31.ドルエルベニ 「孤独という寂しさは、誰よりもわかるのだろう」
バジッゾヨは粛々と恭順の意を表し、ルルヴルグは取り澄ました顔をしてそれを受け容れる。つい先刻、両者とも強い敵愾心を燃やしていたのが、嘘であったかのようだ。
年甲斐もなく無邪気なルルヴルグだけならともかく、バジッゾヨまでもがどうして、さも当然のように主従として振る舞えるのか。まったく解せないことだった。
バジッゾヨは言動に愚鈍なところが感じられない、なかなかの男であるが、本音と建前を使い分けるということを知らない所為で、しばしば周囲の顰蹙を買っていた。本人にその自覚がないのだから、どうにも始末に負えない。
バジッゾヨはそんな男だから、慇懃無礼であっても、バジッゾヨがルルヴルグ相手にへりくだった態度をとることに、ドルエルベニは驚かされた。この短時間で、バジッゾヨの心境に変化が起こりつつある。有り体に言えば、冴え冴えとして誇り高いルルヴルグの心に絆されつつあるのではないか。バジッゾヨはルルヴルグにヴルグテッダの面影を見たのだ。ドルエルベニがそうであったように。
全く同じということではない。類稀なる強者であったヴルグテッダは絶えず威厳をもって他を圧服していたが、ルルヴルグはまさしく逆で、持たざる者の烙印を押され、嘲られ軽侮された。
ルルヴルグには他を圧服する威厳はない。そのかわり、他を受け容れる寛大な心があった。生来の天真爛漫ぶりがそこに加わると、どうだろう。己を辱めたバジッゾヨを屈託なく赦し、恰も長年の友であるかのように気安く接する。親しくしていた仲間達に見放され孤立したとき、こんな風にされたら、誰だって悪い気はしないだろう。見事な人心掌握術と言える。交誼を結ぶ相手などいた試しがないのによくやるものだ。
ーー小隊長ルルヴルグは男あしらいがお上手でいらっしゃる
ドルエルベニは心中で毒づく。そして、驚愕した。
酷い讒言である。女相手にこのような暴言を吐こうものなら、寄って集って打ちのめされる。男相手であれば命を懸けて争うことになる。いずれにせよ、ドルエルベニの風評は地に落ちるだろう。
「男あしらいが上手」などと言っても品位を疑われることなく、笑って済まされるのは、淫乱な奴隷を罵るときくらいのものだ。
ルルヴルグは奴隷女が産んだ子だが、奴隷ではない。そのことは、ドルエルベニが一番よくわかっているのに。
ーー何故、ルルヴルグはバジッゾヨを生かしたのか。その理由はさっぱりわからぬが、ルルヴルグが野次馬どもやニヴィリューオウからバジッゾヨを庇う理由ならば、よくよく考えればわかることだ
ルルヴルグは両親の死後、大人達に放っておかれ、心を配って貰えず、小人達に苛められる小人だった。ドルエルベニはルルヴルグと行動を共にしたものの、ルルヴルグの震える心に寄り添おうとしはなかった。
当時のドルエルベニは弱々しいルルヴルグを疎ましく思っており、時として殺意さえ抱いた。ヴルグテッダの死後は悪感情を隠さず、ルルヴルグに辛く当たっていた。ルルヴルグがいくら脳天気でも、ドルエルベニの真意を悟ったに違いない。
ドルエルベニがルルヴルグの努力を認め、ドルエルベニの態度が軟化する迄の間、ルルヴルグは完全に孤立していた。
ーー孤独という寂しさは、誰よりもわかるのだろう。だから、ルルヴルグはバジッゾヨを放っておけなかったのだ
腹の底でとぐろを巻く苛立ちをおし殺し、ドルエルベニは馬を待たせている方へ向かって歩き出す。ルルヴルグは雛鳥のようにドルエルベニの後を付いてくる。当たり前のことなのに、心のささくれが撫で付けられるような心地がする。不思議というか不可解で、ドルエルベニは首を傾げた。
ドルエルベニの馬は、ルルヴルグの馬と一緒にいた。林立する樫の木の下、ルルヴルグの馬の正面に陣取り、脚を曲げて姿勢を低くして、羽を広げながら首を前後左右に大きく振っている。求愛の踊りである。ルルヴルグの馬はそっぽを向いており、取り付く島もない。
ドルエルベニが立ち止まると、ルルヴルグはドルエルベニの隣に並ぶ。ドルエルベニの馬を指さして笑った。
「またやっている」
ドルエルベニは「ドルエルベニの馬を指差すな」とルルヴルグの脳天を拳でこつんと小突いてから、己の馬を叱った。
「稲光、無駄な努力を繰り返すな」
稲光は素早く振り返ると、主人を見つけるなり、巨体を縮こませた。羽を下げて頭を垂れて、服従の姿勢をとる。ドルエルベニはやれやれと頭を振った。
稲光はいつもこうだ。ルルヴルグの馬のこととなると平時の従順ぶりが嘘であったかのように、ドルエルベニがいくら叱っても体面を取り繕うばかりで、反省し改めようとしない。
一方ルルヴルグの馬はルルヴルグの姿を認めるなり、ルルヴルグの方へ首を伸ばし、くぅくぅと甘い声で鳴く。ルルヴルグは破顔一笑、両手を広げて、そわそわしている愛馬を迎える。
「風、おいで!」
風は嬉しそうに一声鳴いて駆け寄ってくる。風は脚を曲げて姿勢を低くすると、ルルヴルグの胸元に頭を擦り付けた。主人の前に跪く従僕と言うより、愛しい男の胸に飛び込む乙女と言った方がしっくりくるだろうか。少なくとも、風自身はそのつもりでいるのだろう。ルルヴルグの髪を甘咬みしたり、頬を舐めたりする。羽繕いをしているのだ。牝馬は番と我が子にしか羽繕いをしない。つまり、風はルルヴルグを主人ではなく、己の番だと認識しているのである。
ルルヴルグは風の頭を両手でわしわしと撫で回す。
「おうよし、よしよし。ルルヴルグが恋しかったのか、可愛い奴。アッ、待て、ちょっと待て、待てったら……こら!」
風に耳殻を啄まれ、ルルヴルグは擽ったいと笑いながらを身を捩る。しかし、打ったり押し退けたりしない。だから風は舐めたり甘咬みしたり啄んだり、ルルヴルグの顔を涎だらけにして、もうやりたい放題だ。耳の付け根や頬を重点的に舐める。鱗と皮膚の境目が敏感だと知って愛撫しているようだ。ルルヴルグが笑うから、喜んでいると思うのだろう。
稲光が羽を上げる。嘴を打ち鳴らし地面を蹴り、ルルヴルグを威嚇する。強い雄馬は番のいる牝馬に恋をすると、その番や雛を蹴り殺して、牝馬を我が物にしようとすることがある。
稲光は雄馬のうちでもひときわ巨体を誇り、力は強く気性は荒い悍馬である。強者であると自負しているだろう。ドルエルベニ以外の誰にも乗りこなせず、ドルエルベニ以外の戦士を見下している節がある。もちろん、誰よりも小さなルルヴルグも例外ではない。
ドルエルベニがやめよと一喝すると、稲光は不承不承そうに頭を垂れた。風と戯れるルルヴルグを妬げに睨む。ドルエルベニがちょっとでも目を離したら、その隙にルルヴルグに襲かかりかねない。
ルルヴルグは風の頭を抱き込んで抑えながら苦笑した。
「風、これ以上は勘弁してくれ。ルルヴルグが稲光に蹴られる」
ところが風は、稲光の存在など眼中にないというより忘れはてた様子で、ルルヴルグの胸に頬擦りをしている。




