28.ドルエルベニ 「ドルエルベニになら何をされても良いとでも?」
どう云う了見だと問い質す。ドルエルベニの詰問はルルヴルグに阻まれた。両手でドルエルベニの口吻を包み込むようにして抑えたのだ。
ルルヴルグが小人の頃、ドルエルベニはひっきりなしのおしゃべりをする小さな口を、掌で覆って黙らせていた。やり返されるなどということは、想像だに出来なかった。
ルルヴルグは前に出ながら横に体を流す。至近距離から、うっとりと匂い立つような、生命の香りを感じた。闘争の余韻が、漲る若い血を抱いた白肌を熱らせ、薄紅色に染まった項の芳しさを際立たせている。
ルルヴルグはすれ違いざまに伸び上がって、呆気にとられるドルエルベニに耳打ちする。
「後で話そう」
ルルヴルグの囁やきが胸の中を擽る。ドルエルベニは己がごくりと喉を鳴らしたことを自覚した。
優雅に黒髪を靡かせるルルヴルグを目で追って振り返ると、ニヴィリューオウと目が合う。失笑を禁じ得ないと分かりきっていたが、首を横にふることで、指摘するには及ばぬと伝える。ニヴィリューオウは肩を竦める。ドルエルベニは予想通り、ニヴィリューオウの失笑を買った。
ドルエルベニの方へ進もうとするニヴィリューオウの前に、ルルヴルグが立ちはだかった。
ニヴィリューオウは彼の行く手を遮る小さな存在に目を落とす。その目を見れば、ルルヴルグはニヴィリューオウの路傍の石であるとわかる。
ニヴィリューオウはルルヴルグを骸竜の戦士として認めていない。だからと言って、不埒な好色の念からくる関心を寄せるでもない。
現に今、死闘を制した興奮と疲労により上気した顔に見上げられても、ニヴィリューオウの表情はぴたりと止まったままである。嗜虐や欲情の類に襲われることもない。路傍の石の形に一々興味を持たないのと同じということか。
ルルヴルグは不動の無関心をあらわすニヴィリューオウの無表情を見上げる。元来、物怖じはしないたちだ。この時も顔を上げて相手の目を見て、真正面から語りかける。
「連隊長ニヴィリューオウよ、事の経緯はご覧の通りだ。バジッゾヨはルルヴルグが貰い受けユが、構わぬだヨう?」
ニヴィリューオウはルルヴルグの問いかけに答えない。しかし、聞き取れなかった訳ではなく、聞き流した訳でも無いようだ。
ニヴィリューオウは言葉もなく立ち尽くすバジッゾヨに目を向ける。バジッゾヨは目に見えて動揺した。目が泳ぎ、ニヴィリューオウを見返すことが出来ない。ニヴィリューオウの冷めた視線にたじろぎ、やがて力尽きたかのように項垂れる。
バジッゾヨを見据えるニヴィリューオウの眼光に、単なるひややかさ以上のものが加わった。ニヴィリューオウが口を開く。血塗れの牙がぬらぬらと光った。
そこで出し抜けに、ルルヴルグが挙手する。ニヴィリューオウの視界に入るよう、背伸びをして、掲げた左手を指先までぴんとのばして。手を左右に振りながら、ルルヴルグは声を張り上げる。
「連隊長ニヴィリューオウよ、バジッゾヨはルルヴルグが貰い受けユぞ。構わぬな? か、ま、わ、ぬ、な!?」
耳が遠い年寄りにするように、一音一音を区切って、大声を発する。これでニヴィリューオウを挑発する意図が無いのだとしたら、世間知らずにも程がある。
ーールルヴルグの奴、ニヴィリューオウに獣吼が通じず、甘ったれの小人として扱われたことを根に持っているのか?
そうだろうか? どうも腑に落ちない。ニヴィリューオウがルルヴルグを、ドルエルベニにべったりくっつく小人として扱うのは、何も今に始まったことではないのだ。ルルヴルグはその都度、不機嫌になるものの、ぐっと怒りを堪えていた。今更、こんな幼稚な腹いせをするだろうか。
ーー或いは、注意を引こうとしているのか
バジッゾヨをちらりと見る。バジッゾヨは顔を上げていた。ルルヴルグの後ろ姿を食い入るように見つめている。
ニヴィリューオウは冷眼を以てルルヴルグを見下す。最早、バジッゾヨなどニヴィリューオウの眼中に無いようだ。
ーールルヴルグはその華奢な身を挺して、ニヴィリューオウの視線の呵責からバジッゾヨを守ろうとしている
その解釈は正解かもしれないが、ドルエルベニを酷く苛立たせた。
ーーだから、何故、バジッゾヨにそうまでしてやらねばならぬのだ!?
ルルヴルグがバジッゾヨに肩入れする理由が立たない。とどのつまり、その一点に収束する。
ーー否、今はそれどころではない
ドルエルベニはとりとめのない思考を中断し、ニヴィリューオウに注目した。ニヴィリューオウはおおらかだが、無作法者に対して寛容という訳ではない。
ニヴィリューオウは目を眇める。瞬きの間に目の色を変えた。
おもむろに口を開く。
「今のは辛うじて聞き取れたぞ。小さなルルヴルグが、言うようになったものだ」
ニヴィリューオウの声調は抑揚を欠いていた。言葉尻に、鋭く空を切る音が重なる。
ドルエルベニが駆け出すのと、ルルヴルグが後方に飛び退るのがほぼ同時。ニヴィリューオウの尻尾がルルヴルグの足元を薙ぎ払うのと、ルルヴルグの右手が剣の柄を握るのが同時だった。バジッゾヨが危ないと叫ぶ。
もうもうと立ち上る土煙のなか、ドルエルベニは後向きに飛び込んでくる小さな身体を抱きとめる。剣の柄を握る小さな手を右手で抑え、細い腰に左手を回し、ルルヴルグを胸に抱き込む。ルルヴルグはアッと驚きの小さな声を上げる。
その直後、一足に間合いを詰めたニヴィリューオウの、返す尾の追撃を、ドルエルベニは己の尻尾で打ち払う。ニヴィリューオウは一歩後退した。
ドルエルベニは大きく弧を描いて抉られた地面を見下ろす。ニヴィリューオウがルルヴルグに足払いをかけた痕跡である。打擲の直撃を受けたとしたら、ルルヴルグの足の骨は粉々に砕けていただろう。
ルルヴルグは不意に死角から仕掛けられた攻撃を的確に回避した。追撃にも的確に応じた筈だ。剣を抜き、ニヴィリューオウの尻尾を弾いて。
尻尾には尻尾で応じるのが最適解だが、骸竜と持たざる者の混血児であるルルヴルグに尻尾は生えていない。徒手空拳では反撃はおろか、防御も不可能である。
ルルヴルグは利き手を負傷しているものの、返す尻尾の一撃を剣で弾く程度のことは可能だった筈だ。
傷めた右手に鞭打って剣を振るうことで、負傷を悪化させたかもしれない。それで済めば、ドルエルベニが恥を忍んでルルヴルグとニヴィリューオウの諍いに割って入ることはなかった。
ドルエルベニが助けに入れば、ルルヴルグの矜持を傷つけ、ルルヴルグを辱めることになる。
そうであっても、ルルヴルグに剣を抜かせる訳にはいかなかった。ニヴィリューオウの尻尾を弾く為にルルヴルグが剣を抜けば、ルルヴルグは骸竜の掟に反逆したと見做される。
掟は、格下の戦士が格上の戦士に楯突くことを禁じている。また、私闘を禁じてもいる。格下の戦士が格上の戦士に挑むには、正式な手順を踏まなければならない。
掟に背き反逆者の烙印を押されれば、何もかも全て、おしまいだ。骸竜は反逆者を赦しはしない。反逆者は例外なく誅され馬の餌になる。
ルルヴルグにも分かることだ。咄嗟のことで、反射的に剣に手が伸びたのだろう。戦場ならばそれで良いが、この場合はそれが命取りになる。
ドルエルベニの乱入によって、ルルヴルグは命拾いをしたものの、失態を晒す羽目になった。格上の戦士に無礼を働き、危ないところを格下の戦士に助けられたのだ。これを無能と呼ばずに何と呼ぼう。
赤恥だが、ここは我慢のしどころだ。
ーーそれはそれとして……ルルヴルグはドルエルベニこそ清く正しい骸竜の戦士であると信じて疑わぬ。そのドルエルベニにより戦士の矜持を傷付けられたとなれば、憤慨するか、失望するか。いずれにせよ、面倒だな
ルルヴルグが立場を弁えず、聞き分けのないことを言うようなら、力尽くで黙らせなければならない。そんなことを考えながら、ドルエルベニはルルヴルグの顔を覗き込む。ドルエルベニを仰ぎ見るルルヴルグは、ドルエルベニから見ると、まだ何ともあどけない顔をしていた。
ドルエルベニは溜息を吐く。反抗されるかと身構えたが、どうやら杞憂だったようだ。
ーーそれはそれで、どうなのだ。お前は恥をかかされたのだぞ。ドルエルベニになら何をされても良いとでも?
そう言えば、ニヴィリューオウは「ドルエルベニが相手ならば、ルルヴルグは肉になっても従順で、ドルエルベニに尽くす」などと言っていたと思い起こす。そんな戯言を真に受けはしないけれど、なんだか落ち着かない気分になる。
ドルエルベニの腕の中でルルヴルグが身動ぐ。久々に抱いた矮躯は、小人の頃のようにふわふわと柔らかいばかりではない。不断の努力が実り、靭やかで張りのある筋肉が発達しているのがわかる。
ただし、鍛え上げられた肉を包むのは、赤子より柔らかな皮膚である。それは血の巡りが青く透けて見える程に薄く、傷つきやすい。ドルエルベニが爪を立てれば、たちまち、儚く裂けて血を流す。
鍛えても、肉体の脆弱を完全に克服することは出来ない。わかりきったことだ。それでも、ルルヴルグはひたむきな努力を続けてきた。ドルエルベニと共に戦士であろうとし続けた。だからこそ、ドルエルベニはルルヴルグを守り育ててきたのだ。
ーー闘争の最中、果てることが戦士の本懐。うっかり掟を破り処刑されるなど、笑い話にもならぬわ
ドルエルベニはルルヴルグを地面に降ろしてやる。いつもは自由を制限されることを嫌い、放せ放せとじたばたするルルヴルグが、この時ばかりは大人しかった。
ルルヴルグはくるりと振り返り、ドルエルベニと向き合う。左手で額に落ちかかる髪を掻き上げつつ、上目遣いにドルエルベニを見上げる。
悄然として首をすくめる様子から察するに、己の言動の、無鉄砲だったことを認識しているだろう。ドルエルベニが助けに入ったお陰で難を逃れたことも。
ルルヴルグは「世話をかけた」と言った。他聞を憚る小声だった。ドルエルベニに「鉤爪の小隊長ともあろうものが、軽々しく頭を垂れるな」と叱られたことを、ちゃんと覚えているようだ。
ーー何が「自分のことは自分で出来るようになる」だ。まだまだ世話が焼けるではないか。小隊長に昇格しようが、決闘に勝利しようが、ルルヴルグはルルヴルグだ
ドルエルベニはルルヴルグと見つめ合い、僅かに顎を引く。それから、ニヴィリューオウに視線を移した。ニヴィリューオウは尻尾をゆるゆると左右に振っている。尻尾が痛むのだろうか。
ドルエルベニの狙いはニヴィリューオウの尻尾の軌道を逸らすことだった。ドルエルベニは力加減を誤ったようだ。冷静ではなかった。
ーーだからと言って、ニヴィリューオウがドルエルベニを私刑にすることはあるまい。ルルヴルグのことも
ニヴィリューオウはドルエルベニとルルヴルグより上位の戦士である。所属が異なるので、ドルエルベニとルルヴルグはニヴィリューオウの配下ではない。余程の事が無い限り、ニヴィリューオウはドルエルベニとルルヴルグをこの場で私刑にすることはない。
そもそも、私刑にするつもりならば、ニヴィリューオウはまず剣を抜く。
そう確信しているからこそ、ニヴィリューオウが肩をそびやかし
「一対一の争いに第三者の介入はご法度だぞ」
と嘯いても、ドルエルベニは動じない。
「連隊長ニヴィリューオウは、小隊長ルルヴルグの無作法を窘められたのであろう。然らば、これは争いではない。ドルエルベニは、小隊長ルルヴルグをお諌めしたまで」
と淡々と言い返す。
ドルエルベニが適当なことを言って、ルルヴルグを助ける理由をこじつけていると考えたのか。ニヴィリューオウはやれやれと首を振る。
「ドルエルベニはすぐにそうやって、ルルヴルグを甘やかす。ルルヴルグが可愛くて仕方がないのだな」
「違う、ドルエルベニは」
ドルエルベニの反駁を、ニヴィリューオウは一瞥で制する。そして続けた。
「ドルエルベニが助けに入ることは分かっていた。お主の可愛いルルヴルグを害する気持ちは毛頭ない。だから、そんなに怒るな」
ドルエルベニはニヴィリューオウを凝視する。これが詭弁かどうか疑うことさえ難しかった。




