35.ドルエルベニ 「刃を研ぎ手入れをするのと同じこと」
「お前の言うことに一理あることを認めないでもない。バジッゾヨがお前に敗北したからには、バジッゾヨは戦士の名を重じ、不意討ちの卑怯を避けるだろう。しかし」
ルルヴルグは目を伏せ、首を横に振る。皆まで言うな、ということだ。
「ルルヴルグはバジッゾヨに雌伏を強いた。然ヤば、心かヤ平伏すユには至ヤぬ。バジッゾヨが何よりも欲すユのは、己に恥をかかせたルルヴルグの死。それも、汚辱に塗れた死に他ならない。好機が到来すれば、雪辱を果たすべくルルヴルグに挑みかかユ。そうだな?」
全くもってその通り。ルルヴルグの頭は本人の言う通り「派手な飾り」ではないようだ。
それにしても、ルルヴルグは己の無謀を知らない。ルルヴルグ曰く、バジッゾヨは「誇り高き戦士の魂の持ち主」らしいが、元来は短気で激情家である。バジッゾヨにとどめを刺さないことは、極めて危ない橋を渡ることだった。ルルヴルグはバジッゾヨの美点に注目し、欠点に目をつむるとごろか目を向けない。
ドルエルベニはルルヴルグの幼稚を揶揄する。
「ご聡明で何より重畳。『ルルヴルグとバジッゾヨは、決闘を経て心通う仲になったのだ』などと戯言を抜かしたら徒では済まさぬ心算だった。それで? 当然、確かな勝算があるからこそ、次の決闘に臨むのだろうな?」
今回の決闘において、バジッゾヨはルルヴルグの戦法を身を以て知った。バジッゾヨは小隊長に昇格した実力者だ。今のままでは、次回の決闘でルルヴルグの勝利する確率は七割を切るだろう。
ルルヴルグは心得ていると応ずる。
「己を鍛え上げる努力を惜しまぬ者は、いずれ必ず、天賦の才あるものを凌ぐ。ドルエルベニが教えてくれたことだ」
「願わくは、いずれ必ずおとずれるその時が、次の決闘に間に合うことを」
「間に合わせユさ、必ず」
正面を切って断言する顔には、気品があった。持たざる者の子として、汚辱の中を生きてきた合の子とは思われない、かげりのないひたむきさがあった。
ドルエルベニには、ルルヴルグの情操涵養に力を注いできたという自負がある。こうしてその成果が目に見えることを、ひそかに喜ばしく感じるが、そんなことはおくびにも出さない。ドルエルベニはつけつけと言う。
「お前の獣吼は耳障りだ。いつものように話せ」
野次馬達を喝破して以降、ルルヴルグの声は掠れている。ずっと気に懸かっていた。獣吼の発語はルルヴルグの喉に負担をかけるのだ。ルルヴルグの身になれば、バジッゾヨや野次馬達の手前を考え、獣吼を話すことをやめられなかったのだろう。
今ここにいるのはドルエルベニとルルヴルグ、それぞれの愛馬のみ。だから、傷めた喉に鞭打つ必要も、つまらないことで意地を張る必要もない。
ところが、ルルヴルグは首を横に振る。大丈夫だと言ったそばから背を丸めて咳き込むので、ドルエルベニは呆れた。呆れながら、背を擦ってやる。落ち着いた頃を見計らい、細い頤に手をかけ、ドルエルベニはルルヴルグの顔をうわむかせた。
紅を引いたかのように血に彩られた唇を、親指の腹で拭う。柔らかい口唇はちょっとでも爪を引っ掛ければ破れてしまうので、指の腹で慎重に唇をなぞる。
ルルヴルグは目を瞠る。恥知らずなことでもしてしまったかのように、慌てて身を引いた。手の甲で唇に残る血を拭う。
咳き込む際に口をおさえていた掌にも、血がべったりと付着していた。
血塗れの手をじっと見て、ルルヴルグは眉を顰める。
「もう……良いのだ、ドルエルベニ。これ以上、ルルヴルグを甘やかしてくれユな」
「何だと?」
ドルエルベニは目を剥いた。
ドルエルベニはヴルグテッダと交わした約束を果たす為、不本意ながら、ルルヴルグを守り育ててきた。生まれつき、非力で脆弱なルルヴルグを、妥協も容赦もなく鍛え上げた。
ドルエルベニは峻厳な師であった。ルルヴルグは幾度となく生死の境をさまよった。死なない程度に加減してやったり、看護してやったり、庇ってやったりして、世話を焼いたのは、ルルヴルグが死んでしまっては元も子もないからだ。
ーー剣の斬れ味を落とさぬよう、刃を研ぎ手入れをするのと同じこと。それを甘やかすと捉えられるのは心外だ
それがわからないほどに愚かなのか、わかっていて試しているのか。いずれにせよ、その愚かさを思い知らせてやらねばなるまい。ドルエルベニは拳骨を固める。ルルヴルグの頭をいやと云うほど擲ってやろうと、拳を振り上げたとき、ルルヴルグは顔を上げた。
ルルヴルグのことは、赤ん坊の頃から知っている。その目を見ればすぐにわかる。それが真剣に訴えかける目であると。
今、ルルヴルグの胸中に渦巻くものはある種の苦悩に近いものだ。その苦悩の原因までも思い測ることは出来なかった。
「……ドルエルベニは『お前の獣吼は耳障り』だから『いつものように話せ』と言ったのだ。それが何故、甘やかすことになる」
ついはぐらかすようなことを言ってしまう。ルルヴルグは紅い唇に仄かな微笑を刷いた。
「そういうとこヨだ」
どういうところだ、と問いかける口吻にルルヴルグの人差し指が当てられる。ルルヴルグは「聞いてくれ」と前置きして、言った。
「ルルヴルグを侮り、忌み嫌うは、バジッゾヨのみにあヤず。骸竜の総意なのだヨう。ドルエルベニはルルヴルグを見捨てず、助けてくれた。ずっと一緒にいてくれた。だかヤ、謂れなき謗りを受けユ」
ーー何を言い出すかと思えば、そんなことか
どうやら、バジッゾヨがドルエルベニの素行を非難したことを気に病んでいるらしい。ルルヴルグ本人は深刻に思い悩んでいるようだが、ドルエルベニに言わせれば全くくだらないことだ。
ドルエルベニは鼻で笑った。
「だからどうした。このドルエルベニが、有象無象の讒口によって傷心するとでも思うのか?」
ドルルエルベニに言わせれば、答えるまでもない愚問である。ルルヴルグは頭を振った。
「ドルエルベニは讒口を歯牙にもかけず、首領は讒言を真に受けぬ。それでも、ドルエルベニの名誉に傷が付くことに変わりはない」
「そうだとしても、他者からとやかく言われる筋合はない」
ドルエルベニはぴしゃりと言った。ルルヴルグは唇を噛む。両者は押し黙って、睨み合った。
ドルエルベニもルルヴルグも、一度こうと決めたら梃子でも動かぬ。だから、押し問答をすることはとにかくよくない。この件について、ドルエルベニは一歩も譲歩するつもりはない。
「そんなことより、バジッゾヨのことだ。何故、バジッゾヨにとどめをささなかった? お前を凌辱した挙句のはてに殺すと言って憚らぬ男を何故、生かさねばならぬのだ?」
ルルヴルグは眉根を寄せた。強引に追求の矛先をそらしたドルエルベニに対する反感がルルヴルグの喉もとまでこみ上げたようだ。結局、ルルヴルグは不満を言わなかったが、ドルエルベニの質問に質問を返した。
「ドルエルベニは、バジッゾヨが気に入ヤぬか?」
「当然だ。奴の言動は戦士の道理に悖る」
「バジッゾヨはルルヴルグを辱めた。それだけだ」
「それだけ? 不当な辱めを甘んじて受けると言うのか?」
ドルエルベニの鋭い視線がルルヴルグを打擲する。軽はずみな事を言ってみるがいい、後悔させないでは置かないから。この目は確かにそう言っていた筈だ。
ルルヴルグはドルエルベニの目を真っ直ぐに見返す。そして目を伏せた。満ちては欠ける、とらえどころのない月のように。
「誰も不当な辱めとは思わぬ」
ドルエルベニは背筋の冷たくなるような感覚をおぼえた。それと同時に、勃然として怒りを発し、ドルエルベニはルルヴルグの肩を掴んだ。
「お前はそれでも骸竜の戦士か。小隊長の名が泣くぞ!」




