傾げる。しかし、ドルエルベニの無礼を咎めたり、原因を追求しようとはしなかった。どうせ、ドルエルベニに大した関心を寄せていないのだろう。
ルルヴルグは、かじかんだようなドルエルベニの手をすり抜ける。すれ違いざまに右肘をぽんと軽く叩かれる。それを、まるで馬の機嫌をとるかのようだと思うのは、いささか曲解が過ぎるだろうか。
悶々とするドルエルベニを尻目に、ルルヴルグは風のもとへ歩み寄る。ルルヴルグが風の羽を撫でながら「どうした? 何かいるのか?」と問い掛けると、風は高床式倉庫の下に突っ込んでいた頭を引き抜いた。ルルヴルグを打ち見て一声鳴き、また床下に頭を突っ込んで吠え立てる。
馬の視覚は優れているが、聴覚はそれ程でもなく、嗅覚は持たざる者並に鈍いとされる。だから、ルルヴルグの肌に持たざる者女の臭いが染み付いていることがわからないのだろう。もし、風がそれを嗅ぎ取れたなら、目の前にいる持たざる者奴隷のことなんか忘れて大騒ぎするに違いない。
決闘で勝利を収めたルルヴルグが、意識を失った血の精霊夢使いを抱えて風に騎乗しようとした時のことだ。風は持たざる者を背に乗せるのを物凄く嫌がり、ギャアギャアと鳴きながら逃げ回って、大変な騒ぎになった。
ルルヴルグは粘り強く風を追いかけたり、風の好物を用意して風を誘き寄せようとしたり、手を変え品を変え、風の機嫌をとろうとした。それらは徒労に終わった。
風は血の精霊使いを抱えるルルヴルグを、決して寄せ付けなかった。その頑なさは、まるで押しても叩いても出てこない貝のようだった。女心を奥へ引っ込めて、堅い蓋を閉じてしまった。
ドルエルベニは血の精霊使いを荷車に乗せるよう進言するも、ルルヴルグは渋い顔をして、首を縦に振らない。
試行錯誤の末、万策尽き果てたルルヴルグは思いつめた顔をして「こうなったらスズリヨを担いで走るしかない」などと言い出した。
ドルエルベニは唖然とした。軍団長の威光を何と心得るか、と。「お前は馬鹿か」とは口が裂けても言えず、ドルエルベニが押し黙っていると、見るに見かねたバジッゾヨが「バジッゾヨの馬をお貸ししよう」と申し出た。ルルヴルグは「そんなことをしては、ルルヴルグのかわりにバジッゾヨが走らねばならなくなる」と言って、バジッゾヨの申し出を辞退した。稲光には及ばないにしても、風もなかなか気難しい馬で、ルルヴルグ以外の騎乗を許さない。
すったもんだのあげく、風が折れた。ルルヴルグを歩かせたり他の馬に乗せたりするくらいなら、とルルヴルグ共々持たざる者を背に乗せたのである。そのことについての断腸の思いはいうまでもない。持たざる者を背に乗せている間、嘴を打ち鳴らし続ける風を、ドルエルベニは不憫に思った。
そんなことがあった。今でもわだかまりは解消されていないようだ。ルルヴルグが傍にやって来たのに、風の態度はなんだか素っ気ない。ルルヴルグの移動式住居を離れてこんな所にいたのも、ルルヴルグの「不義」を赦していないからなのかもしれない。
ルルヴルグは腰を落とし、高床式倉庫の床下を覗き込むや否や「さがれ!」と叫び、風の頭を抱えて退いた。次の瞬間、風の足元に小石大の何かが飛んで来た。それは小さな火の輪で、バチバチと火花を散らしながら鼠のように風の足元を駆け回る。風は嘶き、それを踏み潰した。すると、それは鋭い破裂音と共に閃光を放つ。瞬間的に視界を奪われる。
ーー目眩ましの魔法だ
持たざる者奴隷はこれを好機と見たようだ。高床式倉庫の床下から転び出て、その勢いのままに駆け出した。
ーー浅はかだな
老いも若きも、持たざる者は魔法を過信しがちだ。このささやかな魔法は、嗅覚と聴覚を妨げるものではない。強い光に目が眩んでも、臭いが持たざる者奴隷を形どる。
ーーこの青臭さ。こどもとおとなの間で宙吊りになる微妙な年頃の、持たざる者女の臭いだ
それを嗅ぐと、奴隷を物色中に見た光景を思い出した。泣きじゃくる幼子を抱きしめる少女。ドルエルベニと目が合うと、ドルエルベニを睨みつけた。髪の色も目の色も肌の色も性別も、ドルエルベニの好みでは無かったが、あの目はなかなかそそられた。だから、ドルエルベニは少女に抱きしめられていた幼子を買ったのだった。それ自体は、泣き喚くばかりでつまらないものだったが。
あの時の少女が、ノゾンゾの奴隷だった。少女とドルエルベニの奴隷は姉弟、もしくは、そのような、親密な間柄にあるのだろう。だから、ドルエルベニの奴隷を盗み出した。そういう事らしい。
捕えようと思えば捕らえられるが、ドルエルベニは敢えて動かなかった。ルルヴルグもまた、敢えてすぐには捕らえなかったのだろう。
少女はまっしぐらにルルヴルグの移動式住居へ走って行く。移動式住居の扉に突進するが、少女の非力では、扉はびくともしない。
少女は、自力では扉を開けられないことを理解すると、拳を握って扉を叩く。いくらぺちぺちと叩いても、扉の向こうには響くまい。少女は大きく息を吸い込んだ。
「助けて、スズリヨた」
少女の言葉はそこで途切れた。少女の真後ろに立ったルルヴルグが少女を背から抱きすくめるようにして、その口を塞いだのだ。
「静かに。スズリヨはぐっすり眠っている」
ルルヴルグは少女に耳打ちする。イリアネス語の囁きは、ルルヴルグのすぐ傍に控えるドルエルベニにも辛うじて聞き取れた。少女の薄い胸が喘いだ呼吸に波打つ。
ルルヴルグは少女を抱き上げ、踵を返す。ちょうど、風が高床式倉庫の床下から、ドルエルベニの奴隷を引き摺り出したところだった。




