表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
野獣の花嫁  作者: 銀ねも
23/58

23.ドルエルベニ 「言いたいやつには言わせておけば良い」

 

 バジッゾヨの右手がルルヴルグの顎をとらえ、ぐいと引き上げる。ルルヴルグはバジッゾヨの右手首を両手で掴み無礼を咎めるが、バジッゾヨは意に介さずせせら笑う。


 ドルエルベニ達とルルヴルグ達の間には、人垣を挟んで、三アーダ以上の距離があいている。ルルヴルグ達はドルエルベニ達がここまで来ていることに気付いていない。


 ドルエルベニの腹の底で勃然たる怒りが渦を巻いた。


 ーールルヴルグはまがりなりにも骸竜の戦士だぞ。それを、あのように粗末に扱うとは。まるで奴隷にするような!


 出来ることなら、ルルヴルグとバジッゾヨの間に割って入って、バジッゾヨを押し退けてやりたい。しかし、バジッゾヨは牙の小隊長、ドルエルベニより格上の戦士である。掟は、戦士が格上の戦士に楯突くことを禁じている。抗うならば決闘を申し込み、相手を引き摺りおろして己が成り上がるしかない。そもそも、一対一の争いに第三者の介入はご法度だ。


 バジッゾヨ達もそれを弁えているからこそ、ルルヴルグに手を出すのはバジッゾヨのみで、他の戦士達は野次を飛ばすに留めているのだろう。


 ルルヴルグは顔を背けることも出来ず、顔を寄せてくるバジッゾヨを睨みつける。バジッゾヨの指がルルヴルグの頬に食い込む。ルルヴルグの顎が軋む音がドルエルベニの耳にまで届くようだ。それでも、ルルヴルグは剣の柄に手を伸ばそうとしない。


 ルルヴルグは、獣吼を話すことは不得手でも、相手が明瞭に発音すれば聞きとることは支障なく出来る。バジッゾヨが吐いた侮辱を過たず理解しただろう。バジッゾヨは悪意を噛んで含めるように話している。


 ルルヴルグが納刀した上で不動の姿勢をとるのは、骸竜の掟が私闘を禁じるからだ。取っ組み合いの喧嘩であれば黙認されるが、剣を振るえば私闘と見做される。決闘が成立しない限り、骸竜の戦士同士で剣を交えることは許されない。


 ルルヴルグは、バジッゾヨの侮辱を黙殺するつもりのようだ。そうだ。それで良い。とドルエルベニは心中ひそかにルルヴルグを褒めてやる。


 バジッゾヨの言動は骸竜の戦士としての品位を欠いている。ルルヴルグに落度は無いのだから、相手にする必要性はない。バジッゾヨの挑発に乗って取っ組み合いをするなど、みっともないだけ。百害あって一利なきものである。不当な侮辱には抗議するべきだが、ルルヴルグの拙い獣吼は、バジッゾヨ達の嘲笑の的になることが目に見えている。


 ーールルヴルグを連れてこの場を離れよう。バジッゾヨはニヴィリューオウに心酔している。ニヴィリューオウの目があると知れば、己の無法な振る舞いを恥じ、引き下がるに違いない


 ドルエルベニはルルヴルグを迎えに行こうと決めて、一歩踏み出す。そして、振り返った。ニヴィリューオウは動かない。ドルエルベニは当惑した。俄に苛立ち、ニヴィリューオウを急かそうと口を開く。それに先んじて、バジッゾヨが声高に言い放つ。


「どれ、具合を確めてやろうか」


 バジッゾヨはルルヴルグの顎を右手で掴んだまま、左手でルルヴルグの尻を叩く。バジッゾヨが信じられない暴挙に出たことで、ルルヴルグの反応が遅れた。我に返ったルルヴルグが身を捩るが、バジッゾヨはルルヴルグを解放しない。バジッゾヨは仲間達に目配せをして、大っぴらに舌舐めずりをする。


「良い尻だ。この筋肉。きっと、こいつは良く締め付けるぞ」


 屈辱に頬を紅潮させるルルヴルグの顔を覗き込み、バジッゾヨは大口を開けて笑った。


 ドルエルベニは絶句した。あまりな言様である。


 バジッゾヨの仲間達の嘲笑が弾ける。ルルヴルグを見下す目には好色の光が閃いていた。それは奴隷を見る目だった。


 ルルヴルグがこどもの頃、ルルヴルグを奴隷にすることを望む声は少なくなかった。


 ルルヴルグはそこらの使い捨ての奴隷とは違う。奴隷商人が高値を付ける、選りすぐりの奴隷と比べても、際立って美しい顔立ちをしていた。ヴルグテッダの心を奪った女によく似た、弱く脆く小さなこども。


 ドルエルベニはルルヴルグを厳しく鍛えた。強く逞しく大きな戦士とまでは言えずとも、それなりに精悍な面構えの戦士に育ったと思う。これで血迷う輩もいなくなると思いきや、この有様だ。骸竜の戦士となり、小隊長に昇格した今も、ルルヴルグを邪な目で見る不埒な輩は後をたたない。


 近頃は、極稀にではあるけれど、ヴルグテッダの面影があらわれ、見る者を圧倒することさえあると言うのに。


 ーーだからこそ、か?


 弱々しく幼げな、持たざる者であれば、奴隷市場に行けば掃いて捨てるほどいる。しかし、骸竜の勇士ヴルグテッダと持たざる者の混血児は、ルルヴルグの他にいない。


 持たざる者の妖婦に入れ込み身を持ち崩したとは言え、ヴルグテッダは天下無双の戦士であり、骸竜の戦士は皆、ヴルグテッダに憧れた。ドルエルベニだけではない。ニヴィリューオウも、バジッゾヨすら、幼い頃はヴルグテッダに憧れていた。戦ごっこでは、誰がヴルグテッダ役をやるか、いつも揉めていた。ドルエルベニがヴルグテッダ役を他の誰かに譲ったことは一度もなかったが。


 かつてヴルグテッダに憧れた小人達は皆、その憧憬を捨て去った。しかし、忘れはしない。


 幻滅の悲哀は、ルルヴルグを見る者の心に好奇と侮蔑の爪痕を残し、ルルヴルグが戦士として頭角をあらわした後、それらは異常な殺意と敵意、そして悪意に変わった。変質した悪意が、執拗にルルヴルグを辱めようとするのだろう。


 バジッゾヨ達が蹂躙しようとするのは、憧憬の亡骸なのかもしれない。


 しかし、そんなこと、ルルヴルグの知ったことではない。憤りの声が、ルルヴルグの咽喉から渦捲く煙のように洩れて出る。


「……貴様、寝惚けユなよ」


「貴様、寝ぼけるなよ」ルルヴルグはそう言いたいのだろう。平時でも、ルルヴルグにはうまく発音出来ない音がある。それでも意味は通じるだろうに、バジッゾヨの仲間達は鬼の首をとったように喜んで、ルルヴルグの拙い獣吼を囃し立てる。


「なんだって? 寝惚け『ユ』なよ?」

「歩き始めたばかりの小人のように舌足らずなしゃべり方だ」

「満足に話すことも出来ぬ口は閉ざしていろ」


 ルルヴルグは苦虫を噛み潰したような顔をして押し黙る。ドルエルベニが「どうせ馬鹿にされるのだから、お前は獣吼を話すな」と言い付けたのを思い出したのかもしれない。


 バジッゾヨはにんまりと笑みを浮かべ、ご満悦のていである。ルルヴルグの顰め面を舐めるように凝視しながら、バジッゾヨは親指の腹でルルヴルグの口唇をなぞる。


「まぁ、そう言うな。この小さな口には、もっと別の使い途があるのだろう。ドルエルベニの仕込みならば、そちらもさぞや達者であろうよ」


 ルルヴルグが瞠目する。ここでドルエルベニの名が出てくることが予想外だったようだ。ドルエルベニ自身は、まぁそうなるだろうと得心したが。


 ーー猥談好きどもがまことしやかに言いふらす、根も葉もない噂だ。言いたいやつには言わせておけば良い


 ドルエルベニは達観しており、下品な巷説の種にされようと、腹を立てることはない。ルルヴルグを守り育てると決めてから、散々、邪推されてきた。一時は唯一の理解者だと錯覚した父でさえ、ドルエルベニが下心をもってルルヴルグを手許に置いていると決めつけた。バジッゾヨ達にどう思われようが、今更、あらたまった感慨はない。


 ルルヴルグはそうではないようだった。目じりを吊り上げ、唇をひん曲げている。


 その様子を見て、ドルエルベニの隣で腕組をして体を落ち着けたニヴィリューオウが笑う。


「ルルヴルグが怒ったぞ。ドルエルベニを侮辱されるのは我慢ならないと。可愛いものだな」


 ドルエルベニは黙して頭を振った。ルルヴルグがドルエルベニを慕っていることは百も承知だが、それを第三者に指摘されるのは、なんとも面映ゆい。


「ドルエルベニを貴様ヤと一緒にすユな」


 ルルヴルグが噛みつくように言う。無防備に開かれた唇に、バジッゾヨが親指を差し入れる。整った歯列が抉じ開けられて、桃色の舌がちらりと覗く。目の色を変えたルルヴルグが噛みつくが、まるで歯が立たない。バジッゾヨ達が哄笑する。バジッゾヨは思う存分、ルルヴルグの口腔を掻き回した。


「う……ぐぅ……うぇ……えっ……」


 くちゅ、ぐちゅ、と湿った音が立つ。ドルエルベニの耳に届く筈もないのに。くぐもった苦鳴が、ドルエルベニの腹の奥まで響くように木霊した。


 ルルヴルグは、顎を支点に吊り上げられ、踵を浮かせながら、バジッゾヨを睨み付けている。生理的に潤んだ瞳で。良いように弄ばれる矮躯は持たざる者と大差ないが、その目の力、研ぎ澄まされた刃の切れ味は、持たざる者は持ち得ないものだ。


 ドルエルベニは、ニヴィリューオウを急かすこともせず、ただその場に立ち尽くす。氷の手に撫でられたかのように、背筋がぞくっとした。


 ルルヴルグは嘔吐きながら、己の顎を掴むバジッゾヨの右手を渾身の力を込めて締め上げる。ここまで、出来るだけ穏便にことを済ませようと努めていたが、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだ。しかし、バジッゾヨは平然としており、右手の力を緩めない。爪を立てて掻き毟ろうにも、ルルヴルグの爪は柔らかく、バジッゾヨの鱗に弾かれる。


 バジッゾヨ達の嘲笑が、ルルヴルグの神経を逆撫でするのだろう。ルルヴルグの額に青筋がむくむくと漲った。


 バジッゾヨは、ルルヴルグの口腔を飽きるまで蹂躙し尽くして、指を引き抜いた。指に纏わりつく血と唾液を、ルルヴルグの頬に擦り付ける。バジッゾヨの爪は、ルルヴルグの口内をずたずたにしたようだ。血の混じった涎はルルヴルグの口唇から溢れ、顎を伝い首筋を流れ落ちた。


 ルルヴルグは口内に溜まった血と唾液を吐き捨て「下衆が」と持たざる者の言葉も吐き捨てる。剣の柄に手をかけ、ルルヴルグは唸るように言った。


「……お望みなヤ、ドルエルベニの仕込みの賜物、思い知ヤせてやユぞ。決闘に応じユか、バジッゾヨ」


 ドルエルベニは我に返った。バジッゾヨの嘲弄は度を越している。ルルヴルグは怒りに我を忘れつつあるが、衝動的に斬りかからず、決闘に持ち込もうとしている。その自制心は見上げたものだ。


 バジッゾヨは鼻で笑い、漸くルルヴルグを解放した。


「おいたはダメだ、小僧」


 ルルヴルグは猫のように軽やかに着地して、手の甲で口の周りを拭う。ルルヴルグの鋭い視線を安々と受け流し、バジッゾヨは肩をすくめた。


「貴様はドルエルベニの掌中の珠だ。目に見える傷のひとつでもつけようものならば後が怖い」


 バジッゾヨは冗談めかしてそう言い、目玉をぐるりと動かす。この仕打ちを、ルルヴルグがドルエルベニに泣きつくとは思わないらしい。その気概こそ、ルルヴルグが持たざる者とは一線を画す存在である証明なのだが、バジッゾヨにその認識はないようだ。


 バジッゾヨは彼を睨むルルヴルグを見下ろして、忌々しげに舌打ちをした。


「ドルエルベニは優れた戦士だ。しかし、ドルエルベニはヴルグテッダの二の舞を演ずるだろう。奴隷遊びに耽溺するあまり、いずれ身を滅ぼす」


 ドルエルベニがこれまで、耳に胼胝ができるくらい、繰り返し聞かされてきた、紋切り型の決まり文句である。ルルヴルグは何かを言おうとして口を開いたが、口をパクパク開けたり閉とじたりを繰り返すばかりで言葉にならない。


 それで気が済んだのか、バジッゾヨはルルヴルグに背を向ける。仲間達は各々ルルヴルグに軽侮の眼差しを向けて、バジッゾヨに続く。


 そのまま去ると思われたバジッゾヨは、すぐに足を止めた。此度の騒動の元凶である、ルルヴルグに声をかけた持たざる者奴隷が詰め込まれた檻に目をとめて、にやりとする。虎人の商人を呼び付けて、言った。


「商人よ。そこの奴隷どもは、バジッゾヨが貰おう。あれのかわりだ。たっぷり可愛がってやる」


 奴隷が掠れた悲鳴を上げる。獣吼を解さない持たざる者でも、バジッゾヨが特別に淫猥で残忍な遊戯を好む性質であると察したのか。


 商人は二つ返事で応えて、いそいそと檻の鍵を差し出す。鍵を受け取り、バジッゾヨは舌舐めずりをした。


 一心不乱に檻の格子を齧っていた真白の鼠が、おかしな風に身をよじり、バジッゾヨの足に飛び付いて、その親指を噛んだ。もちろん、バジッゾヨはなんの痛痒も感じない。それでも煩わしいのだろう。真白の鼠を振り落とし、踏み潰した。ぢっ、と小さな断末魔をあげて、真白の鼠は赤黒い染みに成り果てた。


 奴隷は震え上がり、息も絶え絶えに喘ぐように叫ぶ。


「お願い……助けて、黒髪の貴方……! せめて、妹だけでも、助けて……!」


 この期に及んで愚かな奴隷だとうんざりしつつ、ルルヴルグを回収せねばと考えて、ドルエルベニはルルヴルグに目を向けた。そして、目を剥く。ルルヴルグは剣を抜いていた。


「小鳥かの如く可愛ヤしい囀ずりだな。直ぐに黙ヤせてやユ」


 と言うやいなや、ルルヴルグは大きく跳ねるように一歩踏み込んで、剣を振り下ろす。剣は檻の前で屈んだバジッゾヨの肩を掠め、檻を真っ二つにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ