3.スズリヨ 守りたい人
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手当てを終えると、軍医はあらかじめ用意されていた清潔な衣服を指し示し「これに着替えて休むように」とスズリヨに言いつけた。スズリヨはおどけて左手を挙げた。
「はいはーい」
「語尾を伸ばさない」
姉はスズリヨを叱り、軍医から着替えを受け取る。「姉さんに叱られた」とわざとらしく悄気て見せるスズリヨの頭を小突き、姉は甲斐甲斐しくスズリヨの着替えを手伝う。スズリヨは軍医をちらりと見て、小声で姉に抗議した。
「姉さん、着替えくらい自分で出来る」
「傷に障る」
姉がぴしゃりと言う。スズリヨには返す言葉もない。気恥ずかしいと思いながら、スズリヨは幼子のように姉に身を委ねた。
軍医の幕舎を出ると、リヨ姉妹はスズリヨ傘下の百人隊に所属する什長達に取り囲まれた。
「隊長! 隊長だ!」
「おお、やっと出て来やがった!」
「隊長、傷の具合はどうだ!?」
「長くかかったな、何針縫った?」
「ゴルドラン野郎め、よくもうちの隊長を傷物にしやがって! そうでなくても嫁の貰い手がねぇってのに」
「無事か、隊長、無事なのか?」
「なんだなんだ、五体満足でピンピンしてんじゃねぇか! 誰だよ、隊長は半端な獣人野郎のバカでかい肉断ち包丁で、解体されちまったって、口からでまかせの法螺を吹いた野郎は!?」
「バカ野郎! 俺達の勝利の女神が、獣人なんぞにやられるものか! なぁ、そうだよな、隊長!」
むくつけき男達がどやどやと押し寄せてくる。大柄なスズリヨですらもみくちゃにされそうになるのだから、華奢な姉はひとたまりもないだろう。スズリヨは姉を背に庇いながら、隊長の無事に沸き立つ什長達を一喝した。
「鎮まれ!」
私の姉さんを押し潰すつもりか、と続く言葉を咄嗟に飲み込む。姉がいるとわかれば、什長達は大騒ぎするだろう。
以前、姉が訓練場にスズリヨを訪ねて来たときのこと。絶世の美女の登場に、兵士達は色めき立った。うっとりと見惚れる者、鼻の下を伸ばす者が大半で、それだけなら良かったのだけれど。什長のひとりであるダグラスが一目惚れをしたと姉を口説いたことから、他の兵士達がそれを囃し立てる乱痴気騒ぎになった。
スズリヨが慌てて駆け付けたときには、ダグラスがきょとんとした姉の肩を抱いて悦に入っていた。スズリヨはダグラスの髭面を殴り飛ばし、姉を横抱きにしてその場を離れた。
女旱の男所帯を美女が訪ねればそうなるのだ。スズリヨは思慮深い姉らしからぬ軽挙妄動を諌めようとした。当の姉は
『やっぱりダメだ! 思った通り、兵舎の男たちは皆、スズの虜だ! 誰も彼もスズを狙っている! あのような、餓えた狼の巣窟にスズを置いておけない! 殿下に上申し早急にスズの待遇を改善して頂かなければ!』
と騒ぎ立てるばかりで、スズリヨの話に耳をかしてくれなかったけれど。
『まさか! わたしみたいな大女、誰も女だと思わないよ!』
とスズリヨが笑い飛ばすと姉はむっとして『スズは世界で一番可愛い』と言い張る。姉の欲目にも程がある。スズリヨは苦笑するしかない。
しかし、姉の憂慮は的はずれが、と言うと実はそうでもない。
スズリヨは十五歳で従軍した。従軍して間もない頃のスズリヨは、頭髪を短く刈り込み、まるで少年のようだったけれど、兵士達は女であるスズリヨを嫌い、様々な嫌がらせをした。卑猥な言葉で揶揄したり罵倒したりすることは日常茶飯事で、中には力に飽かせて無体を働こうとする不届き者もいた。
下品な言葉にはさらに下品な言葉で返し、ならず者は死なない程度に痛め付ける。そうしているうちに、スズリヨを軽んじる兵士はめっきり減った。戦場で武功を立てれば、向けられる眼差しは軽侮から畏敬に変わったのだ。
そのような経緯を、姉には秘密にしている。
今となっては、スズリヨを可愛いと言うのは姉くらいのものだし、百人隊にはスズリヨを手篭めにしようとする物好きも命知らずもいない。
それでも姉は持論を曲げない。姉が公衆の面前で
『スズがあまりに愛くるしいので、このままでは、兵士たちはスズを巡って争うでしょう! そうなれば、士気にかかわります! 』
とジュラリオ王子に直訴したとき、スズリヨは愧死するところだった。
そんなことがあった。遠い目をするスズリヨの背中を姉が小突く。「何とか言え」と促される。スズリヨは我に返った。
リヨ姉妹を取り囲む兵士達が、スズリヨを一心に見詰めていた。待てと命じられた忠良な犬のように、スズリヨの言葉を待っている。姉の言う通り、何とか言わなければ。
スズリヨはえへんと咳払いをした。
「たいしたことはない、掠り傷だ。負傷者は皆、無事か? ダグラスは?」
傾聴していた兵士達がどっと沸いた。
「お前さんが掠り傷なら、俺達ぁ無傷だな!」
「流石だ、隊長!」
「ダグラスの野郎なら生きてるぜ。ついさっき、意識が戻ったんだ。夢現であんたに礼を言いやがる。『こっぴどくやられたが、隊長のお陰で命拾いした。流石、俺達の勝利の女神』だとよ」
「……そうか」
スズリヨは胸を撫で下ろす。スズリヨは姉のように心優しい人間ではない。姉と自分さえ無事ならそれで良い、他人がどうなろうと知ったことではないと、自分本位に考える。それでも、一応の情はある。
什長達とは従軍当初からの付き合いだ。ダグラスは女と見れば誰彼構わず思わせぶりに色目を使う筋金入りの女誑しで、スズリヨの従軍当初から何かとちょっかいをかけてきたが、無体を働くことはなかった。それどころか、スズリヨを凌辱しようとした不埒な輩に鉄拳制裁を加えた。
『女に無理強いするなんざ、みっともねぇ。悔しかったら、抱いて欲しいと女にせがまれる男になりやがれってんだ。俺みてぇに。なぁ、お嬢ちゃん?』
そう言って、片目を瞑って見せた。熊のようにむさ苦しい大男に、気取った仕草は不似合いで、スズリヨは思わず笑ってしまった。
スズリヨは強くなったから、自分の身は自分で守れる。そうであっても、味方があると心強い。そして、心から嬉しかった。
「ダグラスは何処に?」
見舞ってやりたいと言外に告げると、什長達は互いに顔を見合せ、苦笑した。
「日を改めて、見舞ってやってくれねぇか」
「あの気障野郎、隊長にはみっともねぇところを見せたくねぇとうるせぇのよ」
「あいつ、ちくっと痛むだけで、ヒイヒイ喚きやがるからな」
「そもそも、隊長。お前さんも怪我人だろうが。今日はもう休め」
「……そうする」
スズリヨがそう言うと、什長達は休め休め! と唱和する。
「じゃあな、隊長、お大事に! 姉さんに心配かけんなよ!」
什長達に見送られ、リヨ姉妹は連れ立ってその場を後にする。
ーー什長達、姉さんがいることに気が付いていたな。この前のように騒ぎ立てなかったのは、時と場合を弁えて自重したからか?
そんなことを考えていると、隣を歩く姉がくすくすと含み笑う。なに? と小首を傾げると、姉はスズリヨの背を撫でながら言う。
「スズは部下によく慕われているな」
「そうか?」
「ああ。たいしたものだ」
「姉さんに褒められた」
「それは褒めるさ。立派な妹をもって、私も鼻が高い」
「また褒められた」
スズリヨが大袈裟に驚いてみせると、姉は綺麗に微笑む。それから、真剣な顔をしてスズリヨを見詰めた。
「正直に助かった」
此度の戦でスズリヨが姉の救援に駆け付けたことを言っているのだろう。姉らしい素朴な謝辞がスズリヨの心を震わせる。
ーーこれくらい、なんでもない。姉さんがわたしのためにしてくれたことにくらべたら
真情を吐露すれば、姉を心配させてしまうから。スズリヨはにかっと笑った。
「ようやく、姉さんを助けられるようになったな。これからは、わたしが姉さんを守る」
「頼もしい。お前がいてくれれば百人力だ」
「姉さん、わたし、本気だぞ」
「ふふ、よしよし」
姉は背伸びをして、スズリヨの頭を撫でる。スズリヨは頭を下げて姉の愛撫を受けいれつつ、頬をふくらませた。
「また、こども扱いして」
「してない、してない。スズ、屈んで」
スズリヨが言われた通りにすると、姉はスズリヨの頬を両手で挟み、妹の頬に詰まった空気を抜いた。スズリヨの額に自身の額をくっつけて、姉は目を閉じる。
「スズの気持ちは嬉しい。けれど、あまり無茶をしてくれるな。お前がこうして生きていてくれる。それだけで、私は救われる」
スズリヨは姉に倣いそっと目を伏せた。花瞼に隠れた姉の瞳は切実な色を宿しているのだろう。
両親を亡くしてから、姉はスズリヨを何よりも大切にして、守るためには手段を選ばなかった。体を差し出すことも、手を汚すことも、躊躇わなかった。
スズリヨがそのことを知ったのは、先の戦で屍鬼族の軍団長『穴を穿つ者』ドドナガの心臓を槍で貫いたときだった。
ドドナガは今際の際、悪意の渦巻く飢狼の目でスズリヨを睥睨し、ゴソゾの死の真相を囁いた。ドドナガは在りし日の奴隷商人ゴソゾの客であったと言う。
『十年前、ゴソゾは俺におのれを売ったのよ。おのれは愛らしく、おのれの魔法は面白い。ゴソゾが下手を打たなけりゃ、おのれは今頃、俺に従順な奴隷だったのさ。おのれの姉はたいした玉だぜ。色仕掛で主人を誑し込み、寝首を掻いたんだからな。惜しいねぇ。俺なら、おのれを真の奴隷に仕立てあげてやったものを。このドドナガの為に殺し、このドドナガの為に乱れる。これぞおのれのあるべき姿だ』
こんな男女をつかまえて何を言うか、と鼻で笑い、スズリヨはドドナガの首をはねた。平静を装っていたが、震える心は断末魔じみた悲鳴を上げていた。
どのようにして姉の尊厳が犠牲になったのか、スズリヨは知る由もない。それでも、十年前の情景が目に浮かぶようだった。
喉を掻き切られ、悶え苦しむゴソゾの丸々と肥えた背に、裸の姉が馬乗りになる。姉は短刀を大上段に振りかぶる。
『スズは、私が守る』
そう呟いたかもしれない。それが姉の口癖だから。そして湿った寝台が血に染まる。
スズリヨがゴソゾの死の真相を知ったことを、姉は知らない。知らせるつもりもない。きっと、姉の優しい心を傷付けてしまう。
ーーわたしのために、わたしのせいで。姉さん、ごめんなさい
スズリヨは何度も何度も繰り返し、心のなかで姉に謝罪した。決して口には出さない。今も昔も、姉はスズリヨが無邪気な少女であることを許し、そうあることを望んでいる。
スズリヨは何も知らないふりをして、何も知らなかった頃のように笑う。
「姉さん、わたしを誰だと思っているんだ? 西の魔女アンリヨの妹、スズリヨだ。殺されたって死んでやらないさ」
ーーこれまで、ずっと、守ってくれてありがとう。これからは、私にも姉さんを守らせて
心の中で姉に語りかけながら。




