1.スズリヨ 人と獣の争い
ゴルドラン諸国連合のイリアネス侵寇は、国境防衛都市ネルベスの蹂躙を以て始まった。
ゴルドラン諸国連合はゴルドランと総称される獣人の部族国家の連合体であり、侵寇軍は悪名高い『皆殺しの骸竜族』と『嬲り殺しの屍鬼族』の連合軍である。いずれも大型の蜥蜴人だ。
ネルベス軍は最後の一兵にいたるまで鏖殺された。ゴルドランはただネルベス兵を殺すだけでは飽きたらず、一帯の軍民を虐殺し、残虐非道の限りを尽くした。
侵略はゴルドランの性である。ゴルドランは生きるために戦うのではなく、戦うために生きる。彼らは戦闘と殺戮の興奮を楽しむために戦争へと乗り出す。
血に飢えたゴルドランの侵寇は、大陸の歴史上、数知れず起きたこと。殺戮を堪能すれば撤退するものと誰もが考えていた。
ところが、今回は違った。国境を破ったゴルドラン軍はイリアネス国防の要である城郭都市マイサイを目指し進軍したのだ。
ゴルドランは魔茸が群生し恐獣が跋扈する『人喰らう森』の畔を野営地としていた。
ゴルドランの教義によると『人喰らう森』は死後の戦士の魂を迎える終の戦場であり、勇猛果敢な戦士は恐獣として生まれ変わるとされている。
『人喰らう森』は畏れを知らないゴルドランの唯一の禁足地なのだ。
イリアネスの人々もまた『人喰らう森』を禁足地としている。人が『人喰らう森』へ足を踏み入れれば、恐獣の餌食となってしまうからだ。
恐獣とは、魔茸が放出するマナの作用によって巨大化、凶暴化した獣の総称である。巨体の維持をマナに依存している為、魔茸の群生地である『人喰らう森』を離れては生きられない。
恐獣は血肉を好む。人が『人喰らう森』に足を踏み入れればたちまち血肉のにおいを嗅ぎ付け、補食しようと襲いかかってくる。
ゴルドランが『人喰らう森』の畔を夜営地とするのは、宗教的な理由のみならず、戦略的な理由もあるだろう。
イリアネス帝国第三王子ジュラリオは、裏をかいて『人喰らう森』よりゴルドラン軍の野営地を夜襲し、これを潰走させた。
イリアネスとゴルドランは、不倶戴天ともいうべき宿怨の間柄。ゴルドランはリヨ姉妹にとって一番の大敵で、報うべき宿怨がある。
この戦でリヨ姉妹は華々しい戦果をあげた。
『イリアネスの西の魔女』の異名をもつ姉アンリヨと、常勝の百人将として名を馳せる妹スズリヨ。二人は共に、ジュラリオ王子の信認を得て懐刀として活躍する精霊夢使いである。
アンリヨが先導に立ち、イリアネス軍は『人喰らう森』を越えた。アンリヨの宿す精霊夢は『誘う風の精霊夢』である。この希少な精霊夢は風の声を聞き、風の意志に語りかける。
アンリヨは恐獣の居所を把握し、風向きを変えることで恐獣の襲撃を防いだ。アンリヨの先導なくして、イリアネス軍が死傷者を出さずに『人喰らう森』を越えることはかなわなかっただろう。
スズリヨは百人隊を率いて骸竜族の精鋭部隊「鉤爪」と交戦、一騎討ちで軍団長『傷痕のひと』ルルヴルグを激戦の末に倒した。
スズリヨの宿す『漲る血の精霊夢』は、筋力や反射神経、五感などの身体能力を強化する。白兵戦に最も適した精霊夢である。
スズリヨの槍がルルヴルグの右太腿を貫き勝敗が決した。首級をあげようとしたところで、姉が窮地に立ったとの報せを受け、スズリヨは矢も盾もたまらず姉の救援へ向かった。
背にルルヴルグの怒声を浴びたが、省みることは無かった。掛け替えのない姉の命を他の何かと天秤にかけるなんて、スズリヨにしてみればとんでもない話だ。
スズリヨは、姉を捕らえようとした屍鬼族の軍団長『傷を抉る者』ガランボを討ち取った。姉は馬上より引き摺りおろされたときに打撲傷と擦過傷を負っていたものの、大事には至らなかった。姉の身体の心配をしていたら、姉に身体の心配をされてしまったスズリヨは、ゴルドランが撤退するや否や姉に捕まって、軍医の許へ連行された。
大の男に勝るとも劣らないスズリヨの大柄を抱えるようにして姉は先を急ぐ。姉の華奢な身体に負担をかけないよう、それでいて気を遣わせないよう、スズリヨは姉に凭れるふりをして、姉に歩調を合わせた。
軍医はスズリヨの甲冑の損傷状態ーールルヴルグの斬撃が右肩を掠め、肩当てと肘当てが消し飛んだのだーーを見て眉をひそめた。肩の裂傷は、精霊夢によって痛みと出血を抑えていたものの、かなりの深傷であった。
傷の縫合が始まると、スズリヨは手持ち無沙汰になった。じっとしているのは苦手だ。姉や軍医に話しかけると「治療中は大人しくしていなさい」と姉に叱られる。「退屈なんだよ」と唇を尖らせると、頬をつねられた。
姉はスズリヨを心配し過ぎる。気持ちは嬉しいけれど、スズリヨの心配をする、その半分で良いから、自分自身の心配をして欲しいと、常々、スズリヨは思っている。ついでに口にも出している。その都度、姉は「わかった。そうする」と言うけれど、口先だけの約束だ。
傷の縫合が終わるまで、ぼんやりとしているしかない。そうしていると、我知らず、敗戦の軍団長ルルヴルグに思いを馳せていた。
ルルヴルグはイリアネス語を解する骸竜族の戦士であった。
「精霊夢使いよ、名を名乗れ。貴様は真の戦士だ。このルルヴルグの心臓にその名を刻みたい」
一騎討ちの最中に流暢なイリアネス語で語りかけられ、スズリヨは内心驚いた。
ゴルドランは『獣吼』というゴルドラン共通語を用い、他国の言語を学ぶことはないはずだ。少なくとも、リヨ姉妹の故郷をほろぼした骸竜族はイリアネス語を解さなかった。
骸竜族は好戦的なゴルドランのなかでも特に白兵戦に長けた部族であり、従軍するのは選ばれし屈強の戦士たちである。そのなかで、ルルヴルグの存在は異質だった。
人の物差しではかるなら、魁偉なる大男である。しかし、身丈も身幅も、姉の倍はあろうかという巨躯を誇る蜥蜴人の集団においては、小柄で華奢な体つきとされるだろう。
蜥蜴人の容姿は二本脚で直立歩行する蜥蜴そのものだが、ルルヴルグの容姿は蜥蜴人と人の特徴を兼ね備えており、容貌は人そのものだ。
無造作に一つに括り背に流した鱗と同色の蓬髪と、遠山の眉、針のような瞳孔が目立つ瞳に被さる長い睫。それらは体毛のない蜥蜴人は持ち得ないものである。
一方、体表に散在する小片に分割された鱗は、人間は持ち得ないものだ。白磁の頬に食い込む黒々とした鱗は、一見すると頬当てのようである。首は疎らな、革鎧の隙間から見え隠れする胸は密な鱗に覆われている。
両腕は二の腕あたりで鱗がまばらになり、手首より先は人のそれである。下衣に遮られて目に見えないものの、下半身も上半身同様、肉体の末端の皮膚は鱗をもたないのかもしれない。
ルルヴルグは蜥蜴人と人との間に生まれた混血児なのではないだろうか。敵は軍民問わず殲滅するというのが骸竜族の信条であり、生存者を捕虜にするとは考えにくい。しかし、ルルヴルグは明らかに、蜥蜴人と人の身体的特徴を併せ持っている。父親、或いは母親となった人が、ルルヴルグにイリアネス語を教えたのだとしたら、流暢なイリアネス語も合点がいく。
骸竜族の鎧は刃や刺の装飾を施した革鎧である。鱗という自前の装甲をもつ骸竜族ならではの軽装備だ。同様の鎧を着用するルルヴルグの肌は無数の傷痕に埋め尽くされていた。『傷痕のひと』と呼ばれる所以だろう。
蜥蜴人の部族において、小隊長以上の地位にある戦士には、部族の首領より称号が与えられる。『傷を抉る者』や『穴を穿つ者』などがそれだ。
獣吼の『ひと』は、柔らかき者、小さき者を意味する。戦名は戦士の誉れとされるけれど『傷跡のひと』などと言うのは、あの勇猛果敢な戦士の出自を揶揄する蔑称にあたるのではないか。
ーーそんなことは、どうでも良いか
ルルヴルグは骸竜軍の精鋭部隊「鉤爪」を統率する軍団長であり、身の丈を越える大剣を得物とする剣術の達人である。スズリヨが知る限り、最も優れたゴルドランの戦士であり、いかにもゴルドランの気風を体現するような男であった。それが事実だ。出自が何だと言うのか。
そもそも、ルルヴルグの事情など知ってどうなるというのか。互いに生きながらえたからには、再び戦場で対峙することもあるだろう。そのとき、スズリヨがルルヴルグの事情を知っていたとして、討つべき敵将であることに変わりはないのだ。わかっているのに、考えてしまう。スズリヨは屹然とため息を吐いた。
ーー獣吼など解さなければ良かったな
獣吼を解する人間は少ない。スズリヨは姉から教わって、単語の意味をいくつか知っているだけだが、その知識すら珍しいものだろう。姉はゴソゾから学び、獣吼を習得したらしい。ゴソゾは故郷を失い途方に暮れていたリヨ姉妹を拾った商人である。
ゴソゾはリヨ姉妹を隊商キャラバンに招き入れ、不自由なく食事をとらせてくれた。身辺の雑事など手伝いをすれば、頭を撫でて褒めてくれたし、ご褒美だと言って甘いお菓子をくれた。異国の物語を読み聞かせてくれたし、肩車をして歩いてくれた。ゴソゾは優しかった。そうして遊んでもらっていると、決まって、アンリヨが何処からか駆け付けて来て、スズリヨをゴソゾから引き離した。
スズリヨが思いきりゴソゾに甘え、ゴソゾの意識がスズリヨにばかり向くので、アンリヨは妬いて拗ねている。優しいゴソゾを独り占めにしてはいけない。姉に譲ってあげなければ。幼いスズリヨは、そんな的外れな解釈をして、姉を気遣ったつもりでいた。
どうして、姉はゴソゾがスズリヨに触れるのを阻止しようと躍起になるのか。どうして、姉の寝所だけがゴソゾのテントに用意されるのか。
スズリヨはゴソゾを命の恩人だと思い、慕っていた。その正体が、夜な夜な姉に無体を強いるおぞましい獣だということを、知りもしないで。スズリヨは奥歯を噛んだ。
痛むかと軍医に訊かれて、スズリヨは我に返った。軍医の処置を受けている最中だったことを思い出す。
痛むか痛まないかで言えば、痛む。しかし、耐えられない程ではない。そもそも、姉が心配そうにこちらをうかがっているのだ。口が裂けても、痛いとは言えない。たとえ、致死の激痛に襲われたとしても。スズリヨは白い歯を見せて笑った。
「全然痛くない。寝てしまうところだった。先生、本当に縫ってくれてる?」
まぜっかえすと、軍医は鹿爪顔で頷き、あと三針で終わりだと言った。背後で姉が苦笑する。スズリヨは肩越しに振り返り、姉に微笑みかけた。姉の青ざめた頬に血の気が戻っているのを見て、スズリヨは胸を撫で下ろした。