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野獣の花嫁  作者: 銀ねも
32/58

32.ドルエルベニ 「取り上げてはならぬ」

 

 ルルヴルグと風の関係性は特殊なものだ。ルルヴルグは風を猫可愛がりしており、風はルルヴルグをこよなく愛している。およそ戦士と戦馬の関係性ではない。


 本来なら戦士と戦馬は紛れもない主従関係にあるものだ。骸竜の男は試練を乗り越え一人前の戦士となると、まず徒手空拳で野生の雄馬に挑む。野生の雄馬をその身一つで屈服させ、己の戦馬とするのである。


 風はそうではない。ルルヴルグが長年の間、手塩にかけた牝馬だ。


 六歳になったルルヴルグの成長を祝い、ヴルグテッダはルルヴルグに孵化したばかりの雛馬を贈った。ルルヴルグは牝馬にふわふわ(チウティム)と名付けた。まずい名だと思ったが、ルルヴルグにはルルヴルグなりのこだわりがあるらしいし、ヴルグテッダがルルヴルグの好きにさせると言うから、余計な口出しは出来なかった。


 骸竜の小人は六歳になると、親から牝の雛馬を与えられる。小人は牝馬を育てながら、馬の世話の仕方、調教の技術、乗馬と馬術を学ぶ。牝馬は小柄で気性も扱いやすい傾向があるので、初めて深く交わるにはうってつけの馬なのだ。


 女は雛から育てた牝馬に跨り狩猟に出かける。男は野生の雄馬に挑み、手懐けた雄馬に跨り戦に出る。雛から育てた牝馬は採卵馬として飼育する。採卵馬は戦馬として活躍する雄馬の中から伴侶を得て子を為す。それが骸竜のしきたりだ。


 ドルエルベニはしきたりに則り、ルルヴルグにもそうさせるつもりだった。ところが、ルルヴルグが十二歳のとき、ふわふわが抱卵し、あまつさえ卵詰まりを起こしたのである。


 ドルエルベニは回想にふける。あれは暗雲が月光を遮る真夜中のこと。氷雨を落とす空は、もはや世界が闇に閉ざされたのではないかとすら思わせる瞑さであった。


 ドルエルベニの移動式住居にずぶ濡れになったルルヴルグが駆け込んできて、ふわふわを助けてくれと懇願した。ルルヴルグによると、ふわふわの呻き声で目を覚まし、駆けつけると、ふわふわは血を流して倒れていたらしい。


 骸竜の戦士ならば、危機や困難に直面しようとも、取り乱したり混乱するようなことはあってはならない。ルルヴルグは愛される小人として、愛する男である首領より戦士の心構えを教わっており、熱心に学んでいた。ドルエルベニはそれを知っているから、ルルヴルグがこんなにも慌てふためくということは、事態は一刻を争うのだと瞬時に理解した。


 礼を失する振る舞いを叱る時間も惜しんで、ドルエルベニは移動式住居を飛び出した。両親の移動式住居に飛び込み、なんとかしてやってくれと平身低頭して母に頼み込んだ。母は娘時代から馬の扱いに長けていると評判であり、それ故、父は母に求愛したと言っても過言ではないと、ドルエルベニは考えていた。


 母はルルヴルグを蛇蝎のごとく嫌っており、目に入るのも手に触れるのも穢らわしいと公言して憚らない。ドルエルベニは、母が応急処置を施す間は身を隠せとルルヴルグに言いつけた。しかし、ルルヴルグは頑として聞かず、苦しみ悶えるふわふわの傍を離れようとしなかった。ドルエルベニは聞き分けの悪いルルヴルグを折檻したが、それでもルルヴルグは譲らなかった。


 ドルエルベニは戸惑った。両親を亡くしてからというもの、ルルヴルグは聞き分けの良い小人になり、わがままを通してドルエルベニを困らせることは無かったのに。


 仕方なく、母にはこの牝馬はルルヴルグが傍にいないと暴れるので、ルルヴルグを同席させねばならないと嘘をついた。

 母は「持たざる者は牝馬の躾もまともに出来ぬのか」と毒づきつつも、ふわふわに応急処置を施してくれた。骸竜は馬を大切にするものだ。たとえそれが、弟の仇の子の馬であったとしても。


 その結果、ふわふわは一命をとりとめた。しかし、命と引き換えに卵を産めない体になってしまった。


「どうせ廃馬になるのに無駄なことをさせられた」と、母は大変なお冠だった。


 役目を果たせなくなった馬は廃馬とされる。廃馬は直ちに屠殺され、その肉は皆の糧になるのが習わしだ。


 ドルエルベニの父の牝馬が年老いて廃馬となったとき、ドルエルベニは己の取り前から半分とって、ルルヴルグに分けてやった。海千山千の父だが、愛馬を手にかけたこの時ばかりは明らかに気落ちしており、ルルヴルグも母も、父を心配していた。


 そんなこともあったから、卵を産めない牝馬がどうなるか、主人がどうするべきなのか、ルルヴルグは知っている。


 ドルエルベニは不平不満を言う母を宥めすかして移動式住居に送り届けると、踵を返した。


 ドルエルベニが戻ると、タウプ(支柱や縄を使って設営する布状の屋根のこと)の下、ルルヴルグは膝を揃えて畳んで地面に座っていた。力なく横たわるふわふわの頭を膝にのせている。小さな手でふわふわの頭を撫でながら、大丈夫と繰り返す。ふわふわはそれに応えるかのように、蚊の鳴くような声でくぅくぅと鳴く。時々、長い舌を出してルルヴルグの手の甲を舐めた。


 ルルヴルグはドルエルベニが戻ったことに気が付くと、居ずまいを正し、丁重に頭を下げた。普段のルルヴルグなら溌溂として満面の笑みで感謝を示すので、どうも調子が狂う。


 卵詰まりを発症した原因は不明だが、ドルエルベニの知る限り、ルルヴルグはふわふわを丁重に扱っていた。母はルルヴルグが愛馬を失うのはルルヴルグの自業自得だと言い捨てたが、ドルエルベニには、ルルヴルグに落ち度があるとはどうしても思えなかった。


 とは言え、柄にもなく慰めの言葉をかけるのは気が進まない。ドルエルベニは何とも言えず、ルルヴルグを見下ろした。


 雨粒はルルヴルグを容赦なく打ち据えて、熱を奪われた肌は青褪めている。金瞳を瞠いてふわふわを見下ろすルルヴルグは、冷たい雪花石膏で刻まれた人形のようだった。


 本当はすぐにでもルルヴルグを暖かい移動式住居の中に放り込んでしまいたかった。ドルエルベニ達と違って、ルルヴルグは水に濡れたままでいると体調を崩す。


 それでも、今、ルルヴルグとふわふわを引き離すのは得策ではないと、ドルエルベニは考えた。


 だからと言って、このままにしておく訳にもいかない。ドルエルベニはルルヴルグの背後に回り込み、覆いかぶさるようにして屈み込む。こうすれば、横殴りの雨風も多少は防げる。


 ルルヴルグがドルエルベニを振り仰ぐ。鴉の濡れ羽色の髪が凍りついたように顔にはりついている。ドルエルベニは目許に落ちかかる髪を払ってやりながら、当たり障りない話をする。


「ふわふわは、ルルヴルグを主人ではなく番と認識しているようだ」

「……何故、そう思う?」

「牝馬が羽繕いしてやるのは、番と我が子だけだ」


 言いながら、ドルエルベニはふわふわが雛馬だった過去を思い返す。ドルエルベニと遊びに出かけるとき、ルルヴルグを後追いするふわふわを連れて行けないことに、ルルヴルグは心を痛めていた。手ぶらで帰るのは心苦しいと言って、花を摘んで持ち帰っては、ふわふわの羽冠に花を挿してやり、機嫌をとっていた。


 雄馬は牝馬に求愛するとき、求愛の踊りの他に、己の羽や仕留めた獲物を貢ぎ物として捧げることがある。もしかしたら、ふわふわはルルヴルグに求愛されたと勘違いしていたのかもしれない。つんけんして見せていたが、万更でもなかったのだろう。


 ルルヴルグは片頬笑み、ふわふわの頭を撫でる。伏せた睫毛の先に雨粒が玉を結び、ルルヴルグが瞬くと滴り落ちた。


「そうなのか。ふわふわは雛馬の頃から、ルルヴルグの顔を舐めたり、耳を甘咬みしたり、髪を啄んだりしていたぞ。おませな雛馬だったんだな……ッ」


 ルルヴルグは言葉を詰まらせて、項垂れる。ドルエルベニはルルヴルグから目を逸らした。ルルヴルグが泣いたらドルエルベニはルルヴルグを叱らねばならない。


 たとえば、ルルヴルグが嫌だ嫌だふわふわを殺したくないと、頑是ない小人のように泣き喚き駄々をこねたとしたら。ドルエルベニは厳しく叱責することを躊躇わなかった。


 しかし、そうではなかった。ルルヴルグはこれからふわふわがどうなるのか、己がどうするべきなのか、正しく理解している。さらに、それを受け容れようとしているのだ。


 愛馬を手にかけるのは辛い。誰だってそうだ。悲しみに暮れるのは当然のこと。追い打ちをかけるような真似はしたくない。


 ーー泣くな、泣くなよ。涙が頬をつたっても、これは雨だと誤魔化せ


 ドルエルベニが祈るような気持ちで目を遊ばせていると、ルルヴルグがアッと声をあげた。


 これまで目を閉じていたふわふわが目を開き、ルルヴルグを見詰めている。ふわふわは渾身の力を振り絞って首を動かし、ルルヴルグの顔に嘴を寄せると、ルルヴルグの頬を舐めた。


 ふわふわは生死の境を彷徨っても尚、自分自身よりルルヴルグの身を案じていた。


 ルルヴルグは感極まって、ふわふわの頭にぎゅっと抱きついた。


「大丈夫、大丈夫だ、ふわふわ。ちゃんとする。絶対に、苦しませたりしない」


 羽毛に顔を埋めたままルルヴルグは言った。最初こそ落ち着いていたが、だんだんと熱を帯びてきて、最後は涙声にすらなっていた。


悲しみを堪え気丈に振る舞おうとするのに、愛馬と恩愛の絆で結ばれるが故に、それもままならないルルヴルグをただ見ているのは、ドルエルベニには相当やりきれないことだった。


 ドルエルベニはルルヴルグの脇の下に手を入れてひょいと抱き上げる。ルルヴルグが驚きの声を、ふわふわが抗議の声を、同時に上げる。


 ドルエルベニはきょとんとするルルヴルグを横抱きにする。ルルヴルグの身体はすっかり冷え切っていた。一刻も早く、暖かな移動式住居に連れ込み、冷たい衣類を剥ぎ取り、濡れた髪を乾かし、毛皮に包んでやらねば病を得てしまう。


 ルルヴルグと引き離されたふわふわは、ドルエルベニをきっと睨みつけた。威嚇行動をとり、ドルエルベニを牽制する。


 ーー思いの外、元気そうだな。ルルヴルグに膝枕をされている間は、ぐったりしていた癖に


 もしや、ルルヴルグの気を引きたくて衰弱したふりをしていたのではと、あり得ないと理解しつつ、勘繰りたくなる。


 ドルエルベニとふわふわが睨み合っていると、ルルヴルグが遠慮がちに、ドルエルベニの腕をぺちぺちと叩いた。


「ドルエルベニ、おろしてくれ」

「だめだ。お前はもう休め」

「ルルヴルグは大丈夫だ」

「こんなに冷えて、大丈夫なものか。病を得たらどうする。また、ドルエルベニに看病させるつもりか?」

「大丈夫だ。ドルエルベニを煩わせたりしない」

「言うは易く行うは難しだ。口だけならなんとでも言える」

「そんなことない。ドルエルベニには迷惑をかけないと約束する。だから、頼む。ふわふわと一緒にいたいんだ」


 ドルエルベニは必死に食い下がるルルヴルグを一瞥し、頭を振る。


「ふわふわこそ休ませるべきだ。お前と一緒にいると、ふわふわはお前の世話を焼きたがるだろう」


 ルルヴルグは目を伏せる。睫毛にいくつもの雫が絡み、潤んだ金色の瞳が揺れた。


「それは……そうかもしれない。でも」


 までは出たが、二の句が口籠もって、途切れてしまう。ルルヴルグは悄然と項垂れた。


 ーーふわふわの前で、これが最後になるとは言えぬか


 ドルエルベニは嘆息する。最後の時間を共に過ごしたいと言う、ルルヴルグの気持ちはわかる。しかし、それでルルヴルグが倒れてしまえば、本末転倒だ。ルルヴルグがふわふわを手にかけることが、ルルヴルグとふわふわ、両者にとって、せめてもの救いになるのだから。


 だからこそ、ドルエルベニはルルヴルグに同情しつつも、心を鬼にして、ルルヴルグをぴしゃりと叱りつける。


「惨めったらしく俯くな。顔を上げてしゃんとしろ」


 ルルヴルグはびくりと肩を震わせる。しばらくして、ルルヴルグは顔を上げた。目の縁は濡れ、瞼の下のあたりには赤みがさしている。


 両親の死後、ルルヴルグはどんなに厳しい訓練においても涙を見せなかった。そんなルルヴルグの涙ぐんだ眼を見れば、否が応でもでもあの時を思い出す。


 孤児となり、ヴルグテッダの庇護を失い、生まれてはじめて孤独に晒された幼いルルヴルグ。ドルエルベニはルルヴルグを冷たく突き放した。独りぼっちで膝を抱えるルルヴルグに寄り添い、震える心の支えとなったのは、ルルヴルグをひたむきに慕う、この牝馬だったのかもしれない。


 ーールルヴルグからふわふわを取り上げてはならぬ


 ドルエルベニは自分自身の短絡的な思考に愕然とする。


 ーー駄目だ。しっかりしろ、ドルエルベニ。ルルヴルグを徒に甘やかすな


 ドルエルベニは己を叱咤する。とにかく、ルルヴルグを己の移動式住居に連れ帰ろうと決めて、ふわふわに背を向けた。


 次の瞬間、ふわふわが立ち上がった。よろよろと右足から踏み出して、ドルエルベニとルルヴルグの後追いをする。


 ルルヴルグはドルエルベニの手を振り解き、ドルエルベニが抱え直す間もなく転がり落ちる。そのままの勢いで、ふわふわのもとに駆け寄った。ルルヴルグが傍に戻ると、ふわふわはその場にぺたんと座り込む。ルルヴルグはふわふわの頭を抱きしめた。


 ふわふわは卵詰まりの処置を終えたばかりで、衰弱をきたしている筈だ。何せ、臓器の一部を引き摺り出したのだから。


 ーー理由は何であれ、弱りきった体に鞭打って立ち上がる気概は、並の雄馬を凌駕するだろう。ふわふわには戦馬の素質があるのやもしれぬ


 考えてみれば、小さく非力なルルヴルグの戦馬には、小さく非力な牝馬がぴったりだ。背伸びをして雄馬に跨がることはない。


 戦士の牝馬には、軍馬と番い、卵を産むという役目がある。卵を産めない牝馬は、役目を果たせないが故に廃馬となるのである。


 ーーでは、牝馬だてらに戦馬として主人と共に駆けるのならば? ふわふわは、廃馬にならずに済むのではないか


 ドルエルベニは天を仰ぐ。


 ここまできたら、ふわふわを生かす理由を探していることを認めざるを得ない。


 ええいままよ、とドルエルベニは宣言した。


「ふわふわは廃馬ではなく、ルルヴルグの戦馬にする。元気になったら調教を始めるぞ。新しい名を考えておけよ。戦馬の名がふわふわでは面目が立たぬ」


 そんなの非常識だと非難されることはわかりきっている。しかし、それがどうした。後ろ指を指されるのは今に始まったことではないし、掟は牝馬を戦馬とすることを禁じていない。


 ルルヴルグは目を見開く。ドルエルベニが与えた希望に照らされた瞳の輝きは、雲間から顔を覗かせる満月に勝るものだった。


「心してかかるのだぞ。戦馬として使いものにならねば、廃馬になるのだから」


 ドルエルベニが釘を刺したちょうどその時、ルルヴルグは仔兎が跳ねるようにしてドルエルベニの腹に飛び付いてきた。ドルエルベニの話をちゃんと聞いていたかどうか、疑わしい。


 ルルヴルグをとられたと怒るふわふわに威嚇されながら、ドルエルベニは父に話を通す算段をしていた。

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