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野獣の花嫁  作者: 銀ねも
38/58

38.ドルエルベニ 「お前のせいで、何もかも、うまくいかない」

 

 夢を見た。それは遠い秋の日の記憶。


 ドルエルベニは、心技体の優秀さによって、戦士の卵(戦士見習い。「愛する男」に師事する「愛される小人」の総称)の内では他の小人達よりも一頭地を抜いていた。


 骸竜ナームジ(年に一回、開催される骸竜の祭典。スモフ〔骸竜の格闘技〕、競馬、ララモ厶〔狩りの技を競う〕の三種の競技が行われる)のイェブ・スモフ(戦士の卵がスモフを競技する階級)において優勝し、竜人の仔(イェブ・ドラーゴラ)の称号を獲得した。優勝時の年齢である十一歳は大会最年少記録となった。


 両親はとても喜んで、ドルエルベニを我が家の誇りだと言ってくれた。ヴルグテッダに師事して以降、疎遠になっていた同世代の仲間達も、ドルエルベニの快挙を祝福してくれた。


 これにはドルエルベニもついつい、浮ついた気持ちになってしまう。


 ルルヴルグはドルエルベニの父の命により、骸竜ナームジの開催中は移動式住居に籠もっていた。出番を終えたドルエルベニがルルヴルグの移動式住居に顔を出すと、ルルヴルグは開口一番


「何かいいことあった?」


 とドルエルベニに訊ねた。ルルヴルグに気取られるようでは、流石に浮かれ過ぎだと自省した。とは言うものの、ルルヴルグの強請るが儘に己の武勇伝を話して聞かせてやったのだから、やはり、浮かれていたのである。


 ルルヴルグは度を越した世間知らずで、骸竜ナームジについて何も知らない。それでも


「おめでとう! すごい、すごい!」


 と手を叩き、ドルエルベニの成功を我が事のように喜んだ。


 ヴルグテッダが亡くなって以来、ドルエルベニはルルヴルグを非常に嫌悪していることを隠さなくなり、ルルヴルグの機嫌をとることもなくなった。出会い頭にへらへらするなと頬を張ったこともある。


 ルルヴルグは今、にこにこ笑っている。ドルエルベニが以前のように、恫喝や叱責を交えずにルルヴルグを構うことが、嬉しくてたまらない様子だ。


 ドルエルベニはルルヴルグの満面の笑みから目を逸らし「首領の言い付けに背くなよ」と言い残してルルヴルグに背を向ける。ルルヴルグは立ち上がり、ドルエルベニの背に声援を送った。


「ドルエルベニなら、次も勝てる! がんばれ!」


 次もと言うのは、スモフの優勝者である竜人《ドラーゴラ》との対戦である。竜の仔は、竜人《ドラーゴラ》への挑戦権を得るのだ。


 ドルエルベニは戦士の卵の俊傑であるが、まだ戦場に出ることを許されない十一歳の小人にすぎない。スモフの達人であり一廉の戦士でもある竜人への挑戦は、強さを求めるドルエルベニにとって、さらなる高みを目指すまたとない機会であった。 


 両親や仲間達からの声援には


「胸を借りるつもりで、精一杯、ぶつかってくる」


 と応え、努めて謙虚を心がけていた。


 しかし、それは口先だけの殊勝な心がけだった。ドルエルベニは、竜人が相手でも勝ちに行くつもりだ。しかし、誰もが皆、ドルエルベニは竜人には敵わないと頭から決めてかかる。


 そんな中、ルルヴルグだけが、ドルエルベニの勝利を信じていた。


 ドルエルベニは何とも言えず、決まりが悪い思いをした。無言のまま、移動式住居を後にした。


 その後、ドルエルベニはいったん帰宅し、母が用意してくれた軽食をとった。ドランビ(革製の外套。首元で固定し、着用者の肩から背中を覆う。釣鐘肩で袖のない、身ごろのみの形状。被膜の翼を象った衣装)を着用し、母に見送られ移動式住居を出る。


 会場に向かう道程、ルルヴルグの移動式住居の方へ、なんとなく目を向ける。移動式住居の裏手に泥だらけの長靴グムルが片方だけ、ころりと転がっているのを見つけた。一目見てルルヴルグの長靴だとわかった。ヴルグテッダがルルヴルグの小さな足に合わせて一から作った、特別あつらえの長靴である。


 ドルエルベニは不安な胸騒ぎを覚えた。ルルヴルグの安否を確認するべく移動式住居を訪ねるも、中はもぬけの殻。近場を探しても見つからない。途方に暮れていると、ニヴィリューオウが現れ、ドルエルベニの肩をぽんと叩いた。


「もうすぐ試合だな。準備は万全か? お主は青嵐の天馬の年に生まれし我等の期待の星。皆の羨望の的だ。いいところを見せてくれよ」


 ドルエルベニはニヴィリューオウの励ましに応えず、ニヴィリューオウに問いかけた。


「ルルヴルグを見なかったか?」

「ルルヴルグ? さぁ、どうだったか……ルルヴルグがどうかしたのか?」


 ドルエルベニが経緯を説明すると、ニヴィリューオウは考える素振りを見せてから「そうだ、思い出した」と、身振り手振りを交えて言う。


「これくらいの麻袋を担いた奴を見かけたぞ。麻袋の中身はじたばたしていた。獣の仔でも入っているのかと思ったのだが、ひょっとすると、あれはルルヴルグだったのかもしれないな。担ぎ手は誰だったか……思い出せない。遠目に見ただけだからな」


 ニヴィリューオウの言う「これくらい」とは、ちょうどルルヴルグがすっぽりと納まるくらいの大きさであった。


 ーーやられた。ちょっと目を離した隙に!


「そいつは何処へ行った?」

「あっちだ、あっち。高い楢のある方。ああ、そう言えば、高い楢の木に、麻袋が括り付けられているのを見たと、バジッゾヨが言っていたな。中身が何か気になるから、観戦の後で見に行こうと誘われた」


 ニヴィリューオウの指差す方へ、ドルエルベニは駆け出した。ドルエルベニを呼び止めるニヴィリューオウの声は、疾走する風の音に掻き消された。


 寥廓たる暗天の下、万古の平野の真中。黒雲から零れ落ちるように、冷たい雨がぽつりぽつりと降り始める。ドルエルベニは高い楢の木を目指して、一目散に駆けて行く。


 五アーダを優に超える樹高を誇る楢の木。その樹冠の上部、大枝の付け根に、麻袋が括り付けてある。麻袋の中身は絶えずもぞもぞと動いている。


 ドルエルベニはそれを見て、舌打ちをした。


 ーーまったく、世話が焼ける!


 麻袋を大枝に括り付ける鬣縄(移動式住居を組み立てる際、骨組みに扉を固定する為に使用する、四足馬の鬣をよりわさあわせた縄)の結目が解けかかっている。


 ーーあの高さから落ちたらまず助からない。ルルヴルグが死ねば清々するが、ルルヴルグを死なせるわけにはいかない


 ドルエルベニは声を張り上げた。


「動くな! 今、行く!」


 麻袋の中身の動きがぴたりと止まった。ドルエルベニは大急ぎで木を登る。木登りは骸竜の小人に人気のある遊戯のひとつで、ドルエルベニも小人の頃は、幾度となくこの木で木登りに興じた。目を瞑っていても樹頭まで登れるし、速さを競えばドルエルベニの右に出る者はいない。


 ドルエルベニはするすると木を登り、あっという間に、太枝に到達した。麻袋が落ちないように押さえながら、もやい結びでつくられた輪の結目を解くと、麻袋を小脇に抱えて楢の木から降りる。その間、袋の中身は身動ぎもしない。いくら無分別であっても、今ここで無闇に暴れるのはまずいということはわかるようだ。


 ドルエルベニは地面に降り立つと、すぐさま、袋を開けようとした。ところが、袋の口は縄で雁字搦めに縛られていて、なかなか開けられない。もたもたしている間に雨足が強くなり、南の空で遠雷が轟いた。


 雷は背の高い木に落ちやすい。ドルエルベニは麻袋を抱えて、楢の木から距離をとる。三アーダ程離れたところで立ち止まった。


 ーー先に麻袋から出してやるか? それとも、このまま連れ帰るか?


 ドルエルベニはよく考えて、後者を選ぶことにした。雨に濡れて身体が冷えて、患いでもすれば大事である。一刻も早く、帰路に就くべきだ。


 移動式住居を目指して歩き出すと、袋の中身がもぞもぞと動いた。ドルエルベニは「大人しくしていろ」と命じたが、袋の中身はじたばたして駄々をこねる。「移動式住居に着いたら出してやる」と言っても納得しない。


 ーー小さくて弱い癖に、強情だから始末が悪い


 非力な反抗を抑圧することなど、赤子の手をひねるより容易いことだ。それでも、これの世話を焼いていると、嫌気が差すことはあるし、投げ出したくなることもある。


 本来であれば、ドルエルベニは今頃、竜の仔として竜人に挑んでいる筈だった。今更、足掻いたところでどうにもならない。ドルエルベニは大事な試合をすっぽかしてしまったのだ。


 ーー不戦敗だ


 ドルエルベニは天を仰いだ。


 ーー首領からお叱りを受けるだろう。母様は悲嘆に暮れるだろう。皆、ドルエルベニの不義理に幻滅するだろう


 ドルエルベニはヴルグテッダの全てを継承する為に、ルルヴルグを守ると誓った。邪道に陥っても、最強の奥義を我が物としたかった。憧れを掴めるのなら、一生を賭けても悔いはないと思った。


 ーールルヴルグを守るということは、こういうことだ。多くを諦めなければならない


 ドルエルベニは屹然と溜息をついた。


 ドルエルベニとしては、ずっと前から、ルルヴルグのわがままに振り回されるのにうんざりしている。


 ヴルグテッダが亡くなってから、月がひとつ生まれて、満ちて、欠けて、死んだ。ドルエルベニはルルヴルグにかかりきりになって、そのろくでもない性根を叩き直そうと苦心しているが、経過ははかばかしくない。


 ーーこれを苛める連中の気持ちは、わからなくもない


 ルルヴルグがヴルグテッダの子でなければ、ヴルグテッダがルルヴルグを愛さなければ。弱者を甚振って悦に入る恥知らずに成り下るつもりはないにせよ、生かしてはおけないだろう。


 ドルエルベニは麻袋を地面に放り投げた。持たざる者も、受け身をとることは出来る。そんなことも出来ないのなら、痛い目に遭って当然だ。


 袋の中身がのたうつが、そんなことはどうでもいい。ドルエルベニは麻袋の傍らにしゃがみ込む。


「袋を切り開く。動くなよ」


 袋の中身にそう言いつけると、中身が動き、小さな手形がふたつ、袋の表面に浮かび上がった。どうやら、両手を突っ張ることで袋の布をぴんと張り、爪が立ちやすいようにしているらしい。ドルエルベニは感心した。


 ーー自分に出来ることは何か、考え、行動している。ヴルグテッダが亡くなる前であれば、こんな時は、助けを求めて泣き喚くばかりだったのに


 そうひとりごつ。それから我に返り、自嘲した。


 この軟弱者を鍛えるためには、必然的に、共に活動する時間が長くなる。それはドルエルベニにとって大変な苦行であった。


 だからこそ、苦行に耐えた甲斐があると思いたいのだ。その一心で、些細な変化をせこせこと拾い集めている。


 実際、ひとりを寄って集って苛める卑怯者どもに後れを取り、剰え、ドルエルベニにその尻拭いをさせているのだから、心身惰弱というよりほかない。


 ドルエルベニは麻袋の表面に爪を立て、慎重に切り開いてゆく。半ルダ(一ルダは骸竜の戦士の掌の長さを基準とした単位)程の切れ目から覗くと金瞳は、ドルエルベニの予想に反して、潤んでいなかった。


 ドルエルベニが手を引くと、小さな手が裂け目を広げる。それは、廃馬の孵化を彷彿とするものだった。雛馬が自力で卵の殻を破れない場合、母馬は卵をつついて殻に罅を入れ、孵化の手助けをしてやる。そのようにして孵化する雛馬は小さく弱いため、廃馬とするのが習わしだ。


 ーー出来損ないは死ぬ。それが世の理だ


 麻袋から這い出したルルヴルグが、よろよろと立ち上がる。ドルエルベニは、ルルヴルグの頭の先から爪先まで目を走らせた。


 髪はざんばら。頬は充血して腫れ上がり、唇は切れて血が垂れている。爪はぼろぼろで、右手の人差し指の爪は剥がれている。左足に重心を置き、右足を庇っている。メーヅ(骸竜族の衣装。立襟で、男女問わず打ち合わせは左側が上。右肩と右脇のニカ所に釦が付いた長衣)とウドゥム(メーヅの下に履くズボン)はところどころ裂けて穴が空き、血が滲んでいる。革帯ウヴを腰に締めていない。泥だらけの靴下グムクスを履いており、長靴グムルは履いていない。


 他者の移動式住居に押し入ることは極めて無作法だ。そのような暴挙に出る骸竜はまずいない。


 ルルヴルグは移動式住居を出たところを何者かに捕まり、撲られ、蹴られ、引き摺り回され、動けなくなったところで袋に詰められ木に括り付けられたのだろう。


 ーールルヴルグは言い付けを破った。そうして、ドルエルベニは恥をかいた


 苦痛に苛まれ、ぼろぼろになった醜態を晒しながら、ルルヴルグはドルエルベニを見上げている。大きな目に光をたたえ、ドルエルベニに笑いかける。


「助けてくれて、ありがとう」


 雨があらゆる音を吸い込んで、その声は静謐のなかに響く。空が割れ、稲妻が走る。白白と照らし出される、無垢な笑顔。それはヴルグテッダが死ぬより以前と同じものであるように見える。


 ルルヴルグはドルエルベニに謝罪するのではなく、感謝を伝えた。ドルエルベニがルルヴルグを救う為に竜人へ挑戦する好機を逃したことを、ルルヴルグは知らないのだ。知らないから、いつものように、屈託なく笑っている。


 ーーヴルグテッダを籠絡したあの女も、こんな風に笑ったのだろうか


 あの女だって、きっと、何も知らなかった。あの女を得るために、ヴルグテッダの名声が地に落ちたことも、親族や戦友との絆を失ったことも、何も知らなかった。


 何もかも、あの女のせいなのに。


 降りしきる雨が目を塞ぐ。目の前にいる小人の姿が、記憶の中の女のそれに重なる。重なり合って、溶け合った。


「ドルエルベニ? どうした? 大丈夫?」


 ルルヴルグは小鳥のように小首を傾げ、ドルエルベニの顔を覗き込む。一歩前に出るとき、泥濘から跳ね上がった泥水がウドゥムの裾を汚す。ルルヴルグは小さな手をドルエルベニへ伸ばす。その弱さ故に、血と泥に塗れた手がドルエルベニの手に触れようとする。


 ドルエルベニはその手を打ち払った。ルルヴルグが目を丸くする。


 ドルエルベニは、ルルヴルグがドルエルベニを心の拠り所とし始めていることに気付いていた。肉体を守るだけでなく精神を守るために、ルルヴルグはドルエルベニを必要としている。ヴルグテッダという、絶対と信じられる庇護を喪ったルルヴルグにとっては、ドルエルベニだけが頼りなのだ。


 そうと知っていても、否、知っているからこそ。ドルエルベニは時々、ルルヴルグを悉くやりこめたり、きついことを言ったりしたくなる。ちょうどこの時がそうだった。


「ルルヴルグは弱い。弱さは咎だ。この不束者め」


 ドルエルベニはヴルグテッダと交わした約束を交わした。だから、ドルエルベニはルルヴルグを守る。ドルエルベニがどんなにルルヴルグを嫌悪していようとも、交わした約束は果たさねばならない。


 それでも、この時、ドルエルベニはこう言わずにはいられなかった。


「お前のせいで、何もかも、うまくいかない」

「……えっ?」


 ルルヴルグがこの時程、虚けたように、我を忘れたようになったことはかつてなかった。


 ルルヴルグの打ちひしがれる姿を見ると、ほんの少しだけ、溜飲が下がるようだ。


 ドルエルベニは冷淡だった。その冷淡の中に、節度と中正とがありさえすればよいと考えていた。


 ドルエルベニは踵を返す。俯くと、真新しいドランビの裾に染みた泥跳ねが、やけに目に付いた。

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